殺戮學園逝徒會畸譚

第四話 惨劇の夜

Fair is foul, and foul is fair. （奇麗は汚い、汚いは奇麗。)

――ウィリアム・シェークスピア『マクベス』より。

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　午後八時五十分、闇と共に不気味な雰囲気を纏う立ち入り禁止の看板を前に、少女は紅（あか）い双眸（そうぼう）を光らせている。視線の先、山道の向こうは夜霧に紛れて見えないが、彼女はそこに確実に在ると知っている。

――殺す、殺す。今夜終わりにする。あの祠（ほこら）で今宵惨劇が起こるだろう。

――その時、私（わたし）は初めてこの世に生まれる。

　少女の、華藏（はなくら）月子（つきこ）の白い歯が唇の裏から曝され弓型に光る。

　口角を上げ、凡（おおよ）そ十七歳の乙女とは思えない悪魔の様な笑みを浮かべる少女が少年の訪れを待っていた。

☾☾☾

　薄暗い襤褸（ぼろ）小屋の中、充電残量僅かなスマートフォンの灯りと時刻を頼りに真里（まり）愛斗（まなと）は約束の時を待っていた。

　待っていた、と書けば楽しみにしている様に思えるが、彼の胸中は決してその様な心持ち許（ばか）りではない。愛斗（まなと）をこの後の、ある種の逢引きに誘い出した初恋の女性である筈の華藏（はなくら）月子（つきこ）の姿を思い浮かべる度に彼の心は恐怖で強張る。

　一方で、夜の小道で二人きりという状況に何の期待も無いかと言えば、全くそうという訳ではない。若（も）しかしたら、普段とは全く違う彼女の一面も見られるのではないか、という期待も多少はあった。――待っている間は。

　愛斗（まなと）は約束の時間が十分前に迫っていることを確認すると、暗い納屋の扉を開けた。やはり襤褸々々（ボロボロ）と崩れた木片が粉塵となって愛斗（まなと）の肺に容赦なく襲い掛かり、彼は咳き込んだ。

（全く、嫌になっちゃうよな……。どうして會長（かいちょう）は僕（ぼく）だけこんな酷い扱いをするんだ……。いや、僕（ぼく）が無能だからか？ 全員に平等に厳しいけれど、偶々僕（ぼく）が無能だからこうなっているだけか？）

　少なくとも、態々（わざわざ）露骨に悪い環境を宛がっている時点で偶々ではないだろう。しかし、愛斗（まなと）には自分が役に立てていないという負い目があった。それ故、この期に及んでも尚彼女の態度に正当な理由を求めてしまう。

　だがそれもこの後彼女に会うことでまた裏切られるだろう。愛斗（まなと）は山道の看板の前に彼女が既に来ているのを見つけ、慌てて駆け寄った。

「約束の時間の十分前には到着する事。十分前行動というのはそういう事だけれど、君（きみ）は十分前に行動開始する事だと勘違いしている様ね。」

「す、すみません……。」

「それに、何なのその格好は？ 埃（ほこり）塗れで目上の人の前に現れるなんて、マナーがなっていないと思わないのかしら？」

　理不尽な物言いに、愛斗（まなと）は抗議の声を上げようとしたが、月子（つきこ）の巍羅悧（ギラリ）と光る紅い眼が普段以上に畏（おそ）ろしく見え、視線に射竦（いすく）められてしまう。

「すみません……。」

　愛斗（まなと）は再び、只謝る事しか出来なかった。月子（つきこ）の口から態とらしい大きな溜息の音が響く。

「まあ良いわ。その汚れの分、身を挺して私（わたし）を庇ってくれるんでしょうね。」

　何処までも身勝手な彼女の言い分を愛斗（まなと）は聞き流そうとした。しかし、彼女はそれすらも許さない。

「御返事は？ 質問には答えなさい。」

「はい……。すみません……。」

　三度の謝罪を余儀無くされた愛斗（まなと）は、山道へと入る月子（つきこ）の後へ徒暮々々（トボトボ）と続いた。

☾☾

　予（あらかじ）め電話口で不気味な話を聞かされていた愛斗（まなと）にとって、彼女と行く山道やその先で目に入った祠（ほこら）は実態よりも恐ろしいものに思えた。況（ま）してや祠（ほこら）の傍、立ち入り禁止の筈の領域で夜に人を見たとあっては、愛斗（まなと）が驚いて声を上げても宜（むべ）なる事である。

「お疲れ様です、聖護院（しょうごいん）先生。」

　月子（つきこ）の声がそう呼んだことで、初めて愛斗（まなと）は相手が學園（がくえん）高等部の数学教師、聖護院（しょうごいん）嘉久（よしひさ）であると気が付いた。眼鏡を掛けた細面長身の、三十代半ばの優男は糸の様な目蓋を更に細めた怪訝そうな愛斗（まなと）を一瞥し、そして彼女に問い掛ける。

「彼か？」

「はい。」

「本当にやるつもりか？」

「勿論です、先生。この機を逃せば永遠にチャンスはやって来ない……。」

　愛斗（まなと）は二人の会話の意図が掴めなかった。ただ何やら、単なる付き添いだと思っていた自分にも役割がある様な事を聖護院（しょうごいん）が仄めかしているのは解った。不安から、彼は彼女に問い掛ける。

「あの、會長（かいちょう）？」

「良い、真里（まり）君？ これから何が起ころうとも、君（きみ）は私（わたし）の事を最後まで見届けなさい。説明は後でちゃんとするわ。それから、埋め合わせもね……。」

　月子（つきこ）の口から出た言葉に愛斗（まなと）は目を丸くした。まさか彼女が自分に対して「埋め合わせ」等という物を考えているとは夢にも思わなかった。

「後でって、今じゃ駄目なんですか？」

「駄目よ。気付かれては元も子も無い。はっきり言ってこうして会話しているだけでも危険だわ。」

　二人の問答を余所に、聖護院（しょうごいん）は祠（ほこら）の観音開きに手を掛ける。そして、一つ大きな息を吐いた。それはまるで、何か大きな覚悟を決めているかの様に見えた。

「聖護院（しょうごいん）先生、一体何をしようというんですか？」

「悪いがそれは華藏（はなくら）君同様話せない。ただ君（きみ）は事の終わりを見届けて欲しい。仮令（たとえ）何が起ころうとも……。」

「何か起こる……んですか……？」

　愛斗（まなと）の問いに答えは返って来なかった。聖護院（しょうごいん）は事を急ぐように祠（ほこら）の観音開きを解き放った。

　祠（ほこら）の中には何やら不思議な光が満ちていた。不思議、と云うよりも奇妙な、妖しげな、と言った方が正確かも知れない。その紫色の光は軈（やが）て上下に重なって並んだ二つの丸と、その境目あたりから左右に夫々四本ずつの線を模っていく。

　まるで、大きな蜘蛛の様だ……。――愛斗（まなと）は目の前で起きている事の余りの不気味さに心臓の鼓動が恐怖で高鳴るのを抑えられなかった。

「な、何ですか？ この光は一体……。」

「今、異界の門は開かれた。之（これ）より再び、儀式を執り行う。」

「儀式……？」

　困惑する愛斗（まなと）を置き去りに、他の二人だけで何らかの物事が進められようとしているらしい。その証拠に、まるでその身を差し出すかのようにもう一人の人間、華藏（はなくら）月子（つきこ）の足が祠（ほこら）に向かって一歩踏み出された。聖護院（しょうごいん）はそれを僅かに目蓋（まぶた）の開いた横目で確認して、言葉を続ける。

「一つは二つに！」

　次の瞬間、月子（つきこ）の身体から白い靄（もや）の様な物が溢れ出した。そして彼女の身体は糸の切れた人形の様に力を失ってその場に崩れ落ちた。靄（もや）は何か恐ろしい、悪魔の顔のような形を取ってゆっくりと愛斗（まなと）に近付いて来る。

「ひ、ヒイィッ⁉ 會長（かいちょう）⁉ 先生⁉ これは何ですか⁉ 何が起こっているんですか⁉」

「二つは一つに‼」

　聖護院（しょうごいん）は愛斗（まなと）の混乱を無視して再び唱えた。白い靄（もや）は軈（やが）て人の形、当に傍らで気を失っている月子（つきこ）の姿を模（かたど）り、愛斗（まなと）に覆い被さって来た。姿形は完璧な美少女である華藏（はなくら）月子（つきこ）そのものの様だが、表情は似ても似つかぬ悪鬼羅刹、否、悪魔と形容するに相応（ふさわ）しい、そんな悍（おぞ）ましい狂気の笑みを湛えている様に見えた。

「う、うわああああ‼」

　愛斗（まなと）はこの上無い恐怖から悲鳴を上げ、耐え切れずにその場から逃げるべく走り出そうとした。しかしそれに気づいた聖護院（しょうごいん）が彼を取り押さえる。

「待て、真里（まり）君‼ 今離れては駄目だ！ 今はまだ……‼」

　聖護院（しょうごいん）の膂力（りょりょく）は細身の体型からは想像出来ない程強く、愛斗（まなと）自身の非力と相まって彼は全く身動きが取れなくなった。そして邪悪な容貌の月子（つきこ）を模（かたど）った白い靄（もや）が愛斗（まなと）の中へと入り込む。

「い、いぎいいッッ‼」

　愛斗（まなと）はその瞬間、胸に締め付ける様な激しい痛みを感じた。この靄（もや）は危ない、命を脅かす存在だと、彼は強く直感した。

　まだほんの一部、ほんの少しの侵入を許しただけだ。

　しかし、全て入ってくる前に逃げなければ、取り返しの付かない事になる。――愛斗（まなと）はそう思い、必死で聖護院（しょうごいん）の拘束から身を捩（よじ）って抜け出そうとする。

「待て、待ってくれ真里（まり）君‼ 辛いのは解るが堪えてくれ‼ まだ儀式は始まった許（ばか）りなんだ‼」

「何の……儀式ですか……‼ 僕（ぼく）を……會長（かいちょう）をどうするつもりですか‼」

　激痛に苛まれる愛斗（まなと）にとって、聖護院（しょうごいん）の言葉や振る舞いは余りにも勝手なものだった。一体何の謂（いわ）れがあって自分はこの様な事に巻き込まれているのか。愛斗（まなと）は必死に力を振り絞り、聖護院（しょうごいん）から、謎の靄（もや）から、そしてこの場から逃れようとする。

　とその時、聖護院（しょうごいん）の腕から力が抜けた。どうやら気を失ったらしい。だが靄（もや）は変わらず愛斗（まなと）の中に入り込もうとしている。一刻も早くこの状況を脱したい愛斗（まなと）にとって、それは天の助けのようにも思えた。

（一体何が……？）

　愛斗（まなと）が胸の痛みを堪えつつ後ろを振り向くと、そこには月子（つきこ）の姿があった。祠（ほこら）に入っていた蜘蛛型の鈍器を持つ彼女の手からは何やら雫が滴り落ちている。暗くて良く見えないが、人間の血の様だ。

　そしてどうやら聖護院（しょうごいん）を殴り倒した月子（つきこ）は、まるで憑き物が落ちた様に、普段人前で見せる表の顔そのものの優しい表情で、嘗（かつ）て愛斗（まなと）への虐めの相談に乗ってくれたあの日の華藏（はなくら）月子（つきこ）そのものの穏やかな表情で、力無く彼に笑い掛けていた。

「會長（かいちょう）……？ まさか、會長（かいちょう）が先生を……？」

　愛斗（まなと）が月子（つきこ）と目が合った瞬間、不意に彼の視界が愚軟裏（グニャリ）と歪んだ。そして、激しい頭痛と共に、愛斗（まなと）の意識は遠退いて行く。

　この夜の彼の記憶は、此処（ここ）で完全に途切れている。

☾☾☾

　朝の光が差している。愛斗（まなと）は鳥の囀（さえず）り声に気が付き、意識を取り戻した。

　今彼に判っていることは、どうやら自分が俯（うつぶ）せに倒れている事、夜が明けて朝が来た事。

　そして何やら爽やかな朝の匂いとはかけ離れた嫌な臭いが漂っている事だ。それは悍（おぞ）ましい死の薫りだった。

　愛斗（まなと）は恐る恐る目を開け、顔を上げる。土埃が彼の体から零れ落ちる。彼は次の瞬間、驚愕と共に瞠目（どうもく）した。

　目の前に横たわっているのは中等部の生徒會（せいとかい）役員四名、高等部の生徒會（せいとかい）役員二名、何れも夥（おびただ）しい血を流し、肌の色から絶命していることが見て取れる。

　愛斗（まなと）は困惑から頭を掻き毟る。髪に絡んでいた土が頭から零れる。

（一体何がどうなっているんだ……？ 昨日の夜、あれから會長（かいちょう）と先生は……あの靄（もや）はどうなったんだ？）

　そんなことに頭を巡らせていると、不意に嫌な予感が脳裏を走り抜けた。

　愛斗（まなと）は血の臭いと共に固唾を飲み、そして祠（ほこら）の真上、木立の枝葉を見上げる。

「ああ……あ……‼」

　愛斗（まなと）の口から思わず絶望の声が漏れた。

　祠（ほこら）の真上、二つの太い木の枝に麻縄で縛られた一糸纏わぬ少女が吊り下げられている。

　生気の全く無い、完璧な美少女の肖像がその肢体の隆線を堂々と誇示するかの様に、十字に浮かんで揺れている。

　まるで大昔の聖人の様に、何とも見事な肉体の美を見せ付ける様に。

　爪先まですらりと伸びた細く長い脚線が、小さく程よい肉付きで確りと存在感を誇示する秘部と臀部（でんぶ）が、緩み無く締まる事で体線の凹凸を引き立てる腰部が、既に聖母の様に蕾から花開いた大きな二つの乳房が、くっきりと、綺麗に両胸から肩を支えるべく際立った鎖骨が、脚同様指先まで細く長く拡げられた両腕が、完璧な身体の上に完璧な美貌を支えていた細い首が、絶対的な言葉を甘く囁いた桜色の唇が、小さくも確りと筋立った鼻が、長い睫毛（まつげ）を蓄えた切れ長の目が、細く整った眉が、そして長く艶めいた黒髪がまるで理想の少女を模（かたど）った彫刻の様に宙に浮いていた。

　嗚呼、死んでいる……。

　愛斗（まなと）の頭上で彼を見下ろす少女は紛れも無く死体だった。

　華藏（はなくら）月子（つきこ）は十七歳の生涯を閉じ、愛斗（まなと）に死して尚輝く美を晒していた。

　愛斗（まなと）にはそれがまるでこの世の終焉の様で、終末に天使が降り立つ絵画の様で、ただ立ち尽くす事しか許されなかった。

　しかし、その時彼の頭に何者かの声が響いた。

『今すぐその場を離れなさい。第一合宿所に戻るのよ。』

「何……だ……⁉ 一体誰が……‼」

『私（わたし）の声を忘れたとは言わせないわ。』

　それは散々聞かされた、あの傲慢な月子（つきこ）の声による命令だった。

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