第一の死
1
……タスケテ……
セピア色の奔流の中で、葉月の悲鳴がいつまでもリフレインしていた。
その痛切なる声音に心を蹂躙されながら、蓮田美沙子の意識はセピア色の奔流に押し流されている。それは突如として土石流に呑み込まれたような苦悶と恐怖であったが、美沙子の心は憤激の思いによって支えられていた。
(クソジジイ……あんただけは、絶対に許さない!)
あの忌々しい老人は、美沙子のたったひとりの娘である葉月を手にかけたのだ。
葉月は、美沙子の目の前で殺された。その首筋から噴きあがる鮮血の色合いの記憶が、美沙子を激甚なる怒りに駆り立てていたのだった。
(葉月は……葉月は、あたしのすべてだったんだ! それをあたしから奪ったあんたは、絶対にこの手で八つ裂きにしてやる! この世に生まれてきたことを後悔させてやるからね!)
まるで美沙子の怒りに呼応するかのように、セピア色の奔流が勢いを増した。
そして――美沙子の意識は、忽然と現世に引き戻されたのだった。
(……葉月!)
美沙子は弾かれたような勢いで、半身を起こす。
しかしそこは生まれ故郷の墓地ではなく、まったく見知らぬ部屋の中であった。
美沙子は眉をひそめながら、室内の様子を慌ただしく検分する。
六畳ていどの、和室の部屋だ。壁の一面は妙に古めかしい衣装箪笥に埋め尽くされており、部屋の奥には小さな仏壇が置かれている。あとはちっぽけな座卓ぐらいしか調度らしい調度はなく、黄ばんだレースのカーテンがひらひらと風にそよいでいる。そんなわびしげな部屋の中で、美沙子の身は畳に敷かれた布団の上に横たえられていたのだった。
(どこさ、ここは……? 怒りのあまりに貧血でも起こして、お寺の中に運び込まれたの?)
まったくわけもわからぬまま、美沙子は頭をかきむしった。
そして、その腕を下ろしたところで、愕然とする。
美沙子の右腕が、まったく見知らぬものに変貌していた。
真っ黒に日焼けをして、老人のように骨ばっていて、手の甲にはぽつぽつとしみが浮いていて――まるきり別人の腕であったのだ。
(何これ……どういうこと?)
美沙子は惑乱しながら、腹の上に掛けられていたタオルケットをはねのけた。
そこから現れたのもまた、見知らぬ肉体だ。
その肉体は、くすんだベージュ色のナイトウェアを纏っていた。
いや、パジャマや寝間着といった言葉のほうが相応しい、実に野暮ったいデザインである。そしてその身は、やはり老人か病人のように痩せ細っていたのだった。
美沙子はわめき散らしたい衝動を懸命に抑え込みながら、両方の手の平で顔をまさぐる。
かさかさに乾いた、他人の顔の手触りだ。ただスキンケアがされていないというだけではなく、骨格そのものが美沙子と違っているようだった。
(意味がわかんない……あたしは夢でも見てるっての?)
美沙子は憤然と立ち上がり、部屋の出口と思しきふすまを開いた。
そこで待ち受けていたのは、見すぼらしいダイニングだ。
小さなテーブルと二脚の椅子が置かれており、棚つきの台座にはブラウン管のテレビがのせられている。たとえ美沙子の故郷である片田舎でも、なかなかありえないような粗末な様相であった。
そうして視線をひと巡りさせた美沙子は、また愕然とする。
そこはまったく見知らぬ部屋でありながら、ほんの少しだけ見覚えがあったのだ。
(あの壁のしみ……ここって、母さんの実家じゃないの?)
美沙子は何度か、母の実家を訪れたことがある。ただしその頃は無人の廃屋であったため、家財道具は処分されていたのだ。そして、美沙子が小学校にあがる時分には、家屋そのものが撤去されたはずであった。
(でも、間違いない。あのフィンが欠けた換気扇だとか、シンクのへこんだ形だとか……ここは間違いなく、母さんの実家だ)
美沙子はおのれを奮い立たせて、ふすまの脇にある木製のドアを引き開けた。
そちらも記憶の通りの様相をしている。右手は風呂場のガラス戸で、左手はトイレのドアだ。
そして突き当たりには、洗濯機と洗面台がある。
その洗面台に近づいて、鏡を覗き込んだ美沙子は、今度こそ慄然と立ちすくむことになった。
ほつれたパーマの黒髪に、肉の薄い老人めいた顔――それは美沙子の祖母である、蓮田節子の姿であったのだった。
(マジかよ……なんであたしが、会ったこともない祖母さんに成り代わってるのさ?)
美沙子の祖母たる蓮田節子は、母の千夏が野々宮家の長男と結婚する姿を見届けて、数ヶ月後に亡くなったのだ。しかしこの姿は、まぎれもなく両親の結婚写真に映されていた祖母のものであった。
(あたしは蓮田節子じゃなく、蓮田美沙子だ。あたしは今日、葉月にこれまでのことを打ち明けて、初めて一緒に里帰りを――)
美沙子がそこまで考えたところで、頭に猛烈な痛みが走り抜けた。
二つの光景が、美沙子の脳内でぶつかり合っている。
その片方は、娘の葉月が野々宮静夫に殺害される無惨な光景で、もう片方は――葉月と二人で野々宮家の土蔵をあさっている光景であった。
(え……何これ? あたしは真っ直ぐ墓地に向かったから、まだ葉月をあの家に連れていってないはず……いや、先に野々宮の家に寄ったんだっけ?)
洗面台に両手をついて、頭が割れるような激痛に耐えながら、美沙子は何とか意識を集中しようとした。
しかし、美沙子の頭にはどちらの記憶も鮮明に残されている。薄気味悪い老人にのしかかられて、首筋にガラス片か何かを振り下ろされる葉月の姿も、土蔵の中でぼやきながら遺品の整理をしている葉月の姿も、美沙子にとっては同じぐらいリアルであった。
そして――野々宮静夫の姿もまた、同じように分離していく。
その片方は、鉄格子つきの窓ごしに見える、正気を失った廃人の姿で――もう片方は、野々宮の家の応接間でにやにやと笑う忌まわしい姿であった。
(何だよ、これ……あいつはあたしが産まれる前に捕まったんだから、野々宮の家にいるわけが……あれ? でも、母親が自殺したことを自慢げに話してたとか、葉月に説明したような気が……あたしはあいつとしゃべったことなんて、一回もないはずなのに!)
美沙子の中に、二つの歴史が同居してしまっていた。
野々宮静夫が主治医を殺して精神病院送りになった歴史と、野々宮静夫がいつまでも屋敷に居座っている歴史である。
前者の歴史では、美沙子の両親がいつも悲しげな顔をしていた。
父の弟である野々宮静夫が正気を失っていたことに、両親はずっと心を痛めていたのだ。
後者の歴史では、美沙子の両親がいつも苦しげな顔をしていた。
野々宮静夫が屋敷に居座り、ずっと不快な言動をしていたためである。野々宮静夫はいつでも薄気味悪い笑みをたたえて、美沙子の両親に粘つく視線と悪意に満ちた言葉を向けていたのだった。
(あたしのほうこそ、頭がどうかしちゃったの? 鉄格子つきの病院に入れられるのは、御免だよ!)
美沙子は水道の蛇口をひねり、生ぬるい水で顔を洗った。
そうしてあらためて鏡に向かい合ってみても、そこに映し出されるのは蓮田節子の貧相な顔だ。
美沙子は固くまぶたを閉ざし、頭を真っ二つにしようとする二つの記憶を追い払い――そして、怒りの念を取り戻した。
(何がどうでもかまわない。あたしは……あいつを殺すんだ)
美沙子はセピア色の濁流に翻弄されていたときと同じように、憤激の思いで心を支えてみせた。
ここが大昔の時代であるというのなら、都合がいい。この時代に野々宮静夫を始末すれば、美沙子の両親が苦しい思いをすることもなく――そして、葉月も殺されずに済むはずだった。
(あんなやつが生きてたって、誰の得にもなりゃしない。これはきっと、神様が与えてくれたチャンスなんだ)
美沙子は壁に掛けられていたタオルで顔をぬぐい、薄汚いダイニングに舞い戻った。
(でも、今はどれぐらいの昔なんだろう。父さんと母さんは、もう結婚しちゃってるのかな?)
そんな風に考えながら、美沙子はダイニングの奥側に設えられたふすまをにらみ据えた。
足音を殺してそちらに忍び寄り、ふすまをそっと開いてみると――家具の少ない和室の部屋で、懇々と眠っている少女の姿が見えた。
その姿を目にした瞬間、美沙子の胸に引き攣るような痛みが走り抜ける。
これは美沙子の母親である、蓮田千夏だ。
そして蓮田千夏は、美沙子の娘である葉月に生き写しであったのだった。
(葉月……)
蓮田千夏は布団の上で体を横向きにして、胎児のように丸くなっていた。
ナイトウェアとも思えないワンピース姿で、腹の上にタオルケットを掛けている。髪は男の子のようなショートヘアで、健康的な小麦色の肌をしていたが――それ以外は、やっぱり葉月にそっくりの姿であった。
そのあどけない寝顔を見ているだけで、美沙子の胸には痛切なまでの愛おしさがこみあげてくる。娘に対する情愛と母に対する思慕の念が複雑に絡み合い、息が詰まりそうなほどである。
そしてそれは同じ質量で、野々宮静夫への殺意へと転化していくのだった。
美沙子はぴったりとふすまを閉めて、自分の――いや、祖母である蓮田節子の寝室へと舞い戻った。
(あのクソジジイは、絶対に殺す。でも、警察に捕まるわけにはいかない。蓮田の人間が野々宮の人間を殺したりしたら、母さんと父さんが結婚できなくなっちゃうかもしれないもんな)
そんな風に運命が狂ってしまったら、美沙子や葉月もこの世に生まれてこないことになってしまうのだ。
そのように結論づけた美沙子は、まず古めかしい衣装箪笥をあさることにした。
(なるべく目立たない服で……って、どれもこれも地味な服ばっかりだね。この祖母ちゃんも老けて見えるけど、まだ四十そこそこだろうにさ)
美沙子はベージュ色のパジャマを脱ぎ捨てて、チャコールグレーのブラウスとネイビーブルーのジョッパーズパンツを選び取った。
蓮田節子の肉体は、やはり老人のように痩せさらばえている。この肉体は、あと数年で病死するはずであるのだ。体の頑丈さが自慢であった美沙子にとって、この痩せ細った肉体はあまりに頼りなく、手足にも力が感じられなかった。
(ま、そんなもんは気合で何とかしてやるけどね)
美沙子は頭に麦わら帽子をかぶせて、首にはスカーフを巻きつけた。
そして、寝室を出てキッチンに向かい――タオルでくるんだ出刃包丁を、籐編みの買い物かごに忍ばせた。
(夜にならないとチャンスはないかもしれないけど、とりあえずあの忌々しい顔を拝んでこよう)
美沙子は勇躍、玄関口へと足を向けた。
その行きがけに壁掛けの時計に目をやると、時刻は九時十五分である。
美沙子は動きやすそうなシューズに足を通し、たてつけの悪いガラス戸をなるべく静かに引き開けた。
外の世界は、晴れわたっている。空は果てしなく青く、白い入道雲は作り物のように立体的であった。
(暑いなぁ。こっちの世界も、夏の盛りか)
そうしてガラス戸を閉めようとした美沙子は、錆びた郵便受けに新聞が差し込まれていることに気づいた。
それで日付を確認してみると――昭和五十七年八月十日と記載されている。西暦は、一九八二年だ。
(たしか元の世界では、八月九日だったよな。四十年前の、次の日ってわけか)
そうすると、美沙子が産まれる四年ほど前ということになる。
母親である蓮田千夏は高校を出てすぐに結婚し、その翌年にはもう美沙子を産んでいるのだから――現在は、高校一年生であるはずであった。
(それじゃあこの体も、あと三年ぐらいは生きていられるってわけね。ま、今日か明日には決着をつけてやるけどさ)
美沙子は新聞を玄関口に投げ入れて、軋むガラス戸を閉めてから、憎き仇敵の待つ外界へと足を踏み出した。
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