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「うむ」白狼丸と呼ばれた獣が、驚いたことに人間の言葉を発した。「人の子を乗せるのは久方ぶりだ。実に懐かしいぞ」

 犬と獅子を無理やり掛け合わせたような恰好で、分厚い毛が渦巻くように全身から生えている。どう見てもこの世界の生き物ではないが、祖先というだけあり、やはりどこか、ましろの面影がある――。

「お姉ちゃんたちも来て。あとで合流しよう」

 白狼丸が再び走り出した。脚が短いせいかどたばたとしており、お世辞にも流麗な疾走ではなかったが、それでも速度は目覚ましい。あっという間に路地の暗がりに紛れ、見えなくなってしまった。

「百世代もあると変わるもんだね。にしても小町ちゃん、紬によく似てた」と莉央が感想を述べる。「小さい頃、あんなふうだった?」

「よく言われるけど――どうかなあ。それより小町を追っかけなきゃ」

 コノハたちが先導してくれるのかと思いきや、彼らはなぜか方向を転換した。そのまま進みはじめる。どこ行くの、と莉央が呼びかけたが、戻ってくる様子はない。

「なにかあるのかも」

 ともかくも追いかけてみることにした。先ほどまでの混雑ぶりとは対照的に、商店街はがらりとして人の気配がなかった。誰もかれも出払ってしまっているのか。ただ延々と続く灯籠の列だけが、穏やかな光を放っているばかりだ。

 コノハがふとこちらを振り返り、片方の翼を差し上げた。彼が忍法を使うときの仕種だ。私たちは立ち止まり、彼の指し示す先を注視する。

 店の軒先に吊るされた提灯のひとつがふわりと風に揺れたかと思うと、独立した生き物のように宙へと飛び出した。見る見るうちに形を変え、真っ赤な出目金となって優雅に鰭を揺らしはじめる。

「コノハが飛ばしてるの?」

 と尋ねたが、むろん返答はなかった。そうこうする間に二匹、三匹と数が増え、提灯の金魚たちはあっという間に巨大な群れを形成した。より大きな魚の形を取り、身をくねらせながら夜空を泳いでいく。

「黒の出目金が目の位置にいる。スイミーだね」と莉央。

「小町の教科書にも載ってた。私が小学生の頃、あの続きを書きましょうって課題が出たっけ」

「なにを書いたの?」

「嵐とともにやってきた鮫と、スイミーたちが戦うって話だったような」

 莉央は口許を掌で覆い、「やっぱり姉妹だね」

〈コタンこ〉たちも移動を再開した。ひょこひょこと路上を跳ねていくので、追跡は容易い。 

 やがて狭い路地へと折れた。道というより、建物と建物の隙間と呼ぶべき空間を、横向きになって通り抜ける。視界が開けた瞬間、私はぽかんと唇を開いた。

 幼い頃によく遊んでいた、そして現在はもう無くなってしまったはずの空き地だった。なんの変哲もない、ただ草が低く茂っているだけの空間なのに、すぐさまそうと認識できる。

「ここ――」

「なにかあるの?」

「ある」

 思い出の場所だ。足を進めるのに迷いはなかった。この感覚もまた、当時と同じだった。

 小さな段ボール箱が、記憶どおりの位置にあった。これを見つけたあのとき、私は四歳だった――。

 屈み込み、なかを覗き込んだ。白くふわふわとした毛に覆われた子犬が、丸い目でこちらを見上げていた。

「ましろ」

 唇を震わせて名を呼ぶと、ましろは尾を振りながら頭を突き出してきて、私の手を舐めた。その少しざらついた感触。温かく、懐かしく、つい涙が滲んだ。

 いつもしていたように、もう片方の手で首の後ろをくすぐってやりながら、

「一緒に小町のところに行こう。覚えてる? あの小っちゃかった小町が、もう三年生なんだよ。びっくりするでしょう。ねえ」

 ましろが駆け出した。白狼丸ほどではないが、さすがの速さだ。懸命に併走する。

 舌を垂らして笑うような表情で、ましろがときおりこちらを見上げる。何度となく見た顔だった。眩しい夕日を浴びながら、冷たさを宿した風の匂いを嗅ぎながら、通り雨に降られやしないかと心配しながら、霜柱を踏みながら、お腹を空かせて家へ急ぎながら――。

 真っ白だからましろ。よろしくね、ましろ。

 聞いて、ましろ。私、お姉ちゃんになるんだって。来年の秋。 

 今日妹が生まれたよ、ましろ。名前は小町。小町ともいっぱい、いっぱい遊んでね。約束だよ。

 商店街の景色が、絵本の頁を捲るようにいつもの散歩道へと変化する。〈むすび丸地蔵〉へと至る、あの道だ。走っていくうち、ましろはヴィデオを早回しするかのように成長して、私のよく覚えている大人の姿になる。

 軽やかな笛、そして太鼓の音が近づいてきた。車道と歩道の区別もない小路を、列を成した妖怪たちが練り歩いてくるのを、私たちは目にした。

 瞬く黄金色の瞳、巨大な赤ら顔、複雑に枝分かれした角、長々と伸びた首。いっさいが記憶のままで、そしてずっと鮮やかだった。絢爛たる行列。〈夜行〉の訪れに、遂にして私たちは立ち合っていた。

「凄い」莉央が私を振り返る。「あの絵とそっくりじゃん」

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」とどこからか小町の声が私を呼ぶ。「本当に来たよ、見られてよかったねえ」

 道の反対側にいた。白狼丸に跨ったまま、私たちのもとへと寄ってくる。やがて目を丸くし、その背から勢いよく飛び降りて、

「ましろ? ましろも来てくれたの?」小町がその首に両腕を回し、抱き締める。「白熊みたいだと思ってた。小さくなったの?」

 ましろはただ尾を振って応じた。代わり、白狼丸が穏やかに、「お前が大きくなったのだ、人の子よ」

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