2
蓮田の家を出た美沙子は、橋を渡ってから川沿いの道を南に下った。
野々宮の家は、ここから徒歩で十分ていどである。まずは野々宮静夫がその場所で安穏と暮らしている姿を確認しておくつもりであった。
(でもそこには、父さんやその両親なんかも暮らしてるんだよな。写真でしか見たことのない祖父さん祖母さんはともかくとして、高校生の父さんなんかと顔をあわせたくはないなぁ)
そんな思いを抱えつつ、美沙子の闘志や殺意が揺らぐことはなかった。
美沙子にとっては葉月の存在が人生のすべてであるのだから、それを守るためであればどれだけ手を汚すことも厭いはしなかった。
(あたしはつまんない人生になっちゃったけど、葉月だけは不幸にしない。あいつはきちんと大学まで進んで、いい会社に就職して……まともな男と結婚して、幸せな人生をつかむんだ)
それを邪魔しようとする人間がいるならば、美沙子はこの手で八つ裂きにする覚悟である。
夏の日差しに炙られて、蓮田節子の肉体は深酒をした翌日のように気怠かったが、美沙子の心は憎悪に煮えたぎっていた。
そうして十分ほどの道のりを歩き抜き、野々宮の家の土塀が見えてきた頃――向かう先から、小さな人影が近づいてきた。
美沙子は愕然と立ちすくみ、首に巻いたスカーフを口もとまで引き上げる。
大きな麦わら帽子をかぶり、白い開襟のシャツとサイズの合っていないデニムパンツを履いたその少年は――野々宮静夫に他ならなかった。
(出やがったな、クソジジイ!)
野々宮静夫は、美沙子の母である蓮田千夏より一歳若い。よって、美沙子が物心ついた頃でも、まだ二十過ぎの若者である。
しかし美沙子は、野々宮静夫のことを「クソジジイ」として認識していた。
そのように若い時分から、野々宮静夫は老人じみた雰囲気を発散させていたのだ。
顔立ちだけは、女のように繊細で整っている。しかし野々宮静夫はいつも不気味な笑みをたたえており、そのせいで目もとや口もとに醜い皺が刻みつけられていたのだった。
いま正面から歩いてくる野々宮静夫の顔には、まだその醜い皺が存在しない。ただそれ以外は、美沙子の知る野々宮静夫とほとんど変わらぬ姿であった。
そして――そこまで考えたとき、美沙子の頭が再び鋭い痛みに見舞われた。
野々宮静夫の若い頃の姿というのは、二つに断ち割られた記憶の片方にしか存在しないのだ。もういっぽうの記憶において、美沙子が初めて野々宮静夫の姿を目にしたのは、両親の墓参りを開始した十八歳になってからのことであったのだった。
そちらの野々宮静夫は、すでに三十歳を過ぎている。そしてその年齢にそぐわないほど、老人そのものの姿になっていたのだ。
精神病院の一室に隔離された野々宮静夫は、いつも壁に向かってぶつぶつと何か囁きかけていた。太陽の光を浴びていないために、その肌は蝋人形のように青白くなり、色素の薄い髪も半分がた抜け落ちていた。そしてやっぱりいつでも不気味な笑みをたたえていたため、その顔には醜い皺が刻みつけられていたのだった。
(やっぱりおかしい……こんな記憶は、両立しないはずなんだ)
片方の記憶において、野々宮静夫はずっと野々宮の家に居座っていた。美沙子の両親が交通事故で亡くなったのちも健在であったため、美沙子は里帰りする気にもなれなかったのだ。
もう片方の記憶において、野々宮静夫はずっと精神病院に隔離されていた。幼少期の美沙子はその存在を噂に聞くばかりで、実際に目にしたこともなかったのだ。それで十八歳の年に初めて墓参りのためにこっそり帰省して、帰りがけに精神病院へと立ち寄って――頑丈な鉄格子のはまった窓ごしに、初めて野々宮静夫の不気味な姿を目の当たりにしたのだった。
(でも……どっちにしろ、最後はガンで普通の病院に入院することになった。だからきっと、どっちの記憶が正しいにせよ……あんたは病院を抜け出して、葉月を殺そうとするんだ)
そんな風に考えることで、美沙子は記憶の混乱と頭痛に耐えた。
その間に、野々宮静夫の姿はもう目の前に迫っている。
野々宮静夫は悄然とうつむき、両足を引きずるようにして歩いていた。
いったい何に気落ちしているのか、目の前の美沙子に注意を払おうという気配もない。麦わら帽子に半ば隠されたその顔は、死人のように血色が悪かった。
美沙子は歯を食いしばりながら、買い物かごに忍ばせた出刃包丁へと手をのばす。
しかしここは、日中の往来だ。他に人通りはなかったが、左右に広がる畑にはぽつぽつと人影がうかがえた。
(ここじゃ駄目だ。もっと人目がないところじゃないと……くそっ! 命拾いしたね、クソジジイ!)
美沙子は出刃包丁から手を離し、野々宮静夫とすれ違った。
そして数メートルほど歩いてから、後方に向きなおる。野々宮静夫はこちらの動きに気づいた様子もなく、死にかけたナメクジのようにのろのろと歩を進めていた。
(とりあえず、後をつけてみるか。もしも人気のない場所に向かうようだったら……そこがあんたの墓場だよ)
美沙子は意識的に歩調をゆるめて、野々宮静夫の後を追った。
障害物もない一本道であるため、二十メートルほど距離を取っても見失う恐れはない。それにやっぱり野々宮静夫はひどく消沈している様子で、後ろを振り返ろうともしなかった。
しばらくすると、川の向こうに蓮田の家が見えてくる。
もちろん野々宮静夫はそこに渡された橋を素通りして、真っ直ぐに道を進んでいった。
次に現れたのは、寺へと続く石段だ。
それも黙殺して、野々宮静夫は道を北上し続けた。
左手の側は樹林にふさがれたが、右手の川の向こうにはまだ畑が広がっており、野良仕事に励む人間の影がうかがえる。憎き人間の背中を追いかけながら、美沙子の心には憎悪の思いが吹き荒れていたが、それでも冷静さを失うことはなかった。
そうしてトータルで二十分以上も歩いた頃――美沙子にも見覚えのある建物が見えてきた。
プレハブ造りの粗末な建物で、そのすぐ手前に白い軽トラックが停められている。これはこの村落で唯一の診療所であった。
(ああ……こいつは子供の頃から病弱だったって聞いた覚えがあるね。だからあんなに死にそうな顔色をしてたわけか)
そんな風に考えたとき、美沙子の頭がまたずきりと疼いた。
その理由に思い至った美沙子は、慄然と息を呑む。
(そうだ……こいつはこの診療所のお医者を刺し殺して、精神病院にぶちこまれることになったんだ!)
そしてそれは、野々宮静夫が中学生の時代の逸話である。
なおかつ、美沙子の母親はすでに高校一年生であるはずなのだから――一歳しか年齢の変わらない野々宮静夫は、この年度の内に殺人を犯すはずであるのだった。
(でも、それとは違う記憶も、あたしの中にある。この記憶は、いったいどっちが正しいんだろう)
美沙子が思い悩んでいる間に、野々宮静夫は診療所の中に消えていった。
美沙子はしばし思案してから、診療所の裏手に回り込む。美沙子は幼い頃に何度かこの場所を訪れたことがあったので、診察室の場所はうっすらと記憶していた。
(あいつがお医者を殺したのは、野々宮の家の応接間のはずだから、ここでは何も起きないだろうけど……なんか気になるからね)
美沙子は麦わら帽子を外し、スカーフで口もとを隠しつつ、診察室の窓へと忍び寄った。
真夏であるため、窓は大きく開かれている。この診療所にも、エアコンなどは設置されていないのだ。美沙子は息を詰めながら、窓の内側を覗き見た。
白髪まじりの髪を無精にのばして、銀縁眼鏡をかけた痩せぎすの男が、老人の胸に聴診器をあてている。年齢は、四十すぎであろうか。美沙子には、見覚えのない顔だった。
(あたしが小さな頃にお世話になったのは、もっと年寄りで丸顔のお医者だったはずだ)
その記憶は、二つに分断されていない。野々宮静夫が殺人の罪に問われたほうの記憶でも、のうのうと屋敷に居座っていたほうの記憶でも、美沙子の知る医者は別人であったのだ。では、野々宮静夫に殺されなかったほうの記憶では、この医者はどこに消えてしまったのか――美沙子はそのように思い悩んだが、深く考えようとすると頭痛がひどくなるばかりであった。
(まあいいや。あたしが上手くやれば、あんたも死なずに済むかもよ)
美沙子は窓から頭を引っ込めて、熱を帯びた壁にもたれかかりつつ、野々宮静夫の名前が呼ばれるのを待つことにした。
辺りにはアブラゼミの鳴き声がうるさいぐらいに響きわたっていたが、室内の声はうっすらと聞き取ることができる。そちらの会話から、さきほどの医師が吉岡という名を持つことが知れた。
この時代のこんな場所でも、やはり診療所というのは老人の巣窟であるらしく、なかなか野々宮静夫の順番は巡ってこない。美沙子のひそんでいる場所はちょうど建物の影になっていたが、それでも時間が過ぎるごとに蓮田節子の肉体は体力を失っていった。
「それでは、次のかた……やあ、静夫くんじゃないか」
そんな言葉が聞こえてきたのは、たっぷり三十分以上も待たされたのちのことであった。
美沙子は再び麦わら帽子を取り去って、そろそろと窓の内側を覗き見る。
とてもやわらかい微笑をたたえた吉岡医師と、とても暗い面持ちをした野々宮静夫が、椅子に座って向かい合っていた。
「昼から往診の予定だったのに、静夫くんのほうから来てくれるとは思わなかったよ。……もしかしたら、傷が痛むのかい?」
「ううん。別に、そういうわけじゃないんだけど……」
そのように答える野々宮静夫の声は、びっくりするぐらい幼げであった。
美沙子の知る声とは、まったく異なっている。美沙子の耳にこびりついているのは、やたらと甲高いくせにねっとりと粘ついた、不快でならない声音であったのだが――いま聞こえてくるのは、少女のように繊細で可憐な声音であった。
「でも、いちおう診察させてね。化膿したりしたら、大変だからさ」
「うん」と小さくうなずいて、野々宮静夫はシャツのボタンを外し始める。
中学生とは思えないほど、白くてほっそりとした裸身があらわにされ――その右の脇腹に、白いガーゼが貼りつけられているのが見て取れた。
吉岡医師は痛ましげに眉を下げつつ、割れ物でも扱うような手つきでそのガーゼを取り去る。
その下から現れたのは、十センチにも及ぼうかという大きな裂傷であった。
「うん、化膿はしていないみたいだね。あと三日もすれば、抜糸できると思うよ」
吉岡医師が消毒液と思しきものを塗布すると、野々宮静夫は白い肩をわずかに震わせて、形のいい眉をきゅっとひそめた。
何だか――ひどく哀れげな姿である。
野々宮静夫を深く憎悪する美沙子でさえ、一瞬その激情を忘れてしまいそうになるほどであった。
(もしかして……この頃のこいつは、まだそれほど性格が歪んでないとか?)
不気味な笑いの皺が刻まれていないためか、野々宮静夫はその容姿までもが可愛らしく見えてならないのだ。それは彼を殺めようとしている美沙子にとって、あまりありがたくない事実であった。
(こいつは自分の母親が自殺した数日後に、トチ狂ってお医者を殺したはずだから……それまでは、まともな人間だったのかもしれないね)
しかし、たとえそうだとしても――野々宮静夫は四十年後に、美沙子の娘である葉月を殺すのだ。
その事実が確定している限り、美沙子の憎悪が消えることはなかった。
「これでよし、と。……大丈夫かい、静夫くん? すいぶん顔色が悪いみたいだけど……まだ由梨枝さんのことを気に病んでるのかな?」
新しいガーゼを貼り終えた吉岡医師がそのように呼びかけると、野々宮静夫は力なく首を横に振った。
「もちろん、それもあるんだけど……僕、吉岡先生に相談したいことがあるの」
「うん。何でも聞かせておくれよ。たとえ何があろうとも、僕は静夫くんの味方だからね」
吉岡医師は、慈愛の念があふれかえった眼差しで野々宮静夫を見つめている。
それを当然のように受け止めながら、野々宮静夫は驚くべき言葉を口にした。
「実は、千夏ちゃんのことなんだけど……千夏ちゃんは、やっぱり隆介兄さんのことが好きみたいなんだ……」
美沙子は思わず、身を震わせてしまった。
美沙子の母親である蓮田千夏が野々宮静夫の兄である野々宮隆介を好いているのは、当然のことだ。その両名はこれから三年後に結婚して、美沙子を産むことになるのである。
よって、美沙子が驚かされたのは、野々宮静夫の言葉の響きのほうであった。
その言葉には、どうしようもないほどの無念と苦悶の思いがにじんでいたのである。
「いやぁ、そんなことはないと思うよ。昨日だって、蓮田さんは由梨枝さんの日記帳を探すのを手伝ってくれたんだろう?」
吉岡医師がそのような言葉でなだめると、野々宮静夫は悲嘆しきった面持ちで首を強く振った。
「あれもきっと、兄さんのためなんだ。日記帳さえ見つかれば、母さんが死んだ理由もわかるかもしれないって、僕が言ったから……きっと千夏ちゃんは、兄さんのために日記帳を探そうとしているんだよ」
「そうか……日記帳が見つかったら、隆介くんがまずい立場になってしまうのにね」
と――吉岡医師が、口の端を吊り上げた。
その姿を見て、美沙子は再び身を震わせてしまう。
それは――美沙子の知る野々宮静夫とそっくりの、不気味な笑い方であったのだ。
「それじゃあさ、もしも日記帳が見つかったら……蓮田さんの娘さんにも見せてあげたらいいんじゃないのかな? そうしたら、隆介くんに対する恋心なんて、どこかに吹き飛んでしまうことだろう」
「……吉岡先生も、そう思う?」
野々宮静夫の目が、暗く陰った。
小動物のようにつぶらな瞳から、どんどん輝きが失われていき――やがて、暗い深淵のごとき色合いに染まる。
それもまた、美沙子がよく知る野々宮静夫の眼差しに他ならなかった。
「あの日記帳を読んだら……誰だって、兄さんが母さんを殺したんだって疑うはずだよね」
「うん。それは間違いのないことだよ。警察だって、徹底的に隆介くんを調べようとするんじゃないのかな」
「そうしたら、千夏ちゃんだって兄さんのことを見損なうはずだよね」
「当然さ。淡い恋心なんて、木っ端微塵だよ」
美沙子はほとんど無意識の内に、買い物かごの出刃包丁をまさぐっていた。
怒りではなく恐怖の念が、美沙子の体を動かしたのだ。
(こいつら……二人とも、頭がおかしいんだ!)
ほんのつい先刻まで温かい空気に満ちていた診察室が、どろどろとした瘴気のごとき気配に満たされてしまっている。
美沙子は、悪魔の会話を盗み聞きしているような心地であった。
美沙子のもうひとりの祖母である野々宮由梨枝は、すでに亡くなっていたのだ。
そしてこの悪魔どもは、その死の責任を野々宮隆介に――美沙子の父親になすりつけようとしていたのだった。
(そうか……どうして葉月がこのクソジジイに殺されなきゃならないんだって、不思議に思ってたけど……こいつは、母さんに横恋慕してたんだ。それで逆恨みしたあげく、母さんに生き写しの葉月に襲いかかったってわけだね!)
美沙子は怒りの念をかきたてることで、何とか恐怖の念をまぎらわそうとした。
その間も、二人の悪魔はおぞましい言葉を交わし続けている。
「でも……日記帳は、どこにもないんだよね。あと探していないのは、書庫ぐらいだけど……母さんが、そんな場所に日記帳を隠すかなぁ」
漆黒の目をした野々宮静夫がそのように言いたてると、半月の形に口を吊り上げた吉岡医師が診療鞄に手をのばした。
「ごめんね、静夫くん。今まで内緒にしていたけど……由梨枝さんの日記帳は、ここにあるんだ」
吉岡医師が、鞄の中から赤いノートのようなものを引っ張り出した。
野々宮静夫は――暗い深淵のごとき目で、その存在をじっと見据える。
「どうして……母さんの日記帳を、吉岡先生が持っているの? 母さんの寝室に日記帳はなかったって言ってたよね?」
「うん、ごめん。本当は、あの夜の内に見つけていたんだよ。でも……あの日にこれを静夫くんに渡していたら、きっと処分してしまっていただろう? それよりも、もっと有意義な使い道があるんじゃないかと思ってさ」
そう言って、吉岡医師はいっそう口の端を不気味に吊り上げた。
「実際に、静夫くんもこうして有意義な使い道を思いついたわけだからね。処分しなくて、正解だっただろう?」
「どうして……?」と、野々宮静夫は感情の欠落した声で繰り返した。
「どうしてそんなことをするの……? 吉岡先生は、僕の味方だって言ってくれてたのに……」
「うん、ごめん。でも、僕は静夫くんのために――」
「僕のために? それで僕に、嘘をついたの?」
野々宮静夫が、ゆらりと立ち上がった。
「僕は、吉岡先生のことを信じていたのに……けっきょく吉岡先生も、僕の気持ちなんてどうでもいいんだね。僕の人生を、好きに支配したいだけだったんだね」
「違うよ、静夫くん。僕はただ――」
吉岡医師の言葉が、不自然な形で途切れた。
野々宮静夫がテーブルの筆立てからハサミを抜き取り、それを吉岡医師の首に真横から突き立てたのだ。
野々宮静夫がハサミを引き抜くと、嘘のように赤い血がほとばしった。
それは、葉月の首筋から噴きあがった鮮血と同じ色合いをしていた。
「しずお……くん……」
何か言いかけた吉岡医師の口からも、同じものがこぼれ落ちる。
そうして吉岡医師は泣き顔のような顔で笑いながら、棒のように倒れ込み――血の海から赤いノートを拾いあげた野々宮静夫は、両足を引きずるようにして診察室を出ていったのだった。
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