二〇一六年三月二十日 2016/03/20(日)夜

 その晩、澄子は風呂から上がり、ボンヤリとテレビを見ながら缶ビールを煽った。

 チャンネルを変えていると、音楽番組から聞き覚えのあるフレーズが流れた。


 優花が歌っていた曲だ。


「あ、これロックバンドの歌だったんだ」


 祐樹がギターだけで弾いていたせいか、だいぶ印象が違う。優花の優しい歌を引き立てるには、やはり弾き語りが良い。


 ――今度会ったら、そう言ってあげよう。


 澄子は卓上カレンダーに『駅前ライブ』と書き込んだ。


 その時、隣室のテーブルの上に置いてあったスマートホンが鳴り出した。


 メロディと震動のリズムが、いつもと違う。


 ――え。


「か、柿坂さん!」


 澄子は、スマートホンの着信音やバイブ音、果ては画面表示の色まで、柿坂だけは別にしていた。自分の中で、特別な存在と位置づけた結果ではあるが、未だかつて鳴ったこともない音に呼び出され、澄子は緊張した。


 スマートホンを手にし、しばらく液晶画面の『柿坂さん』の文字と着信番号を見つめていたが、電話に出ようとした瞬間、震動が止まった。


 留守番電話の応答メッセージが流れている。


 澄子は完全に出遅れた。


 ――。


 録音画面が消えない。

 柿坂が、メッセージを残している。


「これは……貴重です……柿坂さん」


 自分でも卑怯だと思いながら、スマートホンの画面だけをひたすら見つめた。


 程なくして、電話が完全に切れると、澄子はそれをそっと耳にあてがった。



『来週日曜日の夕方、またコンサートを行ないます。詳細、メールで送っておきますので、時間があれば是非どうぞ』



 一ヶ月ぶりの愛しい人の声。


 ゆっくりと、まるで何かを諭すような、ため息混じりの素っ気ない話し方。


「柿坂さん、だ……」


 澄子はスマートホンを両手で握りしめ、大きく息を吐いた。


 何度もリプレイしてしまう。


 ――会える。


 しかし、澄子はたった今予定を書きこんだカレンダーを見て愕然とした。


「……しまった、来週はあの二人が……」


 どっちを優先すべき? 


 ――。


「え、どうしたら良いの?」


 先着順。

 親密度。

 年功序列。


 ――。


 今まで、男性との関係において、こんなことを悩んだりはしなかった。


 何しろ、澄子のトラウマ『男が怖くて身体の触れ合いができない』という大きな悩みをカミングアウトした瞬間に、ほとんどの相手が澄子から去っていったのだ。

 どうにか関係を深めようとしてくれた男性も一人だけいたが、デート中に澄子が過呼吸を起こしたのがきっかけで、男は自信を失い、連絡が途切れて自然消滅してしまった。


 約束事の天秤は、恋人に傾くのが一般的かもしれない。


 でも――。


「わたしと、柿坂さんは……」


 友人にも問いかけられた。


 ――どういう、関係なの?


 付き合っていると言えないなら、天秤はどっちに傾くべきなのだろう。


 わからない。


 その時、両手の中で再びスマートホンが唸り声を上げた。


「わっ!」


 メールの受信を知らせる音だった。送り主は、


「柿坂さん……」


 もっと、愛しい人の声が聞きたい。


 澄子は、意を決して着信履歴からリダイヤルをした。


 三回コールした後、


「はい」


 短い応答があった。


 顔が一気に熱くなる。風呂上がりの身体が火照りだした。

 浅い呼吸を繰り返すだけで、声がまったく出てこない。


 ――何しているの、早く話さなきゃ。


 その時、耳元に小さな咳払いと、低く静かな声が届いた。


「……もしもし。柿坂です」


「はひ」


「どうしたんです」


「す、すス、すみません」


「は」


「ど、どうしたら良いか……わ、わからなくて」


「……」


 何という有様だ。

 声がひっくり返ってみっともない。


 柿坂とは、一ヶ月前にあれほど会話をしてきたはずだ。何を今さら迷うことがあるというのだ。


 ――わからないよ。


「他に予定があるなら、無理しなくていいんですよ」


 柿坂が沈黙を破った。


「え?」


「メールを見たんでしょう?コンサートの件です」


「え、あ、はい」


 そうだ。


 祐樹たちの路上ライブと、柿坂のコンサートが重なって――。


 でも。

 

 『無理しなくていい』――柿坂のその言葉に、澄子は少し傷ついた。


 それが、なぜかわからない。


 ――わからないけど。


「で、でも、柿坂さんの二胡も、わたし、聴きたいんです!」


 これは、本当だ。


 混乱している頭の中で、唯一導いた答えだった。


 少しの間を置いて、柿坂の声が聞こえた。


「……わかりました。じゃあ、三時くらいはいかがです」


「あ、えっと、それなら、はい。伺えます」


「フルメンバーではないですけど、私とギターで、開始前にその辺で適当に弾いていますから、好きなタイミングでどうぞ」


「い、良いんですか?」


「構いませんよ。リハーサルがあるので、おそらく二、三曲くらいですが……」


 柿坂がそこで間を置いた。


「アンタの好きな曲があれば、教えてください」


「……」


「もしもし?」


「あ、いえ、その、すみません」


 目元が熱くなる。


 意味もなく、涙がこぼれそうになったのを、澄子は必死にこらえた。


「ご、ごめんなさい。ちょっとお酒を飲んでいて、ボーっとしていました」


「……大丈夫ですか」


「あ、はい、平気です。あの、曲もお任せします!き、きっと、どれも素敵だと思いますから!」


 わかりました、電話の向こうからそう聞こえた。


 具体的な場所と時間を確認した後、澄子はそっと通話終了のボタンを押した。



 心臓が脈を打つたびに、こめかみも胸も痛い。


 ――何でだろう。


 涙が溢れて、スウェットに落ちた。


 ――何が、こんなに怖いの。


 澄子は小さな染みを見つめたまま、動きを止めたスマートホンを握りしめた。

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