明日のための腹ごしらえ

空草 うつを

焼き鳥

 シャッターが閉められた店舗が続く通り、所謂シャッター通りには、夕方になると炭火と醤油ダレの食欲をそそる美味しい匂いがたちこめる。

 仕事帰りの疲弊した体は、その香りの誘惑に抗えない。

 匂いにつられてたどり着くのは、シャッターとシャッターの隙間にこっそりと赤い暖簾を出す焼き鳥屋。


 八人掛けのカウンター席しかない小さな店に出入りするのは常連客がほとんど。カウンター越しに店主が手際よく焼き鳥を焼く様は、絶景だ。


 私がこの店に行くのは月末と決めている。

 朝から晩まで身を粉にして働き、一か月の激務に耐えた自分への労い。そして、鼓舞のためだ。また明日から始まる次の一か月を乗り切る栄養補給。


「ねぎま、かわ、ぼんじり、つくね、お待ち」


 寡黙な店主から皿を受け取る。炭火で焼かれた香ばしい肉の匂いと焦げた秘伝のタレの匂いが、鼻から入って体中を駆け抜ける。もうこの体は焼き鳥しかいりません、早く焼き鳥をどうか焼き鳥を、と臓器達がせがんでいる。

 つくねを口に頬張れば、待ってましたと舌が歓喜する。


「美味しい……」


 頬が緩むのも仕方ない。だって本当に美味しいんだから。


『焼き鳥が食べたくなるのはね、遺伝なのよ。日本人は遺伝子レベルでそう感じることに決まってんの』


 ふと頭に蘇るのは先輩の声。

 この店を紹介してくれたのは、その先輩だった。



 今年の四月、新入社員だった私はがむしゃらだった。新人なんだから苦労は買ってでもしなければと。来るもの拒まず、次から次へと舞い込む仕事を全部抱え込んだ。

 寝食すら惜しんで働き続けた私の前に、先輩が立ちはだかった。


「はいそこまでーっ。ドクターストップならぬ、先輩ストップだぞー」


 まだ仕事が終わっていないと喚く私をこの店に引きずりこんで、席に無理矢理座らせ、勝手に注文をしてしまう。


「ささっ、今日は私の奢り! たーんとお食べ! どうせ何も食べてないんでしょ? こんなに痩せちゃって。あーああ、若いんだから目の下にクマなんか飼うもんじゃないのっ」


 先輩が頼んだのは、ねぎま、かわ、ぼんじり、つくね。眠気も空腹さえも分からない程に疲れ果てた体に染み込む深い味と柔らかさに、私は泣いていた。

 気づかなかったんだ。下手したら、あと数分でも遅れていたら倒れる寸前だったこと。先輩だけが、私の体が発しているSOSに気づいてくれた。


「泣いてお腹が満たされたらすっきりしたでしょ。疲れたなぁー、でも明日から頑張りたいなぁーって時にここに来て焼き鳥を食べるといいよ。私もいつもそうしてるからさ」


 先輩は仕事ができて上司からの信頼も厚い、男性社員からも一目置かれているパワフルな人だった。それでいて、私みたいなヘタレな新人にも気を配ってくれる。

 同じ女性として、ビールジョッキを傾けて豪快に喉を鳴らしながら飲むパンツスーツ姿の先輩がカッコよくて。

 次の日から私もパンツスーツで出勤すれば、先輩は嬉しそうに笑って「今日も一日頑張りまっしょい!」って背中を思いっきり叩いてくれたっけ。



 懐かしいな、と串の奥に刺さっていた最後のネギを唇で先頭まで運んでから口に入れた。

 でも、何で焼き鳥だったんだろ。結局それは聞けずじまいだった。

 三か月前、先輩は亡くなった。出張先から戻る途中に事故に遭って。



 行儀が悪いと言われるかもしれないけど、名残惜しくて串をしゃぶった。串にこびりついたタレが美味しくて、つい癖でやってしまう。

 まだこの店を出たくなかったからかもしれない。焼き鳥の匂いに包まれている時は、辛い仕事のことを忘れることができるから。


(明日からまた仕事か……やだな……)


 ネガティブな感情がよぎった時、ばしんと私の背中を何かが強打して背筋がぴんっと伸びた。

 誰の仕業かと振り向いてみても、背後には壁があるのみ。八人掛けのカウンター席には、私と、一席空けて男性客がぽつんと座っているだけだ。


「気のせい?」


 首を傾げながら背中を摩ってみる。

 叩かれた感触に覚えがある。何故か懐かしくて、ネガティブだった気持ちが即座に消え失せてしまったのだから不思議なこともあるものだ。


「大将、お勘定を」


 釣り銭のないように店主に手渡して店を後にした。スーツに染み付いた炭火の残り香を辺りに撒き散らしながら、明日からまた頑張れそうだと前を向いて家路に着いた。



###



 女性が店を出たのを確認すると、パンツスーツの女性が僕の隣にどかっと腰をかけてきた。実際音は出なかったけれど、それほど勢いがよかった。


「まーったく、くよくよしちゃって。これじゃ死んでも死にきれないっつーの」


 長い髪をかきあげて、ひとつため息を吐き捨てる。


「それにしても、さっきは豪快な振りでしたね」

「まあねー。これでも昔、ソフトボールのエースピッチャーだったのよ?」


 覇気のなくなっていた後輩の女性の猫背目掛けて、女性は思いっきりビンタをかました。もちろんその手は背中に当たることなく透き通ってしまっていたが、風圧を感じたのだろう。

 瞬く間に後輩の女性は背筋をしゃんと伸ばして、不思議そうにきょろきょろ周りを見渡していた。


「良かったんですか? 彼女と写真を撮らなくて」


 鞄に忍ばせていた二眼レフを取り出すと、女性は手をひらひらさせながら笑った。


「いいの、いいの。一緒に写真なんて撮ったらあの子、絶対泣いちゃうでしょ。苦手なのよね、そういう湿っぽいの」


 寡黙な店主は、目の前で焼き鳥をくるりくるりと回している。その様子を飽きもせずに見ていた女性は、まるで独り言のように言葉を発していく。


「焼き鳥ってさ、ここぞという頑張り時に食べるものだと思ってて。関東大震災が起こった時とか、第二次世界大戦で負けた時とか、闇市では焼き鳥屋が数多く並んだんたって。地震や戦禍で何もかも失って絶望しか残ってなくて途方に暮れただろうに……ゼロからここまで復興できたのも、焼き鳥を食べて『よし、頑張ろう』って奮起したからなんだよ、きっと」


 だから、焼き鳥は前を向きたい時に食べるのにうってつけ。そう言って彼女は座ったまま僕と真正面で向かい合った。


「そんなわけで、私が一緒に写真を撮りたいのは焼き鳥! あの世で何が待ってるか分からないけど、焼き鳥食べて立ち向かってやろうじゃない。さ、撮ってちょうだいな。あの子の背中を叩けてもうこの世に未練ないし」


 足を組んで、カウンターに肘をつく。二眼レフを取り出して胸の前で構えると、女性は「どっちのレンズ見ればいいの? 上? 下? ちょっと難しくない!?」と苦笑した。


「美人に撮ってよね? 見ての通り、モデルは良いんだから」

「善処します」

「じゃあ、よろしく」


 今まさに焼かれている焼き鳥をバックに笑う彼女にピントを合わせる。切ったシャッターの音と彼女は、炭が跳ねた音と共に煙のように消えていった。



(完)

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