第二章 皇后の薬 序

 彗星すいせいが夜空を駆けた五日前――。

うたげの席でまたあの南凜に琴の腕前で負けたそうだな」

 とっぷりと日が暮れたころ、玉夏は疲れ顔でやしきに帰り着いた。嫌みな声に顔を上げると、階段の上から、右相である父・永しんが玉夏を見下ろしている。ひげが黒々と蓄えられた顔はいかめしく、鋭い眼はいつものように彼女をさげすんでいるように見える。

「負けたのではありません。南凜は成王の養い子なので、皆がひいきをしたのです」

「黙れ。わしが成王に負けているとでも言いたいのか!」

 少女はぎゅっと唇をんだ。

 こんな風に体面を傷つけられて父が激怒するのはいつものことだ。我慢しなければと彼女は自分に言い聞かす。

 ――南凜、南凜、いつもそう。あの南凜のせいで怒られる……。

 幼い頃は南凜とは仲がよかったが、今は比べられてばかりで顔を見るだけで腹が立つ。杭州一のご令嬢、南凜。世間でも評判がよく、なにをやらせても上を行く。玉夏はいつも二番目。ささいな失敗や噂に父は怒り、母は失望をあらわにするから、惨めさと悲しさで南凜を恨めしく思わずにいられなかった。

「しかもお前ときたら、郡王をたらし込むこともできないようだな」

 父が紙を玉夏の足元に投げた。拾うと黄色い紙に古代文字が書かれている。灯りの下でそれを広げ、息をのんだ。震える玉夏の代わりに永新が読み上げる。

「『郡王趙子陣殿下と永玉夏令嬢の相性は不吉であり、めあわせば父母にわざわいが起こるであろう』お前の頭でもこの意味が分かるだろう!」

 玉夏は、幼い頃から片思いしている郡王との結婚が不吉だとされたことに動揺を隠せなかった。ただ、それ以上にこの結婚を望んでいた父の怒りを感じておののいた。

「お父さま、これは……」

「占い師から奪ったものだ。おそらく成王が断る口実に作らせたのだ。これではっきりした。成王は我らにくみする気がない。あの養女の南凜を嫁にと考えているのやもしれん」

「そんなはずは――南凜はあの家のただの居候で――本人もそう言っていて……」

 玉夏は慌てたが、永新は聞いてはいない。

「まぁ、成王がこちら側につかないのは予測していたことだ。手は打ってある。成王も皇帝も後悔することになるだろう」

「では結婚は?」

「破談に決まっておろう。第一皇子を帝位に就ける後押しにと思ったが――皇族など掃いて捨てるほどいる」

「嫌です! わたくし、郡王さまと結婚します」

 父は、ぎろりと目を吊り上げた。そして一歩、玉夏に近づき、その頬を容赦なく平手打ちする。

 高い音が邸に響き、使用人たちが驚いてこちらを見る。しかし、すぐに顔を伏せた。

「そんな幼稚に育てた覚えはない。政敵はそこかしこにいるのだぞ。永家の娘である自覚を持たぬか!」

 彼女は手を握りしめる。その口をへの字にして反論しない娘に永新は満足げに髭をで、少し優しい声になった。

「だが、そこまで言うなら、あと少しだけ待ってやろう。成王と郡王を諾と言わせるのだ。わしを失望させるなよ」

 玉夏は言葉を絞り出す。

「はい。お父さま」

 そして地面をにらみ付けた。

 ――また南凜に大事なものが盗られてしまう。

 嫉妬しつとと焦りに唇を噛みしめた。

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香華宮の転生女官 朝田小夏/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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