この長い坂道の向こうには

Youlife

第1話

 長く寒い冬が過ぎ、一気に春めいた関東地方。

 東武日光線とJR両毛線が交わる交通の要衝・栃木駅で、小さなリュックを担いだ棚橋清人たなはしきよととその母まさは、栃木市郊外にある太平山のふもとへと向かう路線バスに乗り込んだ。


「おふくろ、どうしたんだ?俺のこと東京から呼び出して、急に太平山に行きたいなんて言い出してさ」

「去年父ちゃんが亡くなってさ。昔、家族みんなで太平山に行ったことを思い出してね。久しぶりに行ってみたくなったんだよ」


 江戸時代に水運で栄え、あちこちに蔵が残る栃木の街並みを進むバスの中には、終点に所在する私立高校へと向かう高校生がたくさん乗っていた。


「にぎやかだなあ。今は春休みだし、部活動にいくのかな?」


 ジャージ姿でにぎやかにおしゃべりに興ずる高校生を、清人は頬杖をついて見続けていた。


「何だいあんた。高校生が好きなんけ?」

「ち、違うよ!俺はガキは嫌いだよ。ちゃんとした自立した女が好きなんだ」

「だって、さっきからあたしじゃなく、女の子ばっかり見てるんだもん」


 まさ江は笑いながら清人の肩を叩いた。

 バスは終点にたどり着き、高校生たちは一斉に降りて行った。バスの中は清人とまさ江だけになった。


「さ、俺たちも降りるぞ、おふくろ」

「清人、あたし、太平山までちゃんと歩けるかな?」

「大丈夫だよ、俺がいるんだから。いざとなったらぶっていくよ」


 二人はバス停を降りると、ゆっくりとした足取りで緩やかな登り坂を歩き出した。

 四十八歳の清人は、今年で七十七歳になるまさ江の歩調に合わせ、普段よりも歩く速度を抑えて大股で歩いていた。


「あんた、昔からあたしのことをお構いなしに早足で歩いていくのに、今日はどうしちゃったの?」

「だって、おふくろを置いていけないだろ?俺も昔と違って少しは気遣いが出来るようになったからな」

「へえ、あんたらしくないな」

「うるせえな!ほら、ここから石段が始まるぞ。ここからがキツイから、慌てずゆっくり行くからな」


 二人は、大平山神社へと繋がる長い階段である、通称「あじさい坂」に差し掛かった。ここは千段にも及ぶ長い石段があるが、その長さゆえに、どこまでも途切れず無限に続くように感じてしまう。そして上に行くにつれ足がくたびれ、悲鳴をあげてくる。紫陽花あじさいが綺麗な初夏であれば沿道に植えられた紫陽花が行き交う人達の心を和ませ、疲れを気にする間もなく神社にたどり着くが、今日はまだ紫陽花も無く、二人は疲れを紛らすこともできないまま階段を踏みしめていった。


「おふくろ、大丈夫か?」

「ああ、大丈夫だよ。気にすんな。あたしのことなんか置いてってもいいから、先に行きな」

「バカ言うな!途中で倒れたり階段につまづいたりしたら大変だろ?」


 清人が心配そうにそう忠告した矢先に、まさ江は階段につま先がぶつかり、ふらついて後方に倒れそうになった。


「ほーら、言わんこっちゃない!」


 清人は身を挺してまさ江の背中を支えた。


「間一髪セーフだな。おふくろ、もう歳なんだから無理は禁物だよ。俺がそばにいるんだから、俺と歩調を合わせていけばいいだろ?」

「ふん!人を年寄り扱いして。昔はあたしと父ちゃんで、あんたが坂道を転ばないよう必死に見張ってたんだからね!」

「子ども扱いすんなよ。俺、四十八歳なんだぞ。もう間もなく五十なんだけど」


 清人は間一髪まさ江が倒れ込むのを助けたにも関わらず、まさ江に開き直ったような言葉を投げつけられて憮然とした。けれど、清人が子どもの頃、この坂の階段ではしゃぎすぎて疲れて途中から登れなくなったり、足を石段にぶつけて転んだことがあったのは確かだ。

 清人はまさ江の隣に寄り添うように歩くと、リュックのポケットから塩飴を取り出し、まさ江に一つ与えた。


「これ舐めるといいよ。塩分補給になるからさ」

「ふーん、どうもありがと」


 まさ江は飴を舐めながら、ゆっくりとした足取りで階段を一つ一つ踏みしめて行った。


「何だこの飴、ゴミ臭いね。あんたの手の臭いけ?」

「そうだよ、悪かったな。今はゴミ収集の仕事をしてるんだよ。何べんも手を洗ってもなかなか臭いが落ちないんだよ」

「え?俳優になったんじゃなかったの?どうしてゴミの収集作業なんかしてるの?」

「うるさいな、何をやろうが、俺の勝手だろ?」

「あんたさ、高校の頃夜中にバイク乗り回したり、眉毛を剃って髪の毛を逆立てたりして、あたしは学校に何度も呼び出し食らったんだよ。あたしが注意したら、あんたは家出同然に東京に行ったじゃないか。俺は東京に出て、有名俳優になってやるっていってさ。それがまさか、東京でゴミ集めやってるなんてね。笑っちまうよ」


 まさ江は白い歯を剥きだしにしてケラケラと笑っていた。清人は正直腹が立ったけど、まさ江相手に何も言い返さず、頭をかきながら極まりの悪そうな顔をした。


「あの頃の俺はイキがってただけだよ。東京に出て俳優になるって本気で思ってたからな」

「でも、しばらくは音信が無かったからさ。どうしたんだろうね?と父ちゃんも親戚もみんな心配してたよ」

「誰とも話したくなかったし、田舎に住む家族や親せきとも話したくなかった。心の整理がつくまではな」


 清人はあまり思い出したくないのか、まさ江に顔を向けず真正面を見据えながら話し続けた。その時、清人の目に大きな門の姿が飛び込んで来た。


「おふくろ、もう少しだぞ。本殿に続く門が見えてきたからな」

「ああ、ホントだ。まさかここまでたどり着くなんて思わなかったわ」


 徳川吉宗とくがわよしむねが建立した随神門ずいしんもんまで来ると、山頂にある太平山神社までもう少しだ。

 門の前にはふもとから山頂付近まで続く「遊覧道路」があり、花見を楽しむ車が列をなして次々と二人の前を横切っていった。

 太平山に行く前に、清人はここまで自家用車で来ることを提案していたが、まさ江は首を横に振り、自分の足でここまで来たいと言い張った。


「おふくろ、何でここまで自分の足で来たいと思ったの?俺の車で来ればこんな苦労しなくてもすぐ来れるのに」

「バカたれ!あたしたち家族が太平山に行くときは、必ず自分の足で登らないとダメだって父ちゃんもいつも言ってたじゃないか?」

「それはもう大昔の話だよ。おふくろ、足がガクガクして、息を切らしてるじゃん。昔若かった頃の話じゃなくてさ、現実見ろっての」

「お前分かってないねえ。山頂まで上りつめた時に見る風景の素晴らしさと、アレを食べた時の美味しさは、自分の足で登らないと味わえないんだよ」

「アレ?」

「忘れたんか?もういいわ」


 やがて二人は、大平山神社にたどり着いた。

 平安期に建立されたというこの神社は、日の神であり命を育む「天照皇大御神あまてらすおおみかみ」、月のように人々に安らぎを与える「豊受姫大神とようけひめのおおかみ」、星のように人生の道案内をする「瓊瓊杵命ににぎのみこと」の「日・月・星」の三座の神様をお祀りしている。


「これからも、ここの神様が私らを守ってくれるよ。清人が反抗したり、父ちゃんがあたしより先に死んだりと、辛いことが沢山あったけど、ここまであたしを導いてくれたのはここの神様だから」

「悪かったな、反抗ばかりする悪ガキで」


 清人はむくれながら、まさ江のとなりで両手を合わせていた。


「ところで清人、あんた、もうそろそろ身を固めたらどうなんだい?」

「はあ?なんだよいきなり」

「だってあんた、もうすぐ五十だんべ?いい加減、孫の顔を見せてくれよ。あたしは孫の顔を見たいって拝んどいたから、あんたもちゃーんと拝んで行けよ」

「余計なお世話だ!俺はこのまま独身でいいよ。こんなゴミ臭い男と結婚する女なんかいるもんか」

「いや、孫の顔を見るまであたしは絶対に死ねないよ」


 そう言うと、参拝を終えたまさ江は、足取りも軽く展望台の方向へと歩き出していった。ここからは、広大な関東平野を一望できる上、天気が良ければ筑波山まで見ることができる。


「見ろ!清人。やっぱりここからの景色は最高だんベ?」

「ま、まあな……」


 今日は雲一つない天気で、真下には山頂へと続く遊覧道路に沿って、満開の桜並木がトンネルのように連なっていた。この桜並木も、太平山の名物の一つである。


「車で来れば、あの桜並木も楽しめるのによ。俺たち、あのキツイ石段をヒイヒイ登って下って、何にも面白くねえだろ」

「でも、あたしは楽しかったよ。石段は果てしなく長くきついけどさ、それが良いんだ。普段はなかなか顔を合わせて話すことのないあんたと、色々話をしながらここまで登ってこれたことが、あたしにとっては桜並木を見るよりずっと楽しかったんだ」

「おふくろ……」

「さ、腹減ったべ?アレ食うべ。アレ食わないと、ここまで必死こいて登ってきた意味がないからさ」


 二人は展望台付近に軒を連ねる店に立ち寄ると、メニュー表に書かれた様々な食べ物の中から、迷うことなく「アレ」に指をさした。


「すみません、焼き鳥と団子、それに卵焼きをお願いします」


 二人は店で買った「太平山の三大名物」と言われる焼き鳥、団子、卵焼きを持って、近くのベンチに腰掛けた。


「久しぶりに食べたけど、やっぱうめえな。特にこの焼き鳥がうめえんだよな。見た目普通なのに、どうしてなんだろ?」

「山を登って腹が減ってるからかな?濃厚なタレがついた焼き鳥が、自分ん家や飲み屋で食べるよりもずっと美味しいって思うんだよね」


 まさ江が美味しそうに串にささった焼き鳥を頬張ると、満足そうな顔を清人に見せてくれた。清人が子どもだった頃は苦労ばかりかけて、あまり笑ったことのなかったまさ江だったけど、この焼き鳥を頬張る時の顔は本当に清々しかった。


「はあ、食った食った。さ、帰るべ。帰りももちろん歩きだよ。あんたと話したいことがいっぱいあるからよ」

「はいはい。わかりましたよーだ。結婚の話以外ならいくらでもどうぞ」


 清人は憎まれ口を叩きながら笑うと、満足げな様子でどんどん先へと歩きだすまさ江の後を追うように歩き始めた。


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