二幕目 輪廻を映す鏡③

「由比君……お待たせしました」

 屋上に辿り着き、和歌子はひかえめに声をかけた。やっぱり、緊張する。そろりと歩いたのは、筋肉痛のせいだけではない。

 屋上には何人か他の生徒もいたので、和歌子はしりみしてしまう。たいてい男女二人組。お互いの会話が聞こえない程度に間隔を空けて……いわゆる、カップルのたまり場となっていた。みんな親密そうな雰囲気で、お弁当を食べている。

 和歌子は二の足を踏んだ。

「こっちだよ」

 屋上のフェンスにもたれかかった静流が、和歌子を呼んでいる。

 なにもないのに、なぜかお花が飛ぶ幻覚が現れた。いい香りまで漂っている気がして、和歌子の胸がドキリと高鳴る。

「う……うん……」

 和歌子は小さく返事をしながら、静流の隣に立つ。

「あのさ」

「はいッ」

 一瞬、なにが起きたのかわからなかった。

 ガシャンッと、フェンスの音。

 和歌子の前に、静流の身体が立ちふさがった。退路を断つように、フェンスに片手をついて、和歌子を見おろしている。壁ドン、いや、フェンスドンだ。

 近くで見る静流の顔は本当に綺麗で……この距離なのに、やはり毛穴が見えないとは、どういうことだ。ひとみは真っ黒なのに大きくて、吸い込まれそう。やばい。力が足りない。

 和歌子の身体能力があれば、抜け出すのはやすい。が、あいにく筋肉痛も手伝って、反応が遅れてしまう。

「昨日、吉沢さんと一緒に帰った?」

「――――ッ」

 和歌子は動揺を隠せなかった。それを見逃さず、静流はさらに顔を近づける。今の反応で、「はい」と言ってしまったようなものだ。

 和歌子の前髪が、吐息で揺れた。

 屋上はカップルスペースだ。周りもイチャイチャしていて、誰も和歌子たちの距離を不審に感じていなかった。

「君が持っていたのは、薄緑?」

 言い逃れができない。

 牛渕神社に薄緑がまつられているのは、秘密でもなんでもなかった。ただ、ちょっとさん臭い扱いをされているというだけで、ネットでも調べられる。だから、牛渕神社の本殿から持ち出した太刀を薄緑と結びつけるのは、誰だってできることだ。

「由比君も、あそこに……?」

 静流の指が、和歌子の髪に触れた。近すぎる。

「彼女にいていたから」

 武嗣と同じ理由だった。それで、明日華と和歌子を学校から尾行していたのだ。

「由比君にも、見えてたの……?」

「静流でいいよ」

 静流がようえんな微笑を描く。その顔が魅惑的で、吸い込まれそうな魔力を持っていた。

「綺麗だった……本当に、本当に……全部一緒だ」

「ゆ、由比君?」

「静流って呼んでよ」

 和歌子は、なんとか静流から顔をそらした。遠くに鶴岡八幡宮の本宮が見えるので、そちらに視線をあわせて気を紛らわせる。

「それとも、しずかのほうが呼び慣れておりますか。九郎様」

「え――は?」

 静流は、ぶらんとお留守になっていた和歌子の手をにぎった。そして、よりいっそう、明るくて無邪気な笑みを咲かせた。

「静です! あなたは九郎様でしょう!?」

「え……えええええ! またこのパターン。飽きた!」

 思わず、叫んでしまった。

 静――静御前は義経が囲っていためかけの一人である。たいの白拍子と名高く、美しい女性だった。

 白拍子とは、舞をなりわいとする女性のことだ。男装姿で、今様の音楽にあわせて歌を詠み、踊る。

 義経が静御前を見初めたのは、京都のしんせんえんで彼女があまいの舞を披露したときだ。百の経を読み、九十九の舞をささげても変わらなかった空が、静が舞った途端、雨をふらせた。その雨乞いの功績をもつて、彼女はしらかわほうおうより日本一の白拍子と評されたのだ。

 義経には、さとぜんという正妻がいたが、なにせ今とは文化が違う。当たり前のように、何人かの女性と関係があった。この静をあいしようとしたのには、諸々もろ込み入った事情があったものの、結果的に子もできていた。

 現代の倫理観とはズレているが、妻の他に女性を囲うのは悪いことではない。むしろ、身分のある人間なら、一般的であった。

よしやま 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

 静流が綺麗な声で唱えたのは、静が舞ったとされる歌だ。

 義経が頼朝から追われて落ち延びる際、静も一緒についてきた。しかし、途中で別れて頼朝に捕らえられてしまったのだ。

 稀代の白拍子と名高かった静は、頼朝から舞を命じられる。鶴岡八幡宮で、静は頼朝の求めに応じたが、そのとき詠んだのが義経を恋い慕う歌だった。

 頼朝は激怒するが、妻のほうじようまさこのはからいで許されたという逸話が有名だ。和歌子の記憶にない歌だが、生まれ変わったあとの世で知った。

 この時点で、静は義経の子を妊娠していた。頼朝は恩情をかけ、女児なら生かすが、男児なら殺すという条件を提示した。けれども、あいにく、生まれたのは男児。赤子ははまに沈められ、その後、静の消息も不明と伝えられている。

 義経を生涯想い続けた悲運の女性として、現代まで語られる人物だ。

「お久しぶりです!」

「なんで、由比君も敬語になっちゃうかなぁ」

「ぜひ、静と」

「せめて、今の名前で呼ばせて! 静流君でいいよね!?」

 たしかに、義経としての記憶に残る静は、こんな感じだった。

 他人には澄まし顔で、ツンとしていて気位が高いけれど、義経の前では乙女のようなれんな一面を見せた。そして、よく世話を焼いて……姉みたいな甘やかし方をされた思い出がよみがえる。

「もう……お会いできないと思っていましたよ。お一人で寂しくなかったですか? おつらい経験もされたのでしょう。ああ、なんておいたわしや」

 静流は、和歌子の乱れた髪をていねいに整えてくれる。制服の襟もピシッと伸ばし、糸くずも取り除き……お母さんかな。

「でも、ご安心を。こうして、静は男に、あなた様は女にお生まれになった……今世では、たっぷりと甘やかしますよ。私が千でも億でも稼ぎますから、学校を卒業したら働かず、静のヒモになってください」

 そういえば、静流はフィギュアスケートの選手である以前に……全国にチェーンを展開するスポーツジム会社の御曹司だ。前に、ワイドショーでやっていたが、とんでもない大金持ちらしい。スケート選手を引退しても、お金なら充分にあるだろう。

「おかしい、おかしい、おかしい! 文脈つながってないし、なんでわたしヒモなの」

「専業主婦という言い方は多様性を重視する現代社会では時代遅れです。そもそも、あなた様は家事も仕事もする必要がないので、ヒモが適当かと」

「なにその配慮してるのか、配慮してないのか、まったくわからない理論」

「では、ごくつぶし、と」

「それもっとひどくない?」

 甘やかし方が……静のときより、エスカレートしている……和歌子は、ピクピクと顔を引きつらせた。

 だいたい、和歌子はもう義経ではない。前世は前世。今世は今世。今の人生に、前世の記憶が生えている程度の認識だった。

 それなのに、静流も武嗣も、なぜだか前世の記憶ばかりか、感情や人格を引きずっている。静流にいたっては、和歌子と同じように性別が変わっているのに。

「今世では幸せになりましょう。私があなたをかんぺきなヒモにしてみせます」

 氷の王子様と同一人物か疑わしいキラキラスマイルで、静流が和歌子の顔をのぞき込む。

「いや、同級生から敬語は、ちょっと……それに、今は名前も違うし……」

「タメ口を許可してくださるのですね。恭悦至極です」

「うん、まあ……そうなるのかな? あと、近い。離れて。怖い」

 武嗣と違って、静流はすんなりと一歩さがってくれる。

「たしかに、これから僕のヒモになってもらうんだから、敬語なんて無粋だよね」

「いや、ヒモおかしい。ヒモにはならないから」

 というより、これって……おつきあいどころか、事実上のプロポーズなのでは。それに気づいて、和歌子は顔がカアッと赤くなっていくのを感じた。

 そんな和歌子の頬に、静流がゆっくりと手を伸ばす。

 途端に、和歌子は怖くなってくる。

「…………!」

 無意識のうちに、和歌子は静流の横をすり抜けて走り出していた。

 けれども、和歌子の足が激痛にさいなまれる。

 こんなときに、ったようだ。両足がもつれ、身体が前へと傾いていく。

「やっと見つけた」

 ごつん。と、和歌子の顔がぶつかったのは、屋上のコンクリートではなかった。硬いことには、硬いが……。

「な、な、ななななな」

 見あげると、武嗣の顔があった。

 武嗣の胸に飛び込む形になっていたと気づいて、和歌子は慌てて身を引いた。筋肉痛が治っていないので、カクカクした動きである。

「探しましたよ。危ないので、あまり目の届かない場所へ行かないでください」

 当然のように言い放たれると、なんだか申し訳なくなってくる……って、わたしなにも悪くないけどさ!

「危ない? 誰が?」

 武嗣と対立するように、静流が前に歩み出る。

 向かいあった二人にはさまれて、和歌子は文字通り右往左往してしまった。

「なんというか……前世でも、いろいろ口うるさかった気がしますけど、また邪魔する気ですか?」

 静流はにこにこと愛想笑いをしながら、武嗣を挑発した。彼は、昨日のできごとを盗み見している。武嗣が弁慶の生まれ変わりであるのも、把握済みのようだ。

 一方、静流が静であると知らない武嗣は、まゆを寄せている。

「武嗣先生、静流君は……その……静御前です」

 つい、「静」と呼び捨てるのに抵抗を覚えて、一般的な「静御前」と呼んでしまう。

 和歌子からの短い解説だけで、武嗣はすぐに納得してくれた。

「なるほど。それで、今世でもたぶらかそうと?」

「たぶらかすー? なにをおっしゃるんですか、先生。僕たちは、運命で結ばれた恋人ですよ」

 歯が浮きそうなセリフなのに、静流が言うと板についているのは、なぜだ。恐るべし、顔面王子様。

 静流は真っ向から武嗣を挑発しているし、武嗣も静流を威圧している。間にはさまれて、小さくなっている和歌子のことも考えてほしい。

「この方は、俺が結婚して御守りする。心配は無用だ」

「いいえ、静のヒモになるんです。必ず、幸せにしてみせます」

 どっちも、許可した覚えはないんですけど! 和歌子など放って、二人で勝手ににらみあっていた。

「それとも、教師の稼ぎで妻を一生、働かせず養う自信があると? まさか、九郎様に共働きを強いたりしませんよねぇ?」

「な……!」

 静流の露骨すぎるあおりに、武嗣が視線をそらした。

「九郎様は普通の生活をお望みだ。ぜいたくばかりが幸せとも……一度でも、社会に出たほうが今後の役に……」

「せめて、年収一千万以上稼いでから、幸せとか贅沢とか語ってもらえますか。先生」

「いっせんまん」

「僕はもっと稼ぎますけど」

 煽り方、怖い。その煽りは他の男も殺すよ、静流君。武嗣ばかりではなく、和歌子の表情筋もけいれんする。

 しかし、スポンサー企業が何社もつき、CM出演も果たしている静流なら造作もないセリフだ。おまけに、実家は大手企業のトップ。将来は堅い。

「とにかく、俺が」

「いいえ、僕が」

 武嗣と静流が交互に主張する。

 和歌子はぼうぜんとながめて、頭を抱えた。

「いや、どっちも、その……結構です……」

「遠慮しないでください」

「そうだよ、僕のヒモになってよ」

「遠慮なんてしてないー!」

 小さくなりながら主張する和歌子の言葉など、当然のように却下されてしまう。

 元従者と、元めかけの二人は向きあったまま、怖い笑顔でバチバチと視線を交わしていた。なにもしていないのに、火花が見える。

 普通に生活したいだけなのに……どうして、こうなるのかなぁ。

 自分の置かれた境遇に、和歌子は心底嫌気が差した。



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転生義経は静かに暮らしたい 田井ノエル/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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