二〇一六年十月二十三日 2016/10/23(日)夜


「スミ!ちょっと、どうしたのよ?」



 携帯電話の向こうから、友人の心配そうな声が届くと、澄子は嗚咽をしながら、どうにか答えた。


「……か、柿坂さんを……怒らせちゃったよお……」


「な、何で!」


「わたしが、ワガママ言い過ぎた……どうしよう、どうしよう」


「今どこにいるの?外ね?」


「……ポプラ、公園」


 冷たい夜風の下、柿坂と座っていたベンチで、二時間も呆然としていた。


 幸せな時間だったはずだ。


 ――どうしよう。


 愛しい人の奏でる二胡の音色が寒風の中に消えていく。

 二人の間に明らかな溝が生まれた。しかし、その埋め方を澄子は知らない。


 もう、二度と二胡が聴けないかもしれない。

 もう、二度と――会えないかもしれない。


「紗枝、どうしよう、わたし、わたし」


「まったく、アラフォー女がメソメソすんじゃないわよ!とりあえず、話を聞くから、駅前まで来なさい。一緒に夕飯食べよう?」


 澄子は、友人に誘導されながら、ふらつく足で立ちあがった。





 日曜の夜、駅前は人出で溢れ、ところどころから酔っ払いの歓声も聞こえてきた。


 澄子は、すれ違う人々とぶつかりながら、友人が待つ店を目指して歩いた。


 その間も、思い出すのは愛しい人の狼のような目だ。


 ――完全に、振り出しに戻った。


 柿坂の目が鋭いのは最初から変わらないが、その微妙な表情がわかるくらいにまでは、関係を密にしてきたつもりだった。


 楽しい時、恥ずかしい時、慈しむ時、全部違う。


 それが、さっきは初対面の時と同じ敵意に満ちていた。

 思わず息を飲んだのは、久しぶりだった。


 ――もうダメかもしれない。


 澄子は、涙を滲ませながら、喧騒の中を突き進んだ。


 友人が待っていたのは、小さなイタリアンの店だった。澄子に気づくと、紗枝は半分立ち上がるようにして手を振って来た。


 その向かいの席に座っていたのは――紗枝の夫、森勲だった。


「……え?」


 思わず立ち止まる。


 すると、紗枝が肩をすくめて笑った。


「旦那とご飯を食べていた時に、ちょうどスミから連絡が来たのよ」


「や、やだ。それならそうと、言ってよ……。ごめんね、わたし帰るよ」


 澄子は勲に頭を下げると、そのまま背を向けた。


「待ちなってば。大丈夫だから、ここ座って」


 紗枝は、自分の隣の椅子を叩くと、夫に向かって目配せをした。


 勲が優しい笑みを浮かべる。


「和泉さんが良ければ……僕のことは気にしないで平気ですから」


「……はい……すみません」


 澄子はうなだれるように椅子に座った。


 紗枝は店員を呼んで、グラスワインと料理を追加オーダーすると、澄子の肩を叩いた。


「とりあえず、飲んじゃえ!勲くんがご馳走してくれるって」


 友人が場を和ませようとしているのがわかる。しかし、澄子はそれすらも上の空で聞いていた。


 紗枝がため息を吐く。


「……何があったの?話してごらんよ」


 澄子は、静かにうなずくと、ポプラ公園での経緯を紗枝と勲に話した。思い出すだけで、目の前が滲む。


 料理を運んできた店員が、心配そうな顔をしている。

 見られまいと、澄子はハンカチで顔を覆った。


「わたしの誕生日が、柿坂さんのご両親の命日だって言われて……。でもね、お墓参りを優先するのは、問題じゃないの。ただ、いつか故郷に来てほしいと言われていたから、わたしも行きたいって思っただけなのに、あんなに嫌がられるなんて……」


 ため息を吐いた紗枝が呆れたように笑った。


「どうして、そんなに焦っちゃったのよ。柿坂さんだって、都合があるでしょうよ」


「都合?」


「親戚が集まるとか、兄弟で弔うとか、お家の事情よ。スミのことが大切だとしても、まだ手も繋いだことがない相手を、今このタイミングで実家に連れて行くなんて有り得ないってば」


 澄子は、ハンカチから顔を離して紗枝を見つめた。


「誰かと会う予定なのは聞いたよ。でも、説明しづらい人だって……親戚なら教えてくれるはずじゃない。本当は、昔の彼女なんだわ」


「どうして、昔の彼女に会う日をわざわざ親の命日にぶつけるのよ。ちょっとワインでも飲んで落ち着きなさいって」


 紗枝は澄子にグラスを寄越しながら続けた。


「ただでさえ、スミの誕生日と親の命日……おめでたいことと、そうでないことがバッティングしているんだから、柿坂さんだって戸惑って気を遣ったに違いないわ。全部用事を済ませてから、キッチリ誕生祝いがしたかったんじゃないの?」


「……」


「男が怖いスミと、今まで根気よく向き合ってくれた人なんだからさ、たまには好きにさせてあげなさいよ。誕生日のことも考えてくれるなんて、良い人じゃないの」


 友人の指摘はどれも正しい。


 確かに柿坂は、澄子に親の命日だと伝えるのを迷ったとも言っていた。


 澄子は、冷静になるほど、自分の幼稚さに情けなくなった。


 今すぐにでも柿坂に謝りに行きたいが、あの狼のような眼差し、どうしても勇気が出てこない。


 ――こうしている間にも、柿坂さんが離れていってしまう。


 澄子は、再び目に涙を溜めた。


 そこへ、ずっと黙って聞いていた紗枝の夫――勲が、おずおずと片手を上げた。


「あ、あの……ちょっと良い?」


「どうしたのよ、トイレ?」


 紗枝が眉をしかめると、勲は慌てて首を横に振った。


「違うよ。横で聞いて気になっていたんだけど……えっと、和泉さん」


「な、何でしょうか」


 涙を拭いながら、澄子は背筋を正した。


 勲が少し声を潜める。


「さっきから、『柿坂』って……もしかして……あの、柿坂ですか?僕の同級生の……」


 すると、紗枝が手を叩きながら、申し訳なさそうに小さく笑った。


「そうだ、勲くんに言い忘れてた。スミは、柿坂さんと付き合ってるんだよ」


「えっ!」


 勲が驚いた拍子に、皿の上のフォークがガチャンと音を立てた。


「ほ、本当に?すげぇ……」


「……」


 澄子は、この夫婦の結婚式の二次会で、勲が柿坂を高校時代の同級生だと紹介したことを、今さらながら思い出した。


 しかし、その勲の顔がにわかに曇った。何か言いたげな表情を、澄子は見逃さなかった。


「あ、あの、森さん。柿坂さんのことで何か……?」


「え!あ、いや……」


 動揺する夫に向かって、紗枝も意地悪い笑みを見せた。


「スミはこう見えて頑固だから、引かないわよ。勲くん」


「いや、僕は本当に何も」


「森さん」


 二人の女に迫られ、勲はようやく観念した。大きくため息を吐くと、澄子を真っ直ぐに見つめた。


「和泉さんは……柿坂とどういう会話をしていますか?」


「え?」


「もしかして……アイツ、あなたに敬語を使いませんか?」


「……そうです、けど」


 澄子の隣で紗枝が眉をしかめた。勲はそのまま話を続ける。


「柿坂は、高校時代から、僕にも敬語なんですよ」


 ――。


 澄子が上手く言葉を返せないでいると、勲が苦笑した。


「まあ、あんな風貌だし、そっちの方が安心するんですけどね。逆に、周りからしょっちゅう怖がられるから、アイツなりの歩み寄りの手段だったのかも。いくら施設育ちでも敬語を強要されることはないでしょうからね」


 次々ともたらされる柿坂の情報に、澄子は思わず息を飲んだ。


「柿坂さん……施設で育ったんですか……?」


「うん。柿坂は早くに両親亡くして、中学時代から問題を抱えて荒れていたみたいだから……たびたび厄介になったんじゃないかな」


「えっ!」


 澄子と同時に紗枝も声を上げた。ついに言葉を失う澄子の代わりに、友人が夫に詰め寄った。


「柿坂さん、不良だったの?」


 すると、勲はどこか懐かしむような眼差しで宙を見つめた。


「まあ、僕が知っているのは高校時代だけど、たまにタバコは吸ってたかな。でも、校内で喧嘩とか悪さとかはしていなかったよ。そもそも卒業できる程度にしか学校には来なかったし……。実は、僕が街中でカツアゲされそうになったのを柿坂が助けてくれてさ。それ以来の付き合いなんだ。本当は良いヤツなのに、誤解されやすくて残念だよ」


「カツアゲって、ちょっとカッコ悪いわよ、旦那さま」


 紗枝の横やりに、勲が苦笑しながら澄子に向き直った。


「実は、柿坂はメチャクチャ頭も良いんですよ。ろくに授業も出てないのに常に学年トップクラスでした。学費の関係で進学はしないつもりだったらしいけど、周りから後押しがあったんでしょうね。奨学金か学費免除かわかりませんが、どうにか大学を卒業したと聞きました」


 勲はまるで自分のことのように、誇らしげに話を続けた。


「今、アイツは地味な公務員をやってるけど、せめて中央官庁とか……あとは司法試験とか外資や商社も狙えたはずなのになあ。間違いなく能力あったのに。本当、もったいないと思いましたよ」


「そんなにすごい人だったんですか……」


 澄子は、急に柿坂が遠い世界の人間に感じた。確かに、話し方や考え方は聡明さがうかがえた。


 勲が、肩をすくめて笑った。


「アイツが、和泉さんを故郷に連れて行きたがらないのは、その生い立ちとか、荒れていた頃の自分を知られたくなかったからじゃないかな」


 紗枝もそれに同調する。


「きっと、そうよ。だって、スミって不良とかヤンキーとか嫌いそうだもん」


 笑い合う夫婦の前で、澄子はどこか腑に落ちなかった。


「でも、それこそ、話してくれてもいいのに……」


「だから、知られたくなかったのよ。どんなに想い合っても、触れて欲しくない過去の一つ二つあるわよ。嫌われたくない相手なら、なおさらね」


 紗枝が横目で夫を見ると、勲はぎこちなくうなずいた。


「それだけ、和泉さんのことが大事なんですよ。僕からしたら、あの柿坂が自分から故郷の話をするなんて、信じられないです」


 さらに、紗枝は少し怒ったような口調で澄子に言った。


「だいたい、スミだって昔のことを積極的に柿坂さんに話したわけじゃないでしょ?柿坂さんが根掘り葉掘り聞いてきたの?そんなはずないわよね」


 澄子は押し黙って友人の言葉にうなだれた。


 ――。


「……ゴメン。わたし、自分のことばかり……」


 柿坂にも傷を負った過去があるかもしれないことに、どうして気付いてやれなかったのか。


 当人は、必ず故郷に連れて行くと約束してくれたのに、その少しの間も待てなかった自分を恥じた。


 誕生日も、夜は一緒に過ごせると約束してくれたではないか。



 ――柿坂さん、ごめんなさい。



 そこで、勲が小さくため息を吐いた。


「でも……和泉さんにも敬語なのか、アイツ」


「え?」


「……本当、何を考えているのか、未だにわからない男ですよ。何というか、丁寧な言い回しって……相手を敬うようで、遠ざけている気がするんですよね」


 その寂しそうな瞳に、澄子は思わず自分を重ねた。

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