翌朝――私は他人の匂いがする布団で目を覚ますことになった。

 この際の他人とは、すなわち自分自身のことである。一夜が明けても悪夢は終わらず、私は祖母たる蓮田千夏のままであった。


 ここは、祖母の寝室だ。静夫の案内でこの家まで辿り着いた私は緊張の糸が切れてしまい、あれこれ頭を悩ませる間もなく布団にもぐり込んで、そのまま寝入ってしまったのだった。


 布団の上に身を起こした私は、あらためて部屋の様子を見回してみる。

 四畳半の、小さな部屋である。しかし、調度と呼べるのは本棚と学習机ぐらいであったので、私の実際の部屋より広く感じられるほどだった。

 造りは和室で、畳の上に直で布団が敷かれている。これは最初から敷かれていたもので、私はまだ押し入れすら開けていなかった。なるべく余計な情報は入れずに、とにかく眠りの世界へと逃避したかったのだ。食事も風呂も着替えもはぶいて、野暮ったいワンピースのままタオルケットをひっかぶり、泥のように眠りこけたわけである。


 私は、奇妙な気分だった。

 奇妙と言えば最初から奇妙の連続であるのだが、そのように簡単な話ではない。ぐっすり眠って回復した現在、自分が何事もなかったかのように平静な気分でいるのが、とりわけ奇妙に感じられたのだ。


 私は得体の知れない力に導かれて、数十年前の祖母と思しき人間に成り代わってしまっている。本当であれば、すぐさまパニックを起こして泣き叫んでいるところだろう。しかし私は泣きも叫びもせず、こうして見知らぬ部屋を見回している。私の肉体はすっかりこの世界に馴染んでおり、それが精神にまで影響を与えているのかもしれなかった。


 そもそも私は神経質なタチであるので、修学旅行などで枕が変わるだけでなかなか寝付けない人間であったのだ。それがこのように見知らぬ場所で、まったくクッションのきいていない煎餅布団でぐっすりと一夜を明かしてしまった。それは、この肉体がもう長きにわたってそういった行為を繰り返してきたことを記憶しているためなのではないかと思えてならなかった。


 目に映る光景も、また同様だ。そこはまったく見知らぬ部屋であるはずなのに、なんだかしっくりと目に馴染んでしまう。しみの浮いた漆喰の壁も、四角い傘に覆われた古めかしい蛍光灯も、見慣れぬ背表紙が並んだ本棚も――私の心は記憶していないのに、肉体だけが記憶しているような感覚であった。


(で……私はこれから、どうすればいいわけ?)


 私はちょうどつい昨日、母親の秘めたる半生を耳にしてしまった。それでついでに祖母たる蓮田千夏の半生も、あるていどは知り得てしまったわけである。


 蓮田千夏は、高校を出てすぐ野々宮の人間と結婚をする。それで翌年には、娘――つまりは私の母親である美沙子を産み落とし、さらに六年後には夫ともども交通事故で生命を落とすのだ。

 私はこれから、そんな祖母の短い人生を辿り直さないといけないのだろうか?

 もしも私が運命に背いて、野々宮の人間と結婚しなかったら、私の母親も私自身も産まれないことになってしまう。しかしそうすると、私がこの時代にタイムリープすることもありえなくなるわけで――いわゆるタイムパラドックスというやつが生じてしまうわけであった。


(別に、未練が残るほど大した人生じゃなかったけど……見知らぬ時代に別人として生きるなんて、面倒なだけだよなぁ)


 私は放埓な気分にひたりながら、学習机に置かれていた目覚まし時計へと目をやった。

 呆れたことに、時刻は午前の十時過ぎを示している。昨晩何時に就寝したかなど覚えてはいなかったが、夕暮れ時に帰宅してそのまま寝入ってしまったのだから、ほんの宵の口であったはずだ。少なくとも、半日以上は軽く過ぎているわけであった。


(おなかはあんまり空いてないけど、シャワーぐらいは浴びたいな)


 そんな呑気なことを考えながら、とりあえず私は立ち上がった。

 それから部屋を出る前に、好奇心に駆られて本棚を覗き込む。陰気でインドア気質の私は、ネットで著作権の切れた古い文学作品を読みあさることを趣味にしていたのだ。


 その本棚に収められていたのは、おおよそ児童文学ばかりであるようだった。

 かろうじて見知っているのは、「不思議の国のアリス」だの「オズの魔法使い」だのといった海外の有名な作品ぐらいだ。祖母とはあまり読書の趣味が合わないようだった。


(オズの魔法使い……うちほどいい場所はない、だっけ? それで元の世界に帰れるなら、世話はないよね)


 私は本棚に背を向けて、隣室に通じるふすまに手をかけた。

 もしも他に家族がいたならば、またもや余計な苦労を抱え込むことになってしまうが――幸いなことに、そこには誰もいなかった。

 昨日はろくに検分もしなかった、見知らぬ家のたたずまいである。ここはリビングであるのか、それともダイニングと呼ぶべきであるのか。玄関から入ってすぐがこの空間であり、向かって右手には小さなキッチンと冷蔵庫と食器棚、左手にはふすまと木のドアが並んでいる。また、部屋の中央には粗末なテーブルと二脚の椅子が置かれており、それと向かい合う格好で奇妙な物体が鎮座ましましていた。


(何これ……まさか、テレビなの?)


 戸棚のついた台座の上に、四角い電化製品がちょこんと載せられている。いくぶん湾曲したガラス面はスクリーンでしかありえないようであったが、どうして本体がこんなに分厚い形状をしているのかは、さっぱりわからなかった。


(まあ、何十年も前だったら、色々と変化があるんだろうけど……ていうか、今はいったいいつなんだろう?)


 私はさらに室内を検分し、テーブルの上に新聞紙を発見した。

 そこに記されていた日付は――昭和五十七年八月十日である。西暦は、一九八二年となっていた。


(だったら、ちょうど四十年前になるわけか……え? それじゃあ私とお祖母ちゃんって、たった四十歳しか違わないってこと?)


 昨日の静夫の口ぶりからして、現在の祖母は高校一年生なのである。そして、四十年後の私も同じ学年であるのだから――やはり、それがイコールで年齢差になるはずであった。


(そっか。お祖母ちゃんも母さんも二十歳で出産したとなると、それできっかり四十年になるんだ。みんなして、結婚も出産も早すぎだよ)


 私はわけもなく嘆息をこぼしながら、新聞紙をテーブルに戻した。

 そしてさらに、新たなアイテムを発見する。蜜柑の詰まれた籠の下に、一枚のメモ用紙と紙幣がはさみ込まれていたのだ。


『寝る時はきちんと着替えなさい。今日も遅番です。節子』


 メモ用紙には、そのように記されていた。

 紙幣のほうは、まったく見覚えのない青みがかった色合いをしている。そこに表記された数字を確認してみると、なんと五百円紙幣である。


(これで夜までの食事をどうにかしろってこと? それじゃあ、うちの母さんと一緒じゃん)


 私は二度目の嘆息をつきつつ、とりあえずその紙幣をがま口の財布に仕舞い込んだ。

 あとは取り立てて、特筆するべきこともない。それで左手側のふすまをおそるおそる開いてみると――そこも殺風景な寝室であり、部屋の片隅に小さな仏壇が置かれていた。

 昨日の静夫の口ぶりから何となく予想はついていたが、祖母である蓮田千夏も母親との二人暮らしであったのだ。


(ええと……母さんにとっての母方の祖父母は、病気で早死にしたっていう話だったっけ)


 では、さきほどのメモと五百円紙幣を残していった節子なる人物も、じきに病気で亡くなるということだ。

 私は何度目かの溜息をこぼしながら、ふすまの隣にあるドアの向こう側を確認することにした。


 そこは細長いスペースで、正面に小さな洗濯機が置かれている。右手のガラス戸はバスルーム、左手のドアはトイレへの入り口である。

 ただし、トイレは和式であり、風呂に至っては使い方がさっぱりわからない。操作パネルが存在せず、大きなスイッチや謎のハンドルがひっついているのだ。しばらく格闘してみたが、何をどうしても温水が出る気配は皆無であった。


(まあいいや。土蔵では汗だくだったけど、今はそんなに暑くないもんね)


 そういえば、新聞には八月十日とあったのに、ずいぶん気温が低いようであった。そもそもこの家にはエアコンというものが見当たらず、ダイニングの隅に小さな扇風機が置かれているばかりであるのだが、開け放しの窓から吹き込む風だけで十分に快適なのである。


(昔は今ほど暑くなかったって聞いてたけど、そういうことなのかな)


 そうしてあれこれ動き回っていると、だんだん空腹感がたちのぼってきた。

 食器棚からカップラーメンを発掘できたので、とりあえずそれをいただくことにする。ガステーブルの造りが現在と大差ないのは、幸いなことであった。それにカップラーメンも、私の時代に売られているのと同じ品である。


(なんか……やっぱり、奇妙な心地だな)


 四十年前の世界で、令和の時代と同じ味のするカップラーメンを食していると、また現実感の輪郭がぼやけてしまいそうだった。

 そういえば、四十年前には携帯電話も普及していないのだろうか。少なくとも祖母は所持していないようであったし、テレビがあんなに分厚い形状をしている時代ではそんな技術も生まれていないような気がしてならなかった。


(もしかしたら、インターネットも普及してないとか? そうだとしたら、本当に異世界みたいだなぁ)


 しかし私の肉体は、スマホもインターネットも欲していなかった。もともとの世界では暇さえあればスマホをいじっていたのに、不思議なものである。これもまた、祖母の肉体に精神が引きずられている証拠なのかもしれなかった。


(でも、そうなると……私はこれから、どうすればいんだろう)


 私の思考は堂々巡りをして、またその疑問に行き当たることになった。

 いったいどうすれば元の世界に帰れるのか。そもそも帰る手段はあるのか。帰る手段がないとしたら、この先どうやって生きていけばいいのか――今は呑気にカップラーメンなどをすすっているが、夏休みが終了した後のことなどは想像したくもなかった。


(っていうより、お祖母ちゃんの母親と顔をあわせるのだってしんどいよ。こっちは何の記憶もないんだから、どこかでボロが出るに決まってるし……どうして私がこんな目にあわないといけないんだろう)


 カップラーメンを完食した私は、固い椅子の上でしばし放心した。

 窓の外からは、アブラゼミの声がうるさいぐらいに響きわたっている。そよそよと吹き込む風は変わらず心地好かったが、熱いラーメンを食したせいか、わずかに背中が汗ばんでいた。


(こんなところに閉じこもってると気が滅入りそうだし、散歩でもしてこようかな)


 そんな思考に至るのも、常の私にはないことであった。しかしさすがに、見知らぬ家で趣味でもない児童文学にひたる気にもなれなかったのだ。


 外に出れば、何か思わぬ面倒事に巻き込まれる危険もなくはなかったが――どうせこれは私の人生ではないのだから、何がどうなったってかまいはしない。私はそんな自棄的な心地を抱え込みつつ、夏の色合いに染めあげられた外界に足を踏み出すことになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る