見知らぬ祖母の家を出た私は、とりあえず川沿いを歩くことにした。

 ただやっぱり、なるべく他人とは顔をあわせたくなかったので、土手を下りて川のすぐそばを歩くことにする。時刻は午前の十時四十分ぐらいで、八月の日差しは厳しかったが、それでもやっぱり私の本来の世界よりはよっぽど過ごしやすいように感じられた。


 こうして表を歩いていると、また自分の置かれた状況に対する違和感が希薄になっていく。もとより私は初めてこの地に足を踏み入れた身であったため、四十年という歳月による変化を感じることもかなわなかったのだった。


 もとの時代で車の窓から検分したこの土地の様相は、本当に辺鄙そのものであった。市街地からは車で三十分ていどの距離であったが、この辺りにはコンビニもスーパーも見当たらず、ただただ広大な田畑ばかりが広がっていた。四方は山林に囲まれており、地面は舗装されておらず、点在する家屋はいずれも古びており――それこそ私は、別の時代にタイムリープしたような心地であったのである。


 私の暮らしていた八王子にだって、緑は存分に残されている。ちょっと奥まった区域ではタヌキやアライグマが出るぐらいであるのだから、十分に田舎の部類であろう。だけど私自身は無機的なコーポが立ち並ぶ住宅街で生まれ育ち、山あいの区域には近づこうともしなかったため、ひ弱な都会っ子と自認していた。そんな私にとって、こんなひなびた場所で一生を過ごすというのは、まったく想像もつかない話であった。


(もちろん令和の時代だったら、こんな場所でもインターネットぐらい通ってるんだろうけど……この時代には、それすらないんだろうからな)


 銀色に輝く川面を横目にてくてくと歩きながら、私はそんな埒もない想念に耽った。

 空は果てしなく青く、作り物のように立体的な入道雲を浮かばせている。川向こうに広がるのは、広大なる田畑と名も知れぬ山の威容だ。耳に入るのはアブラゼミの鳴き声と川のせせらぎぐらいのもので、畑にぽつぽつと点在する人影がなかったら、無人の集落に取り残されたような気分であったかもしれなかった。


 そろそろ土手の上では、野々宮のお屋敷を過ぎたぐらいであろうか。

 そんな風に考えると、私の頭は速やかに二人の少年の存在に埋め尽くされてしまった。


 色が白くて、少女のように繊細で、どこか陰のある眼差しをした、静夫。

 浅黒く日に焼けていて、体格もがっしりとしていて、飢えた犬のような眼差しをした、隆介。

 いったい祖母は、そのどちらと結婚することになったのか――そして、私の母が忌み嫌っていたのは、いったいどちらのことであったのか――私には、さっぱり見当もつかなかった。


(でも……どっちにせよ、母親が自殺したことをにやにや笑いながら話すような人間だとは思えないんだよなぁ)


 母は六歳でこの土地を離れたのだから、それはそんなに先の話ではない。

 あと三年も経たない内に、祖母は兄弟のどちらかと結婚して、その翌年には私の母を産み落とすことになる。そしてその六年後には夫婦ともども交通事故で生命を落とし――「クソジジイ」たる兄弟のどちらかだけが、四十年後まで生き永らえるのだった。


(でも、どっちが生き残るとしても、四十年後はまだ六十前じゃん。それで死にかけてるなら、これっぽっちも長生きじゃないよ)


 そうして私の思考が暗鬱な方向に傾きかけたとき、行く手にも影が差し始めた。草むらに覆われた土手が途切れて、雑木林にふさがれてしまったのだ。

 私はしばし思案して、そのまま雑木林に踏み入ることにした。いい加減に日差しが厳しくなってきたので、木陰でひと休みしようと考えたのだ。


 雑木林と言ってもそれほど緑が深いわけではなく、足もとは木漏れ日でまだらに染めあげられている。奥のほうはもう少し涼しげであるように思えたので、私はそのまま突き進むことにした。

 左手の側に流れる川は、これまでより勢いが増しているように感じられる。何も意識していなかったが、私は上流に向かって歩を進めているようであった。


(このまま進むと、山の中に入っちゃうのかな。……まさか、熊が出たりしないよね?)


 そんな風に考えながら、私は呑気に歩き続けた。

 おそらく祖母の肉体は、本来の私よりも頑丈にできているのだ。それで、持て余したエネルギーが行き場を求めているのかもしれなかった。


(まあ、何でもかまわないや。こんなの、私の人生じゃないんだし……)


 そこで私は、ふっと足を止めることになった。

 行く手から、喧噪の気配が伝えられてきたのだ。

 誰かと誰かが言い争っているような――とにかく、剣呑な雰囲気である。自然界の清浄な空気が、突如として無粋な人間に叩き壊されたような心地であった。


(こんなところで、何を騒いでるんだろう)


 私は足音を忍ばせて、さらに前進することにした。

 普段の私であれば、すぐさま引き返していたに違いない。しかし、何がどうなってもかまわないという放埓な気分と、祖母の肉体が持つ旺盛な生命力が、私をそんな風に仕向けたのかもしれなかった。


 歩を進めるごとに、喧噪の気配は近づいてくる。

 そして、やたらと立派な樹木の幹を迂回しようとした私は、慌てて身をひそめることになった。

 ほんの五メートルほどの鼻先に、小さな木造りのお堂が建てられており――そのすぐ手前で、二つの人影が立ち並んでいたのだ。


 それは、静夫と隆介であった。

 静夫はこちらに背を向けて、隆介がそれと向かい合っている。よって私は、怒り狂う隆介の顔をはっきり確認することができた。


 彼は昨日もいきりたっていたが、今日はそれとも比較にならなかった。

 眉間に深い皺を刻み、頬の辺りをぴくぴくと引き攣らせて――完全に、怒りで我を失ってしまっている。この距離でも、その目がぎらぎらと輝いているのが見て取れた。


「……どんな言い訳をしたって、もう言い逃れはできないよ! この日記帳に、みんな書いてあったんだからね!」


 と――こちらに背を向けた静夫が、震える声でそのように叫んだ。


「隆介兄さんが、母さんを殺したんだ! 隆介兄さんは、人殺しだ! 隆介兄さんなんて――千夏ちゃんには相応しくない!」


「ふざけんな! そいつをよこしやがれ!」


 隆介が、静夫の小さな体に跳びかかった。

 激しく身をよじる静夫の右手に、何かが握られている。それは――赤い表紙をしたノートのようだった。


(もしかして……あれが、母親の日記帳?)


 母親の日記帳を探し出せば、自殺の理由がわかるかもしれない――静夫は昨日、そんな風に言っていたのである。私に誘いを断られた静夫は、今日もひとりでそれを探し求め、ついに発見したということなのだろうか。


「よこせ! そいつをよこすんだ!」


「嫌だ! 手を離してよ! 人殺し!」


 上ずった声で叫びながら、静夫は胸もとに赤いノートを抱え込んだ。

 隆介は狂乱の形相となり、そして――静夫の首に、手をかけた。


 浅黒くて力の強そうな隆介の指先が、静夫の白くて細い首にぎゅうぎゅうと食い込んでいく。

 私はほとんど無意識の内に、木陰から飛び出していた。


「やめて! そんなことしたら――!」


 私の悲鳴まじりの声は、ごきりという鈍い音色にかき消された。

 静夫の首が、かくんと不自然な角度に折れ曲がる。

 静夫の華奢な胴体が何度かびくびくと痙攣して、その手から赤いノートが落ちた。


 そして――

 狂犬のようにぎらつく隆介の目が、静夫の肩越しに私を睨み据えてきたのだった。


「見たな……?」


 昨日とは別人のようにしゃがれた声で、隆介がそのように言い捨てた。

 その手を離れた静夫の体が、壊れた人形のように地面にくずおれる。


 私は目の前で繰り広げられている光景の意味も理解できぬまま、ただ呆然と立ち尽くした。

 そんな私に向かって、隆介が走り寄ってくる。ただその動きは、スローモーションのようにゆっくりと感じられた。


 憎悪と狂気に濁った目が、私の身動きを縛っている。

 そうして隆介は、鉤爪のように折り曲げた指先を私の首にかけて、雑巾のようにしぼりあげた。

 急速に薄らいでいく意識の中、私の瞳に最後に映されたのは――泣き笑いのような形に歪んだ、隆介のぶざまな顔だった。

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