二〇一六年十月十六日 2016/10/16(日)夜



「私が……旦那を選んだ理由?」




 友人の紗枝が、お好み焼きを返す手を止めた。


「どうしたのよ、急に」


「ごめん、ちょっと気になって」


 和泉澄子は、友人の代わりにお好み焼きを引っくり返すと、小さく頭を下げた。


「変なこと聞いて、イヤな思いさせた……かな」


「え?いや、それはないけどさ」


 紗枝はしばらく考え込むと、首をかしげたまま言った。


「勲くんを選んだ理由かあ……やっぱり相性なんじゃないのかな」


「ぐ、具体的には?」


「笑うツボが同じだとか、食べ物の好みが似ているとか……。あとは月並みだけど、安定した収入がある人か、借金やギャンブルをしない人か……家族を大切にする人か……かな。結婚は恋愛とは別だから、どうしたって生活していくことを考えるわ」


 卓上の砂時計を引っくり返す友人に、澄子は尚も詰め寄った。


「じゃあ、結婚する前……お付き合いを決めたのは、どういうところが良かったの?」


 すると、紗枝がはにかむように笑った。


「何か頼りなさげに見えるけど、意外にハッキリ言う人でね。実はさ、私ってば彼に結構叱られたりしたんだ。それが、グッと来てさ……。でもね、甘えてくる時は可愛い……って、何を言わせるのよ」


 照れ隠しなのか、紗枝は大声で店員を呼ぶとビールを追加した。


「スミ、また何かあったの?本当にいつも苦難が絶えないわねぇ」


 それに対して、澄子が何も言えずにうつむいていると、紗枝は困ったように笑いながら店内を見渡した。


「それにしても、良さげなお店ね。メニュー豊富で美味しくて安くて、綺麗だし。柿坂さんも洒落たお店を知っているのね。私からもお礼を言っておいてくれる?」


「あ、うん……」


 澄子はビールのグラスに並んだ気泡を見つめた。


 だいぶ日も短くなり始めた日曜の夜、紗枝を連れてきたこのお好み焼き屋は、柿坂から教えてもらった店だった。


 その時もいつも通りに食事や会話をして、楽しく幸せな時間を過ごせた。愛しい人もたくさん笑ってくれた。


 それなのに――。


 夏の花火の夜から、帰り道が悲しくて、寂しくてたまらない。


 今までも似たような感覚はあった。

 それでも、会える日に近づけばそれは楽しみに変わり、喜びに変わった。


 今は、違う。


 会うまでに、不安は頂点になり、会ってもらえると【安心】する。


 ――どうしてだろう。


 愛しく想う気持ちに、変わりはないはずなのに。


 ――選んだ理由……か。


 あの花火の夜、愛しい人から言われたことが、ふとした時に思い出される。



 『こんな私の何が良いんですか』


 『このままの関係が、一番幸せだと思うんです』



 もちろん、仲が悪くなったわけではない。実際、あの後も二人で出かけることは続いている。


 ――だけど。


 澄子は、あの花火の夜から柿坂の左手を見るたびに、苦しくて泣きそうになるのだ。


 ――初めて、触れてみたいと思えたのに。


 確かに感じた、二人の温度の差。


 柿坂は、澄子との進展を望んではいないと、ハッキリわかってしまった。


 ――バカ。最初に、わたしが進展を望まなかったんじゃない。


 触れてみたいなどというこの気持ちの変化は、澄子自身も戸惑いがある。伝えるにはまだ勇気が必要だった。


 ――せめて、柿坂さんから聞かれたことだけは、答えなきゃ。



 『どうして、私なんですか』



 それを伝えることで、愛しい人の心が楽になるならば――。


「それで、スミはどうして柿坂さんみたいな怖い人が良いの?聞きたい、聞きたーい」


 友人の絶妙な質問に、澄子は危うくグラスを落とすところだった。


「……柿坂さんは怖くないから」


「へえ」


 紗枝が、片目を細めて笑った。


「怖がりのスミが言うんだから、間違いないわね」


「本当よ?柿坂さんは、目が鋭いだけで、話し方も笑い方も優しいし、でも聞き上手で、こう安心するというか……」


 自分の顔が徐々に熱くなるのがわかった。

 これが、愛しい人を想う理由なのだろうか。


 しかし、これだと不十分な気がした。


 友人がお好み焼きに青海苔を振りかけながら笑った。


「それで、それで?」


「……からかわないで」


 澄子も、ふてくされながらお好み焼きに削り節を散らす。そして、どちらともなく笑ってしまった。


「でも、わからないのよねえ」


 紗枝がビールを一口飲んだ。


「どうして、柿坂さんは……男が怖いスミを、あえて選んだのかしらね」


「……」


「難易度が高い相手を落とす自信があったのかな。根っからのハンターだったりして」


 その言い方に、澄子は少し腹が立ったが、友人の疑問には首をかしげざるを得ない。


「……そうよね。どうして、わたしと一緒に居てくれるんだろう」


「そもそも、柿坂さんは、どこまで本気なのかしらね?」


 紗枝がお好み焼きを食べながら、ハフハフと不明瞭に言った。


「だいたい、手も繋いでないんでしょう?出会ってそろそろ一年近く経つのにさ」


「……」


「悪い人じゃないかもしれないけど、よそ見されないように、気をつけなさいよ」


 急に、友人の声のトーンが落ちたので、澄子は思わず箸を止めた。


「よそ見……って?」


「他にも誰かいるかもしれないじゃない。そうでなくても、風俗とか。とりあえずスミが一番にしても、よ」


「……」


「相手だって男なんだから、本能的に身体の欲求はあるわよ。度合いは知らないけど」


 紗枝の言葉に、一瞬頭が真っ白になった。


 どうして、気づかなかったんだろう。


 柿坂が澄子のトラウマを気遣ってくれているのは確かだ。


 その上で、あの言葉を伝えられたのだ。


 ――今のままの関係が、一番幸せ。


 澄子とは、そこまでの関係で良いということは、柿坂が本能的に身体を求める相手は、他にも――。


「そんなこと……」


 ないとは、言えない。


 澄子自身、男性側の肉体的な事情はわかっているつもりだ。だからこそ、距離を置いてきたのだから。


 ――柿坂さんが、別の女の人と身体を重ねる。


 胸が締め付けられ、思わず咳き込んだ。


 ――イヤだよ。


 相手に触れさせない自分が悪いのに、それでも、身体が震えそうになる。


 ――嘘、わかっていたはずだ。


 関係を深めようとすれば、必ず直面する問題だ。


 逃げてきただけ。

 柿坂が距離を保ってくれることに甘えていただけだ。


 そして、きっと愛しい人は、澄子のこの思考ですらお見通しなのだろう。


 だから、今のまま無理をしなくても良いと――。


 ――。


 ふと、愛しい人がこぼした言葉を思い出した。


 鈴峰町の花火祭りで、最後に柿坂から告げられた言葉。


 澄子は、友人の顔を見つめた。


「あのね、柿坂さんに『いつか、自分の故郷に来て欲しい』って言われたんだ。どういう意味……だと思う?」


 すると、紗枝の顔がにわかに明るくなった。


「本当に?だったら心配ないじゃない!」


「そ、そうなの?やっぱり……世間一般の……こう……将来を考えて……」


「そうよ!実家に連れて行くのは、男の大いなる決断よ」


 友人は、語気を強めながら、もう一枚のお好み焼きを引っくり返した。そしてビールを煽ると、何かを悟ったように大きくうなずいた。


「ついに……スミも、そんな日が来るのね」


 感慨深げな友人の前で、澄子はサラダのレタスをかじった。


「でも……何か違うんだよ」


「違うって?」


「柿坂さん、それから一切そのことは話してくれなくて……そもそも『いつか』と言われただけで、具体的には、まだ何も」


 澄子はため息を吐いた。


 ――それに。


 あの、愛しい人の苦しげな眼差しが忘れられない。


 含まれた感情は、戸惑いか悲しみか。それとも――。


 ――わたしに、何を伝えようとしたんだろう。


「まったく、スミは相変わらずね。心配しなくて平気よ。実家の話が出たなら、やっぱり柿坂さんは本気だわ。うん」


 紗枝は、焼き上がったお好み焼きを、澄子の皿に取り分けた。


 ちょうどその時、近くのテーブル席から拍手喝采が起きた。店員たちが花火をあしらったケーキを持ってくると、仲間内でバースデーソングを歌い出す。この店は、そんなサービスまであるらしい。


「誕生日かぁ」


 紗枝が肘をついて、隣のテーブルを眺める。


「ちょっと前は、本当に疎ましかったけど、ここまで来ると、案外嬉しかったりするものね」


「そ、そうかな」


 自分はまだその域には達していない、澄子は素直にそう感じた。結婚すると、劇的な変化があるのか。


 紗枝が、何かを察したように笑う。


「誕生日だけじゃなくてさ、やっぱり記念日は何となくワクワクするでしょう?好きな人と一緒なら……なおさらね」


「記念日」


「そうよ。クリスマス、お正月、バレンタイン……。ほら、楽しくなってこない?ハロウィンは違う気もするけど」


 バレンタインのくだりで、澄子はまた柿坂の顔が頭に浮かんだ。電話で口論になった、あの冬の日。


 ――あの時の感じからして……記念日なんか、興味なさそうだよね。


 隣のテーブルでは主役の女性がロウソクの火を吹き消している。


 ――それでも、やっぱり誕生日は別だと良いな。


 今年で三十九歳。三十代最後の誕生日。


 プレゼントなどは何もいらない。ただ、一緒に過ごしたい。


 澄子の誕生日は、十二月三日――今年は土曜日だ。


 ――そういえば、柿坂さんの誕生日はいつだろう。


 相手は四十歳になる節目の誕生日。こっちの方が重要な気がする。



 澄子はビールをおかわりすると、友人に言われるまま、無理やりにでも楽しいことを考えることにした。

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