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 家庭教師のバイトは、一回二時間で週二回、掛持かけもちも考えたけれど、一件だけにしておいた。家庭教師が終わったら、その足で夜のバイト『フェリイチェ』に行きたかったが、時間があうものがなかったこともあって、初年度だし欲張らないでおこうと、懐空かいあは思い直した。もともとフェリイチェでの収入だけでも充分だった。



 仕送りをしてくれる約束をしていた母は、懐空のアパートの家賃を見て、

「こんなに安いところ、よく見付けたわね」

と、なかあきれたように笑った。

「ちゃんとトイレとお風呂が別、かなり古そうだけど、うん、これなら上出来」

そして、家賃はわたしが出すわ、その代わり仕送りはナシね、と言った。


 仕送り予定の金額より、家賃のほうが高い。そんなのダメだと懐空は言ったが、毎月送金するのは面倒だ、と家賃の引き落としを母の口座にしてしまった。アパートの契約者は母だ。母の意向に逆らうわけにはいかなかった。


 電気ガス水道も母が契約してしまい、支払いも母持ちにした。

「キミはね、まだわたしの扶養ふよう家族なの。それを忘れないでね ―― キミのために貯金していた分を回せば余裕よ」


 僕はどれほど母に感謝すればいいのだろう、と懐空は思った。母の生活は、常に懐空が中心にえられていた。運動会や授業参観、そんな学校行事に母が来なかったことはない。


 懐空が学校を休まなくてはならないほど体調を崩した時、小学生のうちは必ず仕事を休んで付き添ってくれた。中学生になるころから、体温や懐空の様子を見て、仕事に出かける事もあったが、それでも辛かったら連絡するよう言いおいていた。


 高校生になると『彼女、まだできないの?』と、よく懐空を揶揄からかった。そして、ときどき『母さんが死ぬまでには自分の家族を持ってよ』と、口にするようになった。


 母の子育てのテーマは『自分の足で立って生きて行けるようにする事』だと口にし、懐空を甘やかすことはなかったが、懐空は母から常に愛情を受け取っていたと思う。この母で良かった、と思わずにいられない。


 母は大丈夫なんだろうか、と心配だったが、『今はまだ』僕の心配を母が受け取る事はないと懐空は思った。無理はしない、が母のモットーだったし、それを信じるしかないと思った。母一人子一人で、母親が倒れたら誰が子を守る? 無理をしない理由を、そう母は笑いながら言っていた。


 お陰で懐空の一人暮らしは、フェリイチェでバイトしている限り、経済的な心配はなかった。けれど懐空は忠司ただしに誘われた鹿児島行きを断った。


 飛行機代が出せないと思った。母が倹約して、それで僕に余裕がある。その余裕を『遊び』に使えない、と思った。


「そんな事言わないで、一緒に行こうよ」

「誘ってくれるのは嬉しいけどさ、忠司、向こう行ったら友達と会うんだろ?」

「そりゃそうだな、うん」

「そしたら忙しくって、僕の事はほっとくのが目に見えてる」

「いやいやいや……懐空、旧友に焼きもち妬いてくれるんだ?」

嬉しそうに忠司が笑う。


「そんなんじゃないよ」

ムキになる懐空をさらに笑ってから、

「俺さ、懐空を友達に紹介したいんだよ」

と言った。


「東京にも、こんなに純粋なヤツがいるんだぞ、って友達に見せたいの」

「なんだよ、それ?」

「俺さ、田舎いなか育ちだろ。東京が怖かったんだよ。すごくビビってた。馬鹿にされるんじゃないか、とかね」


 懐空はその俺を安心させてくれた。うそを言わないし、自分を飾らない。真っ直ぐで、他人ひとを偏見で見る事もない。

「大学で俺は、こんないいヤツと友だちになったぞ、って幼馴染おさななじみたちに自慢じまんしたいんだ」


 忠司は言葉ことばたくみにだまくらかそうとしているわけじゃない、と懐空は思った。本当にそう思ってくれているんだ……


「判った、でも今年はだめだ。来年、それまで貯金する」

「しょうがないなぁ……その貯金、『忠司貯金』ってするなら許してやるよ」

「え? それは勘弁かんべんしろ!」

二人で笑いころげて、この件は終わりになった。


 夏休みに入り、家庭教師のバイトも始まった。


 家庭教師の生徒は中学一年生で、おとなしい男の子だった。人見知りしがちな懐空はかなり緊張して最初の授業にいどんだが、一時間も過ぎないうちに、懐空以上に生徒が緊張している事に懐空は気が付いた。


 そりゃそうだよね、こないだまで小学生だった。家庭教師を頼むのは僕が最初だと言っていた。この子が緊張するのももっともだ、そう懐空は思った。


 不思議なことに、それが懐空の緊張をいた。怖がっているのは自分だけじゃない、それが安心させてくれたのかもしれない。


 懐空がリラックスして授業を進めるようになると、生徒の緊張も次第にほぐれていく。なるほど、そう言うことなんだ。懐空は家庭教師のバイトをしてよかったと思った。きっとこの経験は僕の未来に続いていく、そう思った。その日の授業が終わる頃には、生徒とある程度は打ちけあえた、と懐空は感じている。


 生徒の家族も親切で、既定の時間を終えて帰り支度じたくを始めた懐空に、夕飯には少し早いけれど、食事をしていくように声をかけてくれた。有難ありがたかったが次のバイトがあるので、と懐空は断った。生徒の母親は残念そうな顔をした。僕は他人ひとに恵まれていると懐空は思った。


 麗奈れなは夏休みに入ると大学の図書館に通うようになっていた。そこで勉強する懐空に会うためだ。


 大学の図書館は冷房が効いている。アパートには作り付けのクーラーがあったが、電気代の節約も兼ねて懐空は図書館に通っていた。だが、直接の理由は別の物だ。


「ねぇ、うちで勉強しない?」

と、麗奈はときどき懐空にそう言ったが、懐空は笑って誤魔化ごまかしていた。


「それじゃあさ、懐空の部屋に遊びに行きたい」

 これには、はっきりとNOと答えた。


「うちのおんぼろアパートになんで行きたがるかな」

「そりゃおまえ、二人っきりになりたいからだろ」

 懐空の愚痴ぐちを、やはり図書館で勉強している忠司が笑った。

「まだ『覚悟かくご』が付かないのか?」

「……」

どうなんだろう、と懐空は自問する。


 麗奈が自分の部屋に来るのを拒む最大の理由はそこじゃないと懐空は思った。隣の部屋から聞こえるを、麗奈には聞かせたくない、部屋に行きたいと麗奈が言った時、真っ先に懐空が思ったのはそれだった。


 あれ以来、愛実あいみの部屋には頻繁ひんぱんに男の出入りがあった。それは深夜の事もあったし、愛実が休みだと言った土曜や日曜は昼間の事もあった。金曜の夜から土曜、日曜にかけての時もあった。


(ボロアパートめ……)

 聞きたくなくても聞こえてくる音は、そのたび懐空を悩ませた。とうとう懐空はイヤホンをするようになったが、イヤホンをしたまま眠って、翌日、ひどい頭痛に悩まされ、眠る時にはイヤホンを外すことにした。そして勉強は図書館ですることにした。


 いわば自分の部屋から逃げているのに麗奈を連れていけるもんか、懐空はそう思った。


 八月の初め、フェリイチェのバイトから帰ると、二階の外廊下に人影があった。愛実の部屋の前だ。


 いかにもサラリーマンと言った風情ふぜいの男は愛実の部屋の前で愛実の部屋のドアを、ただじっと見つめている。

(樋口さんが帰るのを待っているんだろうか……)


 きっと愛実の相手の男だ、懐空は自分の部屋の鍵を開けながら男をチラリと見てそう思った。


(樋口さんの相手にしては、オジさんだな)

男は四十は過ぎていそうだ。


 また不倫じゃなければいいけど。泣くのは樋口ひぐちさんなんだから。懐空はそう思った。

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