鉄臭さと生きる

はなのまつり

「在りのままで生き、在りのままと向き合え」


 私を見つめる黒く弱弱しい双眸。捕らわれ、暴れ、疲れ果てて。彼の息は既に絶え絶えだ。吐き出される泡立った涎はその命の乏しさを伺わせる。


 けれど気を抜いてはいけない。何故なら彼の瞳の奥、そこには一矢報いてやろうとする怨みがましいまでの執念が、未だに覗き見えるのだから。

 きっと彼の事だ、私が隙を見せれば繋がれた脚を引き千切ってでも襲いに来るだろう。


 根本的に私たちは弱者だ。狩られる側だったものが知恵を使って強者を演じているに過ぎない。だから今はあくまで環境が整っただけ。彼を土俵から引きずり下ろしただけ。

 決して安易に驕ってはいけない。そして決して勝ったなどと思ってはいけない。


 私は今一度気を引き締めて彼と向き合う。

 樹々の騒めき、背中を冷やす凪、はためく前髪、手握る槍を伝う汗。

 瞬きですら躊躇う緊張感の中、私は視線を外さずにすっと顎を引く。

 そして浅い息を吐はきつつにじり寄り、一気に吸った。


 振り上げた槍に力を込めるようにして。これから奪う命を吸い込むようにして――


 幼馴染の晋太郎から連絡があったのは先週のことだ。

 仕事帰り、私が同僚たちとカフェで鬱屈とした腹に溜まるものを吐き合いながら、甘苦い珈琲を流し込んでいた辺りだ。


『たまには帰ってこないか。免許を取ったんだ。良ければ一緒に山でも行こう』


 それは単純な心配の一文。そう捉えられたのならばきっと良かった。けれど私の内は複雑で、正直戸惑いの方が大きかった。

 別に晋太郎が悪い訳ではない。どちらかと言えば私――置いて出て来たのは私の方なのだから。


「今更、私……」


 それでも今の環境にどこか納得がいっていない自分もいた。

 取り巻く偽善と欺瞞、大義名分とご都合の社会。時に忌諱して差別して、時に建前がてらに憐れんで。

 ヘラヘラと周りに合わせて見たいものだけ見て、見たくないものには蓋をして。

 果たしてこれで正しいのかと。気にはならないのかと。それがどこか、

 

 ――気持ち悪い


 そう思っている自分がいた。


 だからだろう。私は“丁度いい言い訳が出来た”なんて、悩みもせずに晋太郎に甘えた。今度の土曜そっちに帰る――そう伝えて。


 人々の喧騒とは逆の方へと乗り換え継いで、私を迎えたのは一両編成のワンマン電車。土曜の午前中だというのに、その車内には一人の車掌さんと私だけだ。昔みたいに横になっても、きっと怒られたりはしないだろう。

 向かいあった大きな窓には当時の光景が影絵になって浮かんで見える、気がした。


 流れる車窓の風景から高い空は仰ぎ見れない。ただただ緑、深緑の樹々。けれどそれは、燦々と降り注ぐ陽光を一身に浴びて鮮やかだった。

 進むにつれてその緑が車窓に迫ってくる。だんだんと薄暗く影が目立つようになる車内。もっともその影は、都会のビルが作り出すものとはどこか違って、柔らかだった。

 淡い眠気が私に寄り添う――


「……さん……お客さん、終点ですよ。それとも――このまま乗って戻りますか?」


 腰を折って声を掛けてくれた車掌さん。その物言いは優しくて、暖かくって。

 けれどそんな心配は無用だ。私はここでいい、線路の途切れたこの駅でいいのだ。私はお礼を云って切符を手渡し、席を立ってホームに降りた。


 その時だ、

 お帰りなさい――そう聞こえた、気がした。恥ずかしさからだろうか、なんだか胸の奥がとても熱くなった。おかげで振り向きもしなかったから真実は知れないけれど。


「――お帰り優香。にしても都会かぶれは、そんな格好で山に入る気か?」


 駅に来てくれていた晋太郎は、アオリを倒したケートラの荷台に座って小馬鹿にして云う。ヒラヒラとさせたワンピースの裾、そこを親指と中指で摘まんだ煙草でもって指し示して。

 それは世間体だから――と言い切りたくない自分の内を見透かされているようだった。相変わらず恰好つけたがる嫌味な奴。そして相変わらずの大きな体躯に幼顔、


「やっぱし煙草、似合わんね――」


 山の入り口で待ち合わせる約束をして一旦それぞれの家に戻った私達。急にどうしたと云う母をあしらいつつ、まとった“余所行き衣よそゆきごろも”を脱ぎ捨てて、持ってきたデニムとトレーナーに四肢を通した。

 なかなか帰らなかった後ろめたさを誤魔化し、詫びもしないで。

 何も変わらない淡泊な歓迎が、妙に嬉しかったことも伝えもしないで。


 農屋にしまっていた足袋とヤッケはどこかカビ臭かった。けれどどうせ洗うんだ、気にしたって仕方がない。それにあの場所に身を置けば……そんなの小さなことだ――


 山、つまりは森であり深森だ。一度そこに足を踏み入れれば、雄大な生命が自然のままに横たり、私を包む。

 もし都会の友達に話したならば、緑に囲まれて森林浴とか羨ましい、とでも言われるのだろうか。


 けれどそれは、あくまで遠くから見た時の話。実際の山はそれほど緑ではないし、それほど素敵なところでもない。

 近くにあるものと言えば、赤茶けた樹々の鋭利なささくれと、足を掬おうと顔を覗かす苔被りの石。それらを覆う不安定な腐葉土の大地。そんなものだ。

 緑なんて高くて、高くて届きやしない。


 降り注ぐ木漏れ日は、じめっとした薄暗さを曖昧にしつつ怪しげに振る舞う。生命の息遣い、挙動、影。澄んだ空気の中に漂うのは腐敗した生物の輪廻。生と死がそのまま在る場所。

 つまり命のやり取りをするところ、それが自然だ。

 甘い気持ちで入るものじゃない。それが猟師だった私の祖父、桂爺の教えだ。


 もっともだから良いのかも知れない。

 そこには嘘がないから。ただ単純な生への渇望と奪い合い。端的に言えばシンプルだから。


「――あの木の陰に、いた」


 晋太郎が手に持った槍を向けた先、そこには小ぶりの猪が罠に掛かって鳴き喚いていた。木霊するくぐもった悲鳴。

 近くまで寄ってみれば、掘り抉れた土が宙を舞い、猪の体を汚していた。それは私たちに気付いて暴れ始めている。鼻腔くすぐる土臭さと獣臭さ。

 足に括られた太いワイヤーは、骨と皮しかないだろう脚に食い込み、腱を割く。流れ出るか細い血液。

 放っておけば何れ脚も千切れて逃げられるか、襲われるかだろう。それにこの程度の大きさならば晋太郎一人でも担いで行ける。早く楽にさせてやらねば。


「手早く、狭く、一突きで――やお? 頑張りん」

「おう……」


 晋太郎の荒くなる呼吸音。吹き出すように流れ始める汗。カタカタと震える槍の鋩。にじり寄ってゆく足、けれど引き返す。一進一退の間合い。

 その中で晋太郎は自分を鼓舞するように喝を叫んだ。途端合わせるように足を振り上げて、


 ――だけれど結局、晋太郎は動かなかった。いや、動けなかった。


「晋太郎、何しとんの?」

「おう、おう――やっべぇ、焦点が……」


 こうなったら人はもう動けない。握った槍を手放すのですら難しくなる。下手をすれば過呼吸になって気絶する。待っていればただの獲物だ。

 晋太郎も目の前に迫る生と死の気配に触れたんだろう。対峙しただけで意識をもって行くような、あの、曖昧で危う過ぎるものに。


「気にせんで。気ぃしっかりもって、それ貸しぃ」


 私は晋太郎から槍を奪った。

 きっと初めては決まりをつけたかっただろう、けれどそれも命あっての物種。可哀想だが仕方ない。このままでは危険が増すばかり――死んだら次が無いのだ。

 それに私を誘った理由はこの時の為。動かなければ意味がない。


「ごめんなさい。大事に頂戴します」


 私は一言詫びと礼をし、命に感謝し、脳天目掛けて槍の石突を叩き込んだ――


「悪かった。手間取っちまって……」


 晋太郎はフォークリフトで人の目線の高さに吊るされる、気絶したままの猪を眺めながらそう云った。


「最初はあんなもん。誰だって殺すのは怖い。私だってまだ怖い」

「でもブランクなんて感じんかった、さすが桂爺の免許皆伝だわ。それに生かしたまんま持って帰るなんて」


 なにが“さすが”か。

 私は未だ手の中に残る、石のような硬さがあった頭蓋骨の抵抗感と、その奥に在る柔らかなものが潰れる感触。それに今も心が持って行かれそうになっている、というのに。


「……美味しく食べてあげなきゃ。気張って、これからが多分一番きつい」

「……」


 晋太郎が押し黙るのも無理はない。だって未だに猪は――彼はまだ生きているんだ。

 それなのに吊るされたまま頸動脈を切られ、じわりじわりと殺される。

 その上、熱湯を掛けられながら体毛を毟られ、腹を割かれる。

 筋肉が弛緩し排泄物を垂れ流さないよう生きたまま内臓を掻き出される。


 世の中では気絶させているから人道的だとか宣う人もいるらしい。

 けれどそんなの詭弁だ。自分達の胃袋に入る時に気分よく食いたいが為、意識しなくても済むようにする為の体の良い言い訳だ。要は嘘だ。

 意識があろうとなかろうと、その味を保つ為、生きたまま割かれ肉にされる事実に代わりはない。


「なら晋太郎、今度はしゃんとやんだよ」


 しっかり吊り上がった猪を前に、私は晋太郎にナイフを手渡す。彼はそれをしかと握って、構えて向かった。


 音は無かった。

 抜かれたナイフを追った赤黒い血は、無作為に飛び出もしないで、しゅっと流れ出る。それは綺麗に切れた証拠だ。桶に溜まってゆくドロリとしたもの。


 すると途端、猪の身体はびくびくと動き始めた。心臓の鼓動に合わせて不定期に飛び出す血。死んでいないのだから当たり前だ。むしろ起こしてしまったと云った方が正解か。

 だから私は咄嗟に彼の脳天を鉄鎚で叩いた。先ほどよりも柔らかな、どちゃっといった音が手を伝うのを分かった上で。

 それに目を背ける晋太郎。生理的反射だろう――が、しかし私は許さない。


「しゃんと見なさい、晋太郎!!」

「す、すまん……!!」


 死んだ祖父はよく云っていた――在りのままで生き、在りのままと向き合え、と。

 つまりは――殺して食うのは当たり前であり、殺した事実を噛み締めて――しっかりと食え、ということ。人任せにするな、ということ。


 だからどれだけ辛かろうと、流れ出る血に触れようと、私達は目を背けちゃいけない。例えそれが豚であろうと、牛であろうと、魚であろうと何であれ。


 猪の首元から流れ出る血液は次第に落ち着きをみせ、大きな鼻を伝い始めた。

 それはまるで涙のよう。しかし果たして怨みの涙か、命の涙か。

 そして流れ出た熱を帯びる血液は、辺りに鉄臭い臭気を醸し出す。忘れさせまいとばかりに肺の奥まで纏わりついて。


「晋太郎、やれる?」

「……」


 無反応。しかし祖父の下へ修行といって息巻いて訪れた連中も、だいたいこの辺りで気を失うことが多かった。倒れないだけまだマシか。


「そのまま。目は開けまま、ね」


 私はそう云いつつ、頷く晋太郎を横目に流してナイフを取った。そして集まって私を取り囲む大人達の中で一人、命に手を掛けた。


 ナイフを入れる箇所に熱湯を当てて鉄製のヘラ体毛をこそげ取る。熱が入らないようにしっかり手早く。

 肛門周りと性器周りをぐるりと切り開いて軽く引き出す。中身が出てこないように紐で固く括って。

 前脚の間にナイフをズッと差し込み骨を左右に分け、外す。内臓を引き出しやすくする為に。

 内臓を傷つけないよう後脚から縦に浅くナイフの刃を立てる。細かく手早く何度も切って。

 そうしてみればほら、力なくだらだらと零れ落ちる大腸、小腸、心の臓。

 後は張り付いた着物を脱がすように脂肪に沿って刃を入れるだけだ。


「――ここまでやってあれば、晋太郎でも出来るでしょ」


 私はそのままのナイフを拭いもせずに晋太郎につき返した。頑張れと添えて――


 お風呂に入っても纏わりついた血生臭さはなかなか取れない。ゴシゴシ擦っても意味がない。それは擦れないとこに染み付いたからだ。

 けれど何だろう、嫌だけれど、嫌じゃなかった。久しぶりに今日はちゃんと向き合えた気がする。それが何だか嬉しく思えて。


 着替えて外に出ると、どこか獣臭い炭火の香りが鼻先を撫でた。そう云えばそうか、恒例のBBQがあったんだ。


「優香、今日はダメダメで悪い、誘っといて……」

「頼んどいて、でしょ? 恰好つけ」

「ハッ――だな……」

「ところでどうなん? 自分で捌いた命のお味は?」

「なんかこう、鼻に抜ける後味が何食っても血生――鉄臭い」

「フフッ……それでいいよ。それが正しいんだよ、きっと――」

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