野々宮孝信たかのぶ――たしか吉岡医師は、さきほどそのような名前でこの人物のことを呼んでいた。

 何にせよ、隆介はこの人物を「親父」と呼んでいたのだから、彼らの父親であることに疑いはない。何より彼は、隆介とそっくりの雰囲気をしていた。


「何をしていると聞いているんだ……人様の家の仏間に忍び込むなんて、許されると思ってるのか……?」


 野々宮孝信はぎらぎらと両目を光らせながら、仏間に踏み入ってきた。

 その浅黒い顔が赤らんでいるのは、怒りとアルコールのどちらが原因であるのか。何にせよ、彼は昼間から酒のにおいをぷんぷんさせていた。


 隆介と同じぐらい背が高くて、隆介よりもさらにがっしりとした体つきをしている。その身に纏っているのは焦げ茶色の和服で、はだけた足もとからは毛脛が覗いていた。

 かつて自分を殺した人間と対峙させられて、私はごくりと生唾を呑み下す。

 しかし、パニック状態に陥らずに済んだのは、やはり祖母の肉体が持つ強靭さゆえなのだろうか。私は呼吸を整えながら、何とか落ち着いた言葉を返すことができた。


「ごめんなさい。静夫くんが往診の時間になったから、その間に手を合わせておこうと思ったんです。勝手な真似をして、申し訳ありませんでした」


 野々宮孝信は私と一メートルぐらいの距離を置いて立ち止まり、うろんげな視線を突きつけてきた。


「静夫……? お前は、静夫の友達なのか?」


「はい。蓮田千夏と申します。静夫くんより一歳上で……隆介くんと同じ高校に通っています」


 私がそのように言葉を重ねると、野々宮孝信は「そうか……」と息をついた。


「それなら、こっちこそ悪いことをしたな。いきなり怒鳴りつけたりして、申し訳なかった。……どうか由梨枝のために、手を合わせてやってくれ」


「え? あ、はい……」


 野々宮孝信の豹変っぷりに驚かされつつ、私は仏壇に向きなおった。

 正直なところ、私は線香の正しいあげ方など知識にない。大昔に映画で観たシーンを記憶から引っ張り出して、その通りに振る舞うしかなかった。


 仏壇には、野々宮由梨枝の遺影が立てられている。

 線香に火を灯し、名前も知らないお椀のような鉦を鳴らし、遺影の前で手を合わせて――私は、曾祖母にあたる人物の冥福を祈った。


(何だかわけのわからない騒ぎになっちゃったけど、私は私なりに頑張ります)


 私は目を開き、野々宮由梨枝のはかなげな笑顔をもういっぺん心に焼きつけてから、立ち上がった。

 すると、空いた座布団に野々宮孝信が座り込む。そして彼もまた、私と同じように手を合わせた。


 長い、長い祈りである。

 彼は百八十センチぐらいも身長があり、きわめて恰幅もよかったが――そのときの背中は、静夫のように小さく見えてしまった。


「……普段は正午ぴったりに手を合わせるんだが、今日は何となく部屋にいたくない気分だったんでな」


 と、仏壇のほうを向いたまま、野々宮孝信は低い声でそのように告げてきた。


「まさか、静夫の友達に先を越されるとは思わなかったよ。というか、あいつに女の子の友達がいることすら、俺は知らなかった。俺は本当に……家族のことを、なんにもわかっていないんだな」


 それはあまりに唐突な述懐であったため、私は口をはさむこともできなかった。

 野々宮孝信は悄然と座り込んだまま、訥々と言葉を重ねていく。


「由梨枝のことだって、そうだ。あいつはとても気立てがよくって、文句のひとつも言わずに家を守ってくれていたけど……まさか、川に身を投げるような悩みを抱えていたなんて……どれだけ頭を悩ませても、俺はあいつが死んじまった理由がわからないんだよ。本当に、情けない話だよな……」


「はあ……」


「あいつは本当に、俺なんかにはもったいないぐらいの女房だった。貞淑な妻を絵に描いたようなやつで……自分だって病気がちなのに、喘息もちの静夫を大事に育ててくれて……俺や隆介みたいにがさつな人間が相手でも、嫌な顔ひとつ見せずに面倒を見てくれて……俺たちがそんな風に甘えきってたから、あいつはくたびれ果てちまったのかな……」


 そこで野々宮孝信は言葉を切って、私のほうに向きなおってきた。

 その浅黒い顔には、とても申し訳なさそうな表情が浮かべられている。


「いきなりこんな話を聞かせちまって、悪かったな。それに、さっきも本当にすまなかった。どうかこれからも、静夫と仲良くしてやってくれ。あいつは病弱なせいで、ずいぶん内気な人間に育っちまったけど……根っこは、優しいやつなんだ」


「は、はい。こちらこそ、本当にすみませんでした」


「何も謝る必要なんてないよ。……家族以外の人間が由梨枝のために手を合わせてくれるなんて、なんだか嬉しくってさ」


 そんな風に言いながら、野々宮孝信はぎこちなく笑った。

 いかにも笑いなれていない人間の笑い方だ。そして、その笑い方は――写真などで見る私の笑顔とそっくりであったのだった。


「実は、明日が初七日なんだ。もしよかったら……明日も顔を出してくれないか?」


「わ、わかりました。都合がついたら、そうさせていただきます。あの……どうか気を落とされないでくださいね?」


 私がそのように伝えると、野々宮孝信は「ありがとう」とまた微笑んだ。

 私は何だか胸が詰まってしまい、本当に心臓が苦しくなってきてしまう。


「それじゃあ、あの……私はこれで失礼します」


「なんだ、もう帰っちまうのかい?」


「は、はい。午後からも、静夫くんと遊ぶ約束をしているんですけど……お昼を食べて、出直してきます。よかったら、静夫くんにそう伝えてもらえますか?」


「昼だったら、うちで食べていけばいいじゃないか。隆介のやつは、簡単なものなら作れるはずだよ」


「い、いえ、それは申し訳ないですし……隆介くんは、出かけているそうですよ」


「そうか。わかったよ。……明日も無理がなければ、どうぞよろしくな」


 私は無言のまま頭を下げて、逃げるように仏間を後にした。

 そうして廊下が軋むのにもかまわず、大急ぎで玄関口に向かうと――サンダルに足先を通したところで、ガラス戸が開かれた。


 現れたのは、隆介である。

 私は今度こそ、パニックに陥ってしまいそうだった。


「ご、ごめんなさい! 今、帰るところなんで!」


 私は可能な限り体を小さくして、隆介の脇を通り抜けようとした。

 しかし、再びその力強い指先で、腕をつかまれてしまった。


「待てよ。お前……また静夫と一緒にいたのか?」


 隆介が、不機嫌そうな声でそのように問いかけてくる。

 私はショルダーバッグを背中のほうに追いやりながら、「そうです」と答えてみせた。


「そうか……お前、本当に静夫と仲がいいんだな」


 私の腕をつかんだまま、隆介は深く息をついた。

 頭ひとつ分も高みにあるその顔は、険しく眉が寄せられている。しかし不思議と、以前のようにおっかない感じはしなかった。


「……お前、俺と静夫の間の学年だろ? それでどうして、静夫と仲良くなったんだ?」


「ど、どうしてって言われても……別に、学年なんて関係ないでしょう?」


「そうか。あいつみたいに人見知りなやつが、学年も違う女なんかと仲良くなれたのが、不思議でしかたがなかったんだよ」


 何か感情の定まっていないような口調で、隆介はそのように言いつのった。

 その目はやっぱり光が強いが、これまでのように物騒な輝きはたたえていない。静夫や私を殺した張本人とは思えないぐらいであった。


「それで昨日は、色々と勘繰っちまったんだ。おかしな死に方をした人間の家を、興味本位で荒らしに来たんじゃないかってな。……いきなり怒鳴りつけたりして、悪かったよ」


 父親に続いて、兄のほうまで豹変してしまった。

 しかし、こちらこそが彼の素顔なのだろうか。今の彼は、母親の死に心を痛めている普通の高校生にしか見えなかった。


「静夫は引っ込み思案で、餓鬼の頃から友達のひとりも作ろうとしないから、ずっと心配してたんだ。昨日のことは謝るから、どうかあいつと仲良くしてやってくれよ」


「わ、わかりました。……あの、手を離してもらえますか?」


「あ、ああ、悪い」と私の腕から手を離した隆介は――驚くべきことに、浅黒い頬を羞恥に赤らめていた。

 私は困惑の極みに至ってしまい、今度こそ遁走することになった。


(なんなの、いったい……どいつもこいつも、今までとは別人みたいじゃん!)


 照りつける日差しの下、未舗装の道を駆けながら、私はすっかり心をかき乱されてしまっていた。

 隆介とその父親は、私を殺した張本人であったのに――あんな素顔を隠し持っていたのだ。その事実が、何より私を惑乱させたのだった。


 隆介と孝信は、やっぱりよく似た父子であった。

 そして――彼らは本来の私とも、少し似たところを持っていたのだ。

 私の脳裏には、孝信のぎこちない笑顔と隆介の照れくさそうな表情が、くっきりと刻みつけられてしまっていた。


(あの兄弟のどちらがお祖父ちゃんだとしても、野々宮孝信は確実に私のひいお祖父ちゃんなんだ……私は前回、ひいお祖父ちゃんに殴り殺されたんだ)


 そんな風に考えると、私はいっそう気持ちに収まりがつかなくなってしまった。

 そうして気づくと、トタン屋根の小さな家が目の前に迫っていたのだった。


 私は同じ勢いで橋の上を渡りきり、たてつけの悪いガラス戸を引き開けて、薄明るい土間へと踏み込んだ。

 ガラス戸を叩き閉めて、玄関口に突っ伏すと、板張りの床にぽたぽたと汗がしたたり落ちる。さすがの祖母の肉体も、いきなりの全力疾走に音をあげかけているようだった。


 私はぜいぜいと息をつきながら、祖母の寝室を目指した。

 寝室の窓は開け放しであったが、レースのカーテンだけは閉めている。その隙間から吹き込む風が、得も言われぬほど心地好かった。


 勉強机の椅子ではなく煎餅布団の上に座り込んだ私は、ずっと肩に掛けていたショルダーバッグを放り出す。

 そして――荒い呼吸が収まってから、その内側に隠されたものを引っ張り出すことにした。


 赤い革の表紙の、日記帳だ。

 この日記帳が、隆介と孝信を狂わせたのだ。


 私はひとつ深呼吸をしてから、震える指先でその日記帳を開いてみた。

 とても繊細な女性らしい筆致で、日付とその日の出来事が記されている。最初のページの日付は、去年の五月一日だった。


 私は覚悟を決めて、ページをめくっていく。

 本当はこんなものに目を通すつもりはなかったのだが――私は隆介たちが狂乱した理由を知りたくてたまらない心境に至ってしまっていたのだった。


 日記はいずれも三行ていどで終わっており、日付も飛び飛びだ。こんな日記を書き残すことに、いったいどのような意義を抱いていたのか。野々宮由梨枝という人物を知らない私には、なんの興味もかきたてられない内容ばかりであった。


 私はぺらぺらとページを繰って、最後の日付を目指すことにした。

 一年以上の内容を跳び越えて、最後のページに記されていた日付は、八月四日の水曜日――


 そこには、これまでと比較にならないほど長い文章が書き記されていた。

 そして私は、目の眩むような虚脱感に見舞われることになってしまったのだった。

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