7

 毎日のように雨が降り、桜の葉もなんだか寂しそうに見える。雲にさえぎられ、日光不足で光合成が足りないのかもしれない。サクラ猫のサクラが姿を見せる事もない。


 今年の梅雨つゆは本格的だ、でも、そろそろ終わりかな? 梅雨明けっていつ頃だったっけ? そんなことを連々つらつらと思いながら懐空かいあは自室の窓から桜の木をながめていた。


 もうすぐ大学も夏季休暇に入る。ランチタイムのシフトにも入れて欲しいとマンマに頼んだけれど、ランチタイムはバイトなしでやってるの、ごめんね、と申し訳なさそうにマンマは言った。


「お母さんに顔を見せに行かないの? バイト、休まなきゃ行けないなら遠慮なく言うのよ。判った?」


 休みの間、昼間はやる事がなくなった。そこで休みの期間だけのバイトを探し、大学の掲示板に家庭教師のバイトを見つけた。


「中学生相手の家庭教師? 中学生って生意気そうだな。俺はかなり生意気だったぞ」


 一緒に鹿児島にいかないか、と忠司ただしは懐空を誘っていた。

「田舎だけど、いいところだよ。もっとも俺の家は山の中で何にもないけどね。あぁ、牛がいる」

「酪農家なんだ?」

「いや、農家って言えば農家なんだけど、牛は二頭いるだけ。売る目的で育てるんだ、祖父じいちゃんと祖母ばあちゃんが。それと少しだけ畑やってる」


 親父とお袋はサラリーマンだよ、祖父母が死んだら農家はやめる。忠司は少し寂しそうだ。

「彼女にも会せるよ。千佳ちかって言うんだ。可愛いぞ、びっくりするなよ」

八月、お盆の時期に帰省する。だから考えておいてよ、と忠司は言った。


 麗奈れなの実家は片道一時間ほどで行けるらしい。どうしても一人暮らしがしたい、そんな我儘わがままを、月に二回は帰る約束で許してもらったと言っていた。だから夏休みだからって、わざわざ帰ったりしないと言った。


 お願い、泊まって……麗奈の思いに懐空はうなずけなかった。まだその時じゃない、そう思った。

「ごめん。まだ覚悟が付かない」

「覚悟?」

「うん……」


 麗奈のことは嫌いじゃない。むしろ好意を持ち始めている。他人目ひとめを気にせず、懐空への思いを必死に伝えてくる。そんな麗奈を懐空は可愛いと感じている。一緒にいればときめくし、これが恋というものなんだと思った。


 だけど一夜をともにする ―― 一線を超えるのは違うと思った。


「麗奈の事は好きだ。でも僕はまだ、自分の人生と麗奈の人生をかさねて考えられない、考えたことがない」

「……あのね、結婚してって言ってるわけじゃないのよ?」

キョトンと麗奈は懐空を見た。


「うん、判ってる。でもさ、それくらいの思いと覚悟がないなら、しちゃだめだと思う。その上でうまくいかなくてダメになるなら仕方ない。でもそうじゃないなら無責任だと思うし、巧くいかなかったとき、きっと後悔すると思う」

「懐空……」

「なにより僕は麗奈を傷付けたくない。麗奈が傷つく可能性が少しでもある限り、そんな事はできない」


 無口な懐空が珍しく熱弁をふるうのを見て、とうとう麗奈が笑いだす。

「判った、帰ってよろしい」

麗奈の声は普段通り明るい。


「麗奈……」

「わたしね、中学生の頃から、よく男の子に誘われたの。あ、自慢じまんじゃないからね」


 わたしって、こんな性格じゃん、誤解されやすいの、と麗奈は言った。


「わたしを誘ってくるコって、わたしが自分に気があると思い込んでることが多くってね。もちろん、中には、ちょっとこの人いいな、ってのもいるんだけど」


 付き合うとか、そんな話もなしに、いきなり抱き締められたり、付き合うってなっても、すぐにキスしようとしたり……


「ごめんね、懐空。今の懐空はその時のわたしと一緒なんだよね」

 そう言うとクスッと麗奈は笑う。


「わたし、懐空ならそんなことしないって思ったの。だから懐空の事、好きになったの。なのに、ちょっと焦っちゃったみたい」


 そして少しだけ寂しそうに

「懐空とそうなりたいって思ってる。懐空がその気になってくれるの待ってる」

忘れないでね、麗奈が言った。


 その後も二人が深い仲になる事はなかったが、ゆっくりと近づいていると懐空は感じていた。


 バイト帰りに公園で話し込んだ別れ際、薄闇の中で麗奈が懐空に抱きつくことはあったが、それがいつの間にか懐空から抱き締めるようになり、そして今では抱きあってキスするようになっている。


 それ以上を……ふと欲望が頭をもたげる事もある懐空だったが、踏み出す勇気はまだなかった。

(そうだね、勇気がないんだ。でも、そんな勇気、必要なのかな?)


 忠司はさっさとやっちゃえ、と言ったけれど、やっぱり懐空は吹っ切れない。帰省した時、俺は彼女と思いっきり、と冗談めかして忠司は言っていたけれど、きっと待ち遠しいんだろうな、と懐空は思った。そして、つまりそういう仲ってことだ、と思った。


 キスはしたんだろ? と問われ、顔色で答えてしまった。

「まさか、唇をちょっとチュッなんてんじゃないんだろう? 舌を絡めて、こうさ、濃厚な ――」

「よせよっ!」


 真っ赤になった懐空を忠司が笑う。

「そこまでしてるなら、したも同然。あんまり麗奈ちゃんを焦らすのもどうかと思うぞ。可哀想だ」

別に焦らしているわけじゃない……


 かさが閉じられる音が聞こえた。そして階段を昇ってくる。いまだにこのアパートの住人は懐空と愛実あいみだけだ。


 どうやら足音は二人分だ。ひょっとして不動産屋が内見に、客を連れてきたのかな? ヒールの音と、革靴なのかな? 少し重い足音。男の人と女の人? それが懐空の部屋の前を通り過ぎ、隣の部屋で止まると鍵を開ける音がした。


 愛実がお客と一緒に帰ってきた。ひょっとしたら弁護士? あれからずいぶん経った気がするけれど。不倫の慰謝料を請求されて弁護士に相談すると愛実は言っていた。


 薄い壁越しに、声が聞こえる。何か話しているのだろう。なんといっているかまでは判らない。


 あこがれていた人に偶然再会して、不倫したと愛実は言っていた。悪びれもせず、恥じる様子もなく。


 二か月で逃げられちゃったと笑った。その笑い声を聞いて、懐空は彼女が泣いていると感じた。だからなぐさめたくなって、駅まで一緒に歩き、道すがら愛実の話を聞いた。


 冷静に考えれば不倫なんて不潔だ、と懐空は思う。でも、愛実にはそれが許されるような気がした


 再び懐空は外を見る。雨は降り続き、桜の葉を容赦ようしゃなく濡らしている。どこからか猫があらわれ桜の葉陰に入り、出てきて何処どこかへ去った。サクラではない猫だった。あの猫もサクラ猫なんだろうか?


「?」

 うめき声が聞こえた気がして懐空が緊張する。


「……」


 違う、うめき声じゃない。隣の部屋から壁越しに聞こえるのは喘ぎ声だ。今、隣の部屋で?


 早鐘はやがねのような動悸を感じるとともに、慌てて懐空はテレビを付けて音声を大きくした ――

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