ラブ・ゴースト ~真実のアイ~

蜜りんご

第1話

 他者から見れば彼女の愛は、狂愛と呼ぶべき代物でしかなかっただろう。

 だが、彼女自身は、最初から最後まで純愛を貫いているつもりだった。彼女の認識する世界では、それこそが真実だった。

 狂愛だからこそ純愛で、純愛だからこそ狂愛。

 彼女の言う愛は、正しくそれを体現していた。

 だからどう、というわけでもない。

 それが、狂愛であっても、純愛であっても。

 己にとっては、それすらどうでもよかった。

 人の記憶を有しながら、人ではない己にとって、それは至極どうでもいいことだった。

 

 ただ、彼女が『愛』と呼んでいた、己に向けられた膨大な熱量。

 一つになることで失われてしまったその『熱』にこそ、意味があるように思えた。

 その『熱』こそが、命であるように思えた。


 その『熱』を彼女は、『真実の愛』と呼んだ。



☆ ☆ ☆ ☆


 名前を呼ばれたところから、己の、己としての記憶は始まっている。


「森沢……君……?」


 熱を孕んだ震える声。

 己の名前ではない。けれど、その名の持ち主の記憶を、己は有している。

 そのことを、自覚した。

 森沢春明の記憶を有しながら、森沢春明ではない己という存在を認識した。

 己のものではないその記憶を、森沢春明本人であるかのように、自由に閲覧することが出来た。森沢春明本人がするように、その記憶を閲覧し、知識を用いて思考することが出来る。

 そうであるのに、己は森沢春明本人ではないと、強く認識していた。


 森沢春明の記憶は、突然現れた白く光る球体に飲み込まれたところで終わっている。その時彼は、ショッピングモールの一階にあるカフェにいた。

 今、己がいるのは、カフェの店内ではない。

 カフェは、右手に見える。己は、カフェからモールの通路に出てすぐの位置で立っている……否、宙に浮いていた。

 微かに視界が揺れるのは、体がふわふわと上下しているからだろう。

 声の主は、森沢春明と同じ高校の制服を着た女子生徒だった。己の進行方向、カフェの角の辺りで座り込んでいる。

 女子生徒に該当するデータが、記憶の中に存在した。


「サクラヅカ……メグミ……」


 隣のクラスの女子生徒だ。顔と名前が一致しているのは、彼女が中学の同級生だからだ。それ以外に、彼女に関する情報はなかった。

 呼びかけに答えるように、候補に挙がった名前を呼んでみる。抑揚に欠けるが、記憶の中の森沢春明の声音と一致している。どうやって発声したのかは、己自身にも分からなかった。


「わたしのことが、分かるんだね? 本当に、森沢君なんだ……。でも、その姿は……」


 桜塚愛実本人で、間違いないようだ。

 所持している情報が間違っていなかったことに、満足した。

 名前を呼ばれた瞬間、桜塚愛実はパッと顔を輝かせ、それから、すぐに曇らせた。その理由には、見当がついている。

 己に向かって森沢春明の名を呼んだということは、己は森沢春明の姿形をしているのだろう。だが、視界に映る己の体は、人の輪郭を帯びてはいたが、明らかに人ではありえなかった。

 仄かに白い光を放つ、半透明な、人の形をしたナニカ。森沢春明の形をした、ナニカ。


「もしかして、あの光る球にやられちゃったの? 突然、現れて、ピカッて光って。わたし、びっくりして転んじゃって。怖くて、起きあがれなくて。でも、しばらく経っても何も聞こえないから、ゆっくり顔を上げてみたら、森沢君が……いてっ……」


 言い終わると同時に、桜塚愛実は座り込んだまま口元に片手をあてて、嗚咽を零し始めた。

 言われて改めて周囲の状況を確認してみれば、確かに、さっきまで通りを行き交っていた利用客は、一人残らず地に倒れ伏していた。通路の前方にある二階通路へと通じるエスカレーターの降り口に、三人の利用客が積み重なっている。

 身じろぎするものも居なければ、呻き声を発するものもいない。

 壊れたマネキンが散らばっているようだった。

 おそらく、死んでいるのだろう。

 先ほどまで森沢春明がいたカフェの店内に視線を投げる。身を起こしている者はいない。みな、テーブルの上に倒れ伏しているか、床に倒れ込んでいた。

 光る球の記憶を、己は有している。光る球を目撃した、森沢春明の記憶を。その記憶は、桜塚愛実の証言と、何ら矛盾しない。

 その最後の記憶を、なぞっていく。



 その時 森沢春明は、窓際の席に友人と向かい合わせで座っていた。注文したコーヒーが届いたところで、向かいの友人が窓の外を見ながら怪訝な顔をした。どうした、と問う前に窓の外から閃光が飛び込んできた。咄嗟に目を閉じて、顔の前に両手を翳す。

 陶器が倒れる音、割れる音、液体が零れる音、誰かが倒れる音。様々な音が飛び交っているのに、悲鳴が一つも聞こえないことに、森沢春明は疑問を覚えていた。

 ゆっくりと目を開けた時には、物音は止んでいた。向かいの友人は、テーブルに顔を伏せていた。投げ出された手の先で、届いたばかりのコーヒーカップが倒れている。湯気を立てた液体は、友人の顔の下で水たまりを作っていた。なのに、熱がるそぶりも見せず、人形のように静かに、まだ熱い液体の上に顔を伏せている。友人の名を呼びながら、腰を浮かせた。肩を揺すろうと手を伸ばして、ぎくりと窓の外を見る。

 窓ガラスのすぐ向こうに、白く光る球体が浮いていた。両手で抱えられるくらいの大きさの光る球体。

 光球は、窓ガラスをすり抜けて店内に侵入してきた。危険を感じながらも、森沢春明は動けずにいた。眼前へと迫る光球。強い恐怖感に襲われて、森沢春明は咄嗟に目を閉じる。

 目を閉じたはずなのに、視界は白い光に覆われた。

 森沢春明としての記憶は、そこで終わっている。



「森沢君…………。幽霊になっちゃったの? 幽霊になって、わたしに会いに来てくれたの?」


 思考に耽っている内に、桜塚愛実は泣き終えたようだ。涙を拭きながら、こちらを見上げている。

 傍から見れば、己は森沢春明の幽霊にしか見えないのであろう。

 森沢春明の記憶を有し、その名を呼ばれたことで覚醒し、白く光る半透明な森沢春明の姿形をした己。

 こうして並べ立ててみると、確かに、森沢春明の幽霊としての条件は十分に満たしているだろう。

 だが、己はそれを否定する。

 別に、森沢春明が幽霊を信じないタイプだったから、その認識に引きずられている、というわけではない。

 死んだことを認めたくない、ということでもない。

 ただ、己は森沢春明ではないという実感だけが、強く存在するのだ。

 理由を説明することは出来ないが、する必要も感じなかった。

 桜塚愛実の認識を否定するつもりもない。その認識を改めさせようという欲求もない。

 桜塚愛実が何をどう信じようと、己には、何の影響も及ぼさない。


 では、己は何なのだろうか?

 光球と森沢春明が融合して生まれたナニカ。

 それよりも、光球が森沢春明とう存在を取り込んで生まれたナニカ、の方がしっくりくる気がする。気がする……というだけで、特に根拠はないが。

 己の正体に、さほど興味があるわけではないのに、つい考えてしまうのは、森沢春明の習性に倣っているのだろう。そういった意味では、少なからず影響を受けている。だが、根本的なところが、森沢春明とは異なっている。

 森沢春明にとっては、己の正体が何かというのは、重大なテーマだったはずだ。

 だが、己にとっては、そうではない。

 きっと、人であれば『魂』と呼んだであろう本質が、異なっているのだ。

 森沢春明の要素を有していながら、森沢春明ではありえないナニカ。

 それが、今の己なのだ。


「嬉しい……」


 桜塚愛実にとっての己は、森沢春明の幽霊ということで確定したようだった。

 別にそれは構わないが、『嬉しい』とは、どういうことなのだろう。

 生きている状態の森沢春明に出会えたのならば、それを喜ぶのは、理解できる。謎の光球のせいで、他に生存者がいないかもしれない状況で、自分以外の生きている人間、それも知った顔となれば、心強さや安堵や喜びを感じるのは、理解できる。

 だが、この状況で幽霊に会えたことで、こんなにも喜べるものなのだろうか。

桜塚愛実は、床に座り込んだまま、両手の指先部分を口元にあてて、感極まったかのように己を見上げている。

 それを異様なことだと捉える、森沢春明の感性こそがおかしいのだろうか。比較できる記憶を所持していないため、判断のしようがなかった。

 頬に一筋の涙を伝わせながら、桜塚愛実は言葉を続けた。

 森沢春明の感性に倣い、何処か芝居がかかっているように感じられた。


「あの女じゃなくて、わたしを選んでくれたんだね? 幽霊になってまで、わたしに会いに来てくれるなんて、嬉しい。本当に、嬉しいよ……」


 熱のこもった視線が、己に向けられている。なのに、桜塚愛実は誰に向かって語りかけているのだろうと疑問に思う。

 森沢春明の幽霊に向けてなのだろう、とは理解している。だが、今、桜塚愛実にとっての『森沢春明の幽霊』とは、己のことであるはずだ。であるはずなのに、その視線は、己を通り抜けていく。己が半透明だから、ということではない。己の姿を通じた、桜塚愛実だけの幻想の森沢春明に語りかけているのだ。少なくとも、そのように見える。

 記憶の中の森沢春明は気づいていなかったが、桜塚愛実は森沢春明に恋心を抱いているのだと理解した。

 だから、彼女にとっては、森沢春明が『幽霊になってまで他の誰でもない自分に会いに来てくれた』ということが、他の何よりも重要なのだろう。

 だが、それにしてもというべきだろう。森沢春明ならば、そういう問題ではないと言っただろうか。

 日常から逸脱した状況下で、片思いの相手の幽霊に遭遇し、精神が錯乱した……ということもあるかもしれないが、そういうことではないように思う。

 おそらく、桜塚愛実は元から思い込みが激しいタイプなのだろう。


「嬉しい。ちゃんと、わたしのメッセージは、届いていたんだね? 真実の愛に、気づいてくれたんだね?」


 座り込んだまま、桜塚愛実は尚も言い募る。

 疑問形を使用しているのに、己の答えなど求めていないのだと分かる。脳内の森沢春明が、桜塚愛実にとって都合のいいセリフを甘く優しく返してくれているのだろう。

 森沢春明であれば、『虫唾が走る』と吐き捨てるであろうな、などと他人事のように考えながら、己の中で、ある記憶が展開されていた。

 桜塚愛実の言葉に喚起されて、森沢春明の直近の記憶が、鮮明に浮かび上がってくる。



 下駄箱の中、外履きの上にそっと置かれていた、宛名のない白い封筒。丁寧に糊付けした上に、赤い薔薇のシールで封がされていた。眉を顰めつつも、持ち帰って中身を検めた。好意であれ悪意であれ、どういう意図で送られたものなのか確認しなくては、対処のしようがないからだ。捨てるのは、その後でもいい。

 中には、二つ折りの白い便箋が入っていた。

 左上と右下に、封筒に貼られていたシールと同じ、赤い薔薇の模様が印刷されている。

 丁寧な字で、短い文面が綴られていた。


『あなたを本当に愛しているのはわたしだけです。あなたが、真実の愛に気付いてくれることを信じています』


 文面だけ見れば、ラブレターのように思えるが、二つ折りにされた便箋の間には、折れたカッターナイフの刃が仕込まれていた。

 それだけで、赤い薔薇の模様が血痕のように見えてくる。

 破り捨てたい衝動にかられながらも、森沢春明は、なるべく指紋をつけないように、慎重にカッターナイフの刃ごと便箋を元通り封筒に戻し、それを保管した。今後、何かトラブルが発生した際に、証拠として使えるかもしれないと考えたからだ。

 なぜ、そんなものが送り付けられたのかは、見当がついていた。

 手紙を受け取る二日前の放課後、クラスの女子に告白されて、これを了承した。翌日には、二人はクラス公認の仲になった。

 つまり、その女と別れなければ……という、ラブレターを装った脅迫状だったのだ。

 付き合い始めたばかりの彼女には、当たり障りのない範囲で事情を話し、少し距離を置くことにして、同時に犯人を捜し始めた。



 その犯人が、今、目の前にいる。


 あの女。メッセージ。真実の愛。…………漂う狂気。

 森沢春明は、あの手紙に狂気を感じていた。

 押しつけがましい文面に、カッターナイフを添える狂気。

 そして、今。己の目の前にいる桜塚愛実が纏っているのも、明らかに狂気だった。

 犯人は自分であるとほのめかす様なことを臆面もなく口にしたのは、相手が幽霊だからではないのだ。生身の森沢春明相手であっても、彼女はそうしただろう。

 差出人の名を書かなかったのは、脅迫状とも取れる手紙を送ったのが自分であるとばれるのを恐れたからではない。

 それすらも、メッセージだったのだ。

 あなたなら、わたしが分かるよね、という独りよがりなメッセージ。


 その手紙は、森沢春明にしてみれば、脅迫状以外のなにものもなかったが、桜塚愛実にとっては、真実ラブレターだったのだ。


 カッターナイフのような、桜塚愛実の真実の愛。桜塚愛実の狂気。


 森沢春明ならば、底知れぬ恐怖を感じるとともに、強い嫌悪感を頂いただろう。勝手な虚構を押し付けられることに対して、激しい怒りを覚えたことだろう。

 己は、桜塚愛実の狂気のような『愛』に対して、むしろ興味がわいてきていた。

 己とも、森沢春明とも違う、桜塚愛実の認識する世界。

 それを、もっと知りたいと思った。


「大丈夫、わたしは、ちゃんとわかっているから。あの女が、勝手に勘違いしただけだったんだよね? 森沢君は、わたしのことを愛しているからって、ちゃんと断ったのに。あの女が一人で勝手に勘違いして……。ううん、もしかしたら、公然の事実にしてしまえば、森沢君が逃げられなくなると思って、本当はフラれたはずなのに、付き合うことになったってみんなに嘘をついたのかも。うん、そう。きっと、そうよ。大丈夫、ちゃんと分ってる。許してあげる。だって、森沢君が幽霊になって、一番最初に会いたいと思ったのは、わたしだったんだものね? 大丈夫だよ、安心して? わたしは、幽霊だって、かまわない。だって、わたしたちは、真実の愛で結ばれているんだもの」


 無表情のまま、無言のままの己に向かって、桜塚愛実は熱を向けてくる。

 うっとりと陶酔の表情を浮かべ、身の内に渦巻いているのであろう熱を零していく。

 芝居の稽古を見学しているようなものだと表現できるだろう。

 己に向けられた愛の言葉のようでいて、それは脚本状の森沢春明に向けられた言葉なのだ。

 己が何も返事をしなくても、『脚本上の森沢春明』は甘いセリフを返しているのだ。

 人であれば、虚しさを感じたり白けたりするのだろうな、と考えながら、興味深く桜塚愛実の一人芝居を見守る。

 その『熱』を向けられた先が己でなくても、構わなかった。

 その『熱』そのものにこそ、興味があった。


 己の存在を無視して、己へと語りかけてくる桜塚愛実。

 己ではない己に向けられた、彼女の愛。彼女の熱量。

 その熱に、触れてみたいと思った。

 もっとそばに近寄ってみれば、実体のない己の体でも、その熱を確かめることが出来るのだろうか。

 お互いがお互いに、まったくチグハグなことを考えているのに、傍から見たらラブストーリーのワンシーンのように見えるのだろう、などと考える。

 そう考えながら、彼女の近くまで行こうとしたのだが、それは果たされなかった。



 桜塚愛実の背後、通路の床から、半透明の中年男性が顔を覗かせたのだ。下から押し上げられているかのように、ゆっくりと地上へと全身が現れていく。

 このショッピングモールに地下の階はないはずなのに、どうしてわざわざ地下から現れたのかは分からないが、己の『お仲間』ではることは、間違いなさそうだ。

 だが、驚いたことに、『お仲間』は、地上へ全身を現すと同時に、実体となった。半透明の体が色と質量を帯び、あの白い光も消えている。床下から現れた場面を目撃していなければ、普通に生きている人間にしか見えない。重力の影響を受けて、ちゃんと地上に足をつけているようだった。


「何人分?」

「…………ヒトリ」

「へえ?」


 己に向かって、『お仲間』は唐突に尋ねた。

 何人分取り込んだのか、という意味の質問だと解釈して、特に隠す必要もないため正直に答えると、『お仲間』は驚いたような顔をした。己に興味を抱いた……ように思える。

 そちらはどうなのかと尋ね返す前に、桜塚愛実が振り向いて鋭く誰何した。


「だ、誰っ!?」

「やあ。立てるかい? お嬢さん」


 『お仲間』は、それには答えずに、桜塚愛実に手を差し伸べた。桜塚愛実はその手を取らず、自分で立ち上がると、『お仲間』を警戒しながら、己の傍へと近づいて来る。


「誰だか知りませんけど、わたしたちのことは、放っておいてください。わたしには、森沢君がいればいいし、森沢君にはわたしがいれば、それでいいんです。だから、邪魔しないでください」


 己に寄り添うようにしながら、桜塚愛実は、滑稽にも毅然と言い放った。

 邪魔が入ったが、結果的には、己が望んだとおりになったともいえる。

 彼女は、己のすぐ傍にいる。

 手を伸ばせば、触れられるくらいの距離に。

 伸ばしたところで、幽霊のように桜塚愛実の体をすり抜けてしまうだけだろうが。


「食わねーの?」

「え………………?」


 『お仲間』は、桜塚愛実の態度を気にした様子もなく、何事もなかったかのように手を引っ込めると、また己に向かって尋ねた。桜塚愛実は、怪訝そうな顔をしている。

 食わねーの、とは、光球が森沢春明を取り込んだように、桜塚愛実を取り込まないのかという意味なのだろう。

 言われてみて初めて、そうすることが可能なのだと分かった。

 今まで特にそうした欲求が湧いてこなかったのは、森沢春明を取り込んだばかりで、人間風に言えば『腹がいっぱい』な状態だったからだろうか。


「食わねーなら、俺がもらうけど?」

「なっ!?」


 続けられた『お仲間』の言葉に、桜塚愛実が体を強張らせた。顔を紅潮させて、震える手をスカートのポケットに差し入れると、ピンク色のカッターナイフを取り出した。

 チキチキと音を立てて刃を出し、両手でそれを握りしめて、『お仲間』に刃先を向ける。


「来ないで、わたしに触らないで! わたしは、森沢君のものなんだから! 例え、幽霊でも、わたしは永遠に森沢君のものなんだから! あなたなんかの好きにはさせない!」

「と、言っているが?」


 桜塚愛実は『お仲間』の言葉を性的な意味だと捉えたのだろう。刃先だけではなく、殺意も『お仲間』に向けているようだ。

 『お仲間』の方は腕組みをしながら余裕な顔つきで、桜塚愛実ではなく己だけに話しかけてきた。

 桜塚愛実の刃も殺意も、『お仲間』には意味をなさない。いつでも、『人』から『幽霊』になれるのだ。

 今、この場において、桜塚愛実の運命を決めるのは、桜塚愛実本人の意志ではない。

 『お仲間』は、強引に桜塚愛実を奪うつもりはないようで、どうする、というように己を見つめている。

 だが、そのつもりはないと答えれば、己に代わって桜塚愛実を『食らう』つもりなのだということは察せられた。

 己が先に桜塚愛実を取り込む以外に、それを阻止する方法は思い浮かばなかった。恐らく、己よりも『お仲間』の方が、性能が高い。

 本音を言えば、もう少し観察していたかったのだが、こうなっては仕方がないだろう。

 『お仲間』に奪われるくらいならば、己自身でその『熱』を、そのすべてを『食らいたい』と思った。


「サクラヅカサン」

「は、はい…………」


 記憶の中の森沢春明が呼んでいた通りに名を呼ぶと、桜塚愛実は一瞬で『お仲間』への関心をなくし、己に蕩けた顔を向けた。あんなに分かりやすく敵意を向けていたのに、『お仲間』など存在していないかのように、己を、己だけを見つめてくる。実際、彼女の認識している世界から、二人以外の第三者は存在していないのだろう。

 熱のこもった瞳で、彼女は、己ではない己を見つめている。

 視線を合わせると、一層、顔も瞳も蕩けさせた。

 その熱量ごと、すべてを取り込んでしまいと思った。

 手を伸ばして彼女の頬に触れようとしたけれど、半透明の手は、やはり彼女の中に沈んでしまう。

 それでも、その手の先に、彼女の温もりを感じることは出来ない。

 感極まった眼差しで己を見上げる彼女は、全身から湯気が出そうなほどに赤く茹だり、熱を帯びているというのに。


「森沢君……」


 うっとりと彼女が囁く。

 己を見ているのに、己を見ていない彼女。

 彼女が真実の愛を捧げる相手は、己であって己ではない。

 それを、残念だと思うことはなかった。

 別に構わない。

 彼女に愛されたいわけではない。

 ただ、その熱を、感じてみたいと思った。

 真実の愛という名の、彼女の熱を。

 彼女と一つになれば、それが分かるのだろうか。


「シンジツノアイヲ、カンジサセテホシイ」

「……………………!」


 思わず漏れ出たその言葉は、彼女の熱量をさらなる高みへと押し上げた。

 言葉一つで、爆発しそうに高まった彼女の熱量。

 観測は出来るのに、感じることは出来ない。

 彼女の……真実の愛。

 それを、己のものにしたかった。

 ひとつになるのなら、今だと思った。

 抱きしめるようにして、彼女の体と重なり合い、一つに溶けあっていく。融合していく。己の中に、彼女が流れ込んでくる。

 

 そして。そして――――。


「で? 愛について、何か分かったのか?」

「………………いいや。取り込んでみれば、ただのデータだな」

「なるほど、な。まあ、それもそうか」


 融合が完全に終わったタイミングで、『お仲間』が話しかけてきた。

 桜塚愛実を取り込んだことで、何某かのヴァージョンアップがなされたのか、それに答える己の発音はかなりスムーズになっていた。

 空振りを告げると、『お仲間』は、意外にあっさりと納得した。

 そう、きっとそういうものなのだろう。

 『お仲間』に告げた通り、取り込んでみれば、それはただのデータだった。

 あの震えるような、爆発しそうなほどの熱量は、何処かへ消え去ってしまった。彼女の存在と共に。

 閲覧できる記憶が一つ増えただけだ。その記憶が、己の中で熱を発することはない。己の中に、熱が灯ることもない。熱を感じさせることもない。

 記憶を閲覧したところで、その時の彼女は、恋に茹だり熱に浮かされていたのだということは理解できるが、その熱を実感することは出来ない。

 あの熱量は、生きている人間特有のものなのだろう。

 肉体を持たない己と同化したら、失われてしまうものなのだ。

 求めていたものは手に入らなかった。

 感じることすら、出来なかった。

 そういうものなのだろう。


 ぼんやりと漂っていると、『お仲間』は現れた時同様、いや、現れた時とは逆にというべきだろうか。半透明に戻って、ゆっくりと床の下に沈んでいった。

 捕食対象であった桜塚愛実はすでにいないのだし、ここにはもう用がないのだろう。

 それにしても、なぜわざわざ地面の中を移動するのだろうか。現れた時は、己と桜塚愛実に気付かれないようにそうしたのだと推測もできるが、今さらその必要もないはずだ。

 趣味なのだろうか、という考えが浮かんだ次の瞬間には、それが誤りだと思い知らされた。


 『お仲間』が捕食対象として狙っていたのは、桜塚愛実だけではなかった。

 地面の下を通って、『お仲間』は、ちょうど己の真下から一息に姿を現した。

 己の体と重なるように。

 『お仲間』にとっては、生きている人間だけでなく、己すらも捕食対象だったのだ。


「なるほど、こうなるのか」

「!!!!!!!」


 己の中に、複数の記憶が一度に流れ込んできた。

 全部で、五つの記憶。

 それが、己の中で一斉に展開し、処理エラーを起こしかけたため、一旦記憶を閉じて、勝手に展開しないようにする。

 もう少しヴァージョンアップを重ねれば、複数の記憶を一度に処理できるようになるのかもしれないが、今の己には荷が重かった。先ほど取り込んだばかりの、桜塚愛実の記憶すら、まだ馴染み切ってはいないのだ。

 己自身の処理に追われている内に、『お仲間』は、己の中からすり抜けていった。

 今は、半透明なままで、向かい合わせで己の前に浮かんでいる。


「光球は食えたのに、一度食事済みの仲間同士では、食い合うことは出来ない、と。お互いが食った情報を共有し合うのみというわけか。ただし、食事がすんで幽霊状態になってからのお互いの記憶は交換できない。なるほどね」

「…………断りなく勝手に重なり合うなんて、マナー違反じゃないのか?」

「ふっ。人間みたいなことを言うなよ。事前に確認したら、断られるかもしれないだろう? だったら、不意を突いて勝手にやったほうが確実だ。結果的には、お互い得られるものがあったわけだし、良しとしようぜ?」

「……………………」


 勝手な言い分だが、一理ある。仲間同士だからと油断していた己にも非がある。それに、今さらどうなるものでもない。

 己としても、本気で怒っているわけではなかった。してやられたことに対する意趣返し……というわけでもない。スムーズになった会話機能を、試してみたかっただけだ。


「ふうん? 光球だったおまえさんは、通路側にいたお嬢さんじゃなくて、店内の森沢君の方へ向かっているのか。動いている者に向かって行く習性があるのか、単に男が好きなのか……」


 『お仲間』は、かなり好奇心が強いようだった。己が気にもしなかった事柄について、考察を述べていく。

 『お仲間』の姿の元となったスーツの男性のデータを漁って、男性が大学教授であることが分かった。女子大生風の幽霊に襲われた映像が残っていることから、光球が一番最初に取り込んだ人間ではないことが分かる。


「ちなみに、この姿は二人目の犠牲者のもんだ。一人目は、女子大生だったみたいだな。大学の教授だった二人目を食ってから、意識が芽生えて、姿も変わった。どうやら、女子大生はこの男のことが好きだったようだから、それも何か関係しているのかもしれん。そっちは、どうだったんだ? それ、一人目の姿なんだろ? 最初から意識もあったのか?」

「いや。桜塚愛実に、一人目の人間の名前で呼びかけられたことで、意識が生まれた」

「へえ、どちらも人間の恋心が絡んでいるってわけだが、状況は違うし、もう少しデータが欲しいところだな」

「そうだな」


 その意見には同意したので頷いたが、意識発生の条件に付いては、さして興味はなかった。


「それにしても、お嬢さんの思い込みは、凄まじいな。カッターナイフ入りの手紙っていう発想がもうヤバいよな。森沢君の方は脅迫状としか思っていないのに、お嬢さんとしては真実の愛を問うラブレターでしかないっていうのが、ちょっとホラーが入ってないか? 夕暮れの人気のない道を恋人と二人で歩いている時に、カッターナイフを握りしめたお嬢さんが物陰から突然現れたりしたら、マジで怖いだろうな!」


 森沢春明にしてみれば、そうだろうな、とは思ったが、これには答えない。

 桜塚愛実は、虚構の世界を生きていた。自ら創りあげたその虚構こそが、彼女の真実だった。独りよがりの恋情こそが、彼女にとっての『真実の愛』だった。

 己どころか、森沢春明本人であっても、そんな事実はないというのに、彼女の中では二人は思いが通じ合って結ばれたことになっていた。お互いの『真実の愛』を確認し合い、幽霊と人間の垣根を越えて永遠に結ばれた幸福の絶頂で、彼女の記憶は終わっている。

 その記憶をなぞっても、あの時の彼女が熱に浮かされていたことは理解できるのに、その熱そのものを感じることは出来ない。

 肉体のないこの体では、熱を発していると理解は出来ても、熱を感じることは出来ないのだろうか。

 そこまで考えて、そういえばと思い返す。

 この『お仲間』実体化することが可能なのだ。地面に足をつけて立っていたし、座り込んでいる桜塚愛実に手を差し伸べていた。ということは、実体化した『お仲間』は、人間同士のように、桜塚愛実と触れ合うことが出来たのだろうか。


「さっきのアンタには、実体があるように見えた。あれは、どうやって手に入れたんだ?」

「ああ、あれか。死体を食ったら、出来るようになった」


「悪食だな……」


 そうは言ったものの、もちろん本心ではない。ただ、さきほどは光球を食らったとも言っていたし、よくそういったことを思いつくものだと、むしろ感心していた。

同族を食らうことや、死体を食らうことに、人であれば禁忌を覚えるのだろう。だが、己にはそういった感覚はない。光球については、あまり仲間という実感もなかった。

 そういったことが可能なのだなと思うだけだし、それで実態が手に入るのなら、試してみる価値はあると思った。


「だから、人間みたいなこと言うなって。それで、実体を手に入れて、何かしたいことでもあるのか?」

「そうだな…………」

「なんだよ。勿体ぶらずに教えろよ? 俺も、実体化の方法を教えてやっただろ?」


 見せびらかすように実体を纏って、男はしつこく尋ねてくる。好奇心が強いのは、姿の元となった大学教授の影響なのだろうなと考える。

 表情は豊かなのに、桜塚愛実とは違った意味で芝居臭さを感じる。よくできたAIを搭載したアンドロイドのように思えるのは、正体を知っているからなのだろうか。


「なあ、なあ、なあ」


 『お仲間』は、腕組みをして、右手の人差し指で左の腕を焦れたようにトントンと叩きながら、答えを催促してくる。

 何と答えようか考えて、しっくりくる答えに行き当たった。


「真実の愛を探しに行こうと思う」

「へえ? なんだ、お嬢さんの思い込み激しい狂った愛に惚れちまったのかぁ?」

「さあ、どうだろう…………?」


 茶化すような『お仲間』の言葉に、曖昧に答える。

 そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれないし、別にどちらでもよかった。

 好きなように捉えてもらって、構わない。


 実体を手に入れたなら、生きている人間を探しに行きたい。

 人間のふりをして、生きている人間と触れ合ってみたい。

 出来れば、桜塚愛実のように、己に熱を向けてほしい。

 幸い、森沢春明は女子にモテるタイプのようなので、運よく若い女性と出会えれば、十分に可能性はあると判断した。もちろん、こちらからもそうなるようにアプローチしていくつもりだ。


 己に向けられる、渦巻くような『熱』を、どうしても感じてみたい。

 己が求めているのは、桜塚愛実が求めていた『真実の愛』とは違うのだろう。

 だが、別に同じである必要はない。


 己は己の、『真実の愛』を探しに行くのだ。

 己だけの『真実の愛』を――――。


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