【かきこひわづらひ④】2016/10/31(月)夜

 仕事帰りの交差点で、森勲はハロウィンの仮装をした若者たちと次々にすれ違った。


 一団はそのままビル前の広場に集まり、何やら大規模なイベントが行われるのか異様な熱気に包まれ出した。写真を撮り合う者たちを横目に、家路を急ぐ人々が入り乱れる。それらに押しやられて、勲はいつもとは違う方向から駅に向こうことになってしまった。


 ――やれやれ。


 こういう時、波に逆らえない自分が少しイヤになる。交通規制がされたわけではないのだから、仮装の集団の中を突っ切っていくことだってできたはずだ。


 ――イラつくのも、何か疲れる。


 どちらにしても気分が良くなるわけではないとわかるや、勲はすべてを忘れることにした。ポケットから定期入れを取り出し、改札口に向かう。


 その時、電光掲示板の赤い文字が目に飛び込んだ。沿線火災による運転見合わせの表示に、勲の背後からもため息が聞こえる。


 とんだ厄日に肩を落とし、バスターミナルに足を向けた時だった。ちょうど斜め前を歩く男の姿に、思わず声を上げた。


「柿坂!」


 相手も振り返り、勲の姿を目に捉えたようだった。鋭い眼差しがわずかに見開かれる。


 柿坂と会うのは、勲たち夫婦の結婚式以来だ。きちんとした礼を言わなくてはいけないという気持ちがあったのか、思わずこんな人混みで呼び止めてしまった。柿坂も徐々に困惑した表情になる。勲は慌てて近くの居酒屋を指差した。


「電車止まってるぞ。せっかくだし、ちょっとどこか寄っていかない?」


 これで、相手が遠慮すればそれまでの話、この場が流れるだけだ。しかし、柿坂は駅の様子を確認すると、小さくうなずいた。


 ただ、それは再会を喜んでいるような顔ではなかった。時間つぶしに仕方なく、そんな色が見え隠れする。


 ――仕事で何かあったのかな。


 勲は気にしないことにした。そもそも、柿坂とは肩を組んで大はしゃぎするような間柄ではない。勝手に自分が恩義を感じ、尊敬し、できれば関係を保っていきたいと思っているだけだ。それでも、高校を卒業して二十年以上、結婚式にまで出席してくれたのだから、嫌われてはいないという自信もあった。


 チェーンの居酒屋は、同じように時間つぶしの客で溢れていたが、どうにか席を確保できると、二人はさっそく乾杯した。それを合図に、勲は口を開く。


「柿坂、あの時はありがとうな。嫁も喜んでくれたよ」


 かつての級友は何度か目をしばたかせ、ようやく納得したようにうなずいた。


「……今年の一月でしたっけ」


 早いですね、そう言って柿坂はお通しに箸をつけた。


 相変わらず敬語で話す友人に、勲は懐かしさと同時に、やはり少し寂しい気持ちになった。そして、先週会った、妻の親友でもある女性を思い出す。


 ――和泉さんとは仲直りしたのかな。


 あの時の澄子の憔悴ぶり、帰宅してからも心配になった。妻の紗枝はいつものことだから気にするなと言っていたが――。


「それで、森クンは上手くやれてるんですか。新婚生活」


 柿坂は、口元にほんの小さな笑みを見せた。それに、なぜか勲は緊張した。


「あ、うん。何とか」


「随分と含んだ言い方ですね」


「お前が、そんな質問をするとは思わなかったからだよ」


「え?」


 そこで、二人の間に沈黙が流れた。


 そうだ。


 この柿坂が人のプライベートを聞いてきたことなど一度もなかった。


 それほど頻繁に会う間柄でないのだから近況報告は当たり前にしても、この孤高な男の方から話を振ってくるなど――。


 同じようなことを感じたのか、柿坂がやや顔を歪めた。片方の眉を持ち上げつつ、変な咳払いをする。


「年をとったんですよ、私も」


「同い年だぞ、僕たち」


「……」


 勲は、少し胸の温かさを感じた。

 話し方や目つきは、昔と同じく人を寄せ付けないものがあるにしても、明らかに柿坂は変わった。この一年で劇的に。


 ――和泉さんの、おかげなんだろうな。


 勲はグラスを煽ると、柿坂に詰め寄った。


「僕の方は、心配ないよ。それより、柿坂はどうなの?」


「は」


「ちゃんと将来のこと、考えてるのか?」


 すると、友人はわずかに目を伏せ、首をかしげた。


「特に……まあ、それなりに」


 はぐらかしているのが、目に見えてわかる。勲は中ジョッキを二つ追加注文すると、柿坂が食べていた酢モツを一つ奪った。


「何がそれなりに、だよ。可愛そうに、泣いていたぞ」


 次の瞬間、柿坂の箸が止まると同時に鋭い眼差しで射抜かれた。勲は慌てて口を押さえ、そのまま、むせ返りそうになりながらモツを飲み込む。


「……森クン」


 ――しまった。


 柿坂と例の彼女との関係が微妙であるのはもちろんのこと、この自分がそもそも二人の関係を知っているのは、伏せておくべきだった。


 勲は必死に取り繕った。


「ゴメン、えっと、あの、い、和泉さんは僕の嫁さんと友達なんだよ……結婚式の二次会でホラ、来てくれたでしょ」


 柿坂は首を横に振った。


「そうじゃなく……彼女に会ったんですか」


 その顔が苦しげに変わる。


 ――おいおい、まさか誤解してないか?


 勲はさらに慌てふためき、結局は洗いざらい話す羽目になった。


「言っておくけど、う、浮気とか不倫とかじゃないぞ!この前、嫁さんと夕飯を食べていた時に、和泉さんが泣きながら来たんだよ。その、えっと……もう、わかるだろうよ」


 話の途中で、柿坂がうなずいた。そして、小さく息を吐いた。


「……とんだ、ご迷惑を」


「あ、いや。僕と嫁さんは平気だけど」


 すると、柿坂が苦笑いを浮かべた。


「あの人……さんざん罵倒したでしょう、私のこと」


 ――。


 勲は、級友を見つめた。


「お前は……そんな罵倒されるような人間じゃないだろう?」


「は?」


「最初は和泉さんも感情的だったけど、僕……お前のこと少し話したんだ。勝手なことして悪いと思うけど」


「……」


「柿坂、お前はどうか知らないけど、僕はあの日、本当に救われたから」


「……あの日」


「町で不良グループに絡まれて、下手に抵抗したせいで、金を取られるばかりじゃなく、とんでもない仕打ちされそうになった時に、お前が助けてくれた……あの日だよ」


 弱かった自分にとって、目の前の男はヒーローだった。


「アレは……テスト範囲を教えてもらった御礼ですよ」


「嘘つけよ。だいたい、お前に『範囲』なんか必要ないだろう?」


 柿坂はテーブルの一点を見つめたまま、そっと口を開いた。


「……登校していない私の机に溜まったプリントだの何だのを整理してくれたのは、森クンだと聞かされましてね」


「……」


 それっきり柿坂は押し黙った。


 勲は、少し目元が熱くなるのを感じつつ、笑みを向けた。


「和泉さん、一生懸命で良い人だよな。お前にワガママ言ったこと、ずっと後悔していたよ。どうしようって……」


「……」


「僕がどうこう言える立場じゃないけど、あの人、たぶん柿坂にとって大事な人になると思うよ」


 勲は、柿坂のはにかむ表情を期待した。


 しかし、目の前の男は何か思いつめたような顔で、わずかにうなだれた。


 そして、感謝します、小さな声でそう言った。


【かきこひわづらひ④ 了】

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