#5-6「狂えもしない」

 灰塚巌はいづかいわおは今でも、たったひとりの息子を誇りに思っている。

 自身と似ても似つかぬ内気な少年だが、母譲りの感性と深い優しさを持っていた。

 粗野で乱暴な巌だからこそ、息子の優太郎には、それを誇りとして生きて欲しいと願っていた。

 優太郎が冒された病の治療費を稼ぐ為ならばと、自衛隊を辞め、より多額の賭け金が狙えるヴェリタスに身を投じた事も後悔していない。

 元は正義感に溢れる豪放磊落な若者だった。自ら自衛隊を志した。

 そんな巌はヴェリタスに手を染める事に関して、忸怩たる思いも抱いた。それでもやはり、後悔はしていない。

 未だに折り合いが付かないのは、巌の決意と骨肉削る日々も虚しく訪れた、優太郎の死だ。最期に見た、痩せ細った優太郎の微笑みが今も脳裏に焼き付いて離れない。

 およそ7年程前になるだろうか。優太郎の亡骸を前にして、白い部屋で灰塚巌は──岩猿は立ち尽くしていた。

 母国を守る勇士としての立場も捨て、ヴェリタスに手を染めていた岩猿が、ついに心の支えとしていた息子まで喪ったのだ。

 遣り切れない想いの矛先は、夜毎に対峙する挑戦者へと向かう。涙も慟哭も慚愧に堪えない憤りも、まるで振り払う様に……咆哮と篝火イグニスと振り下ろす拳に代えて。

 そうして生きる意味を失くしても戦い続け、パンドラの絶対王者は生まれた。


「俺様は何をしていたんだっけなあ?」


 岩猿は腕を組みながら、マヌケな表情で首を傾げていた。

 眼前には紅蓮の炎が燃え盛っている。空も大地も黒く、どこか遠くから絶え間なく地鳴りが響いている。地鳴りかと思っていたが、よく聞けば違う。それは誰かが泣き叫ぶ、悲鳴の波だ。怨嗟と苦悶の金切り声が、炎と闇に紛れて舞い踊っている。

 おどろおどろしい景色と音色の中で、岩猿は背後から足音を聞いた。

 振り返れば鬼が何体も立っている。巨体の岩猿より更に大きく、人間とは思えない赤や青の肌をした、屈強で威圧感を醸す化け物だ。頭からは角を、口元からは牙を、鋭く尖らせていた。彼らは口の端から蒸気を伴って、吐息を吹き出す。それぞれ血に濡れた棍棒を担ぎ、岩猿へと歩み寄る。

 岩猿は鬼の軍勢を見るなり、全てを思い出して嗤う。


「……成ァる程なあ。随分と気合の入った歓迎っぷりじゃねえかあ」


 岩猿は両拳を、胸の前で打ち鳴らす。

 彼は自分が最強だと信じて止まない。ヴェリタスを生業とする男にとって、それは生命線だ。刹那でも自身の力に疑念が生じれば、隙が生まれる。致命傷を負う。死に繋がる。そんな死線に十数年も身を置けば、誰しもが一線を画した狂気に染まる。

 岩猿にとっては、誰だろうと格下だ。そうでなければ優太郎の命を護れないから、いつでも彼には「退く」という選択肢が存在し得なかった。

 相対する相手が自身の想像を超えた強者であろうと、地獄の鬼であろうと、岩猿は退かない。ついに優太郎を喪っても、既に引き下がる事は出来なかった。

 目的も失い、けれど今更になって捨てようもない執念は、いつしか生き様へと成り代わった。


「優太郎と同じ所へ行けないのは残念だがよお。まあ覚悟はしていたぜえ」


 生き様を貫くために、岩猿は死してなお、いつも通りの口上を垂れて突き進む。


「困るぜ……弱い物イジメは大好きなんだよ。これからじっくり時間をかけて、どういたぶってやろうかと……おおっ、考えるだけでイキり立って来やがる。たまんねえたまんねえ……」


 ちょうど優太郎が生きていれば、紫苑や蛭に、そして一馬とちょうど同じ位の年齢だったな……などと岩猿は考える。

 最期の最期まで誰にもそんな感想を打ち明けぬまま、前だけを見据える。

 やがて王者の威圧感を纏う背姿は、燃え盛る獄炎に囲まれて見えなくなった。







「流石だぜ紫苑、まさか黒澤會の幹部までブッ倒しちまうなんて!」


 一馬は調子づいた明るい声を上げながら、紫苑の背を叩く。

 白い蛍光灯には何匹かの羽虫がまとわりついていた。

 車の往来も無い寂れたトンネルの片隅で、彼らはファストフード店でテイクアウトしたハンバーガーの紙袋を傍らに置いたまま屯している。

 紫苑は物憂げな面持ちで、ハンバーガー店の紙袋には目もくれずタバコを吸う。

 蛭は紫苑の横顔に、翳った視線を送るばかりだ。


「いやあ、しっかし岩猿も情けねえよな、あんなアッサリと殺されてよ!」


 灰色のトンネルに、一馬の軽薄な笑い声が寒々しく反響する。


「まあでも何かに付けて五月蝿く騒いだり、余計な世話ばっかり焼いてくるオッサンがさあ、居なくなって逆にちょうど良いみたいな……」

「なあ、一馬」


 畳み掛ける様に吐き出される一馬の言葉を、紫苑の低く静かな呼びかけが遮る。

 わざとらしい笑顔を貼り付けたままでいる一馬の視線は、紫苑が差し出した左手へ向く。その手には、タバコの箱が握られていた。


「1本……吸うか?」

「おうサンキュー、ありがたく貰うぜ」


 一馬はタバコや酒が嫌いだ。

 それにも関わらず差し出された小さな箱から、指先でタバコを引っ張り出す。

 紫苑の見様見真似で指先を鳴らし、小さく【エルドラド】を発動させて着火する。

 こうして口以外からも【エルドラド】を出せる様になったのは、ここしばらく岩猿と特訓した成果のひとつだ。

 タバコを咥えたまま深く息を吸い込み、一馬は涙目になるほど激しく咳き込む。


「エッホ、ゲホッエフッ、ウェ、何だ、これ、むせるッ、しかも旨くねえし……紫苑お前っ、いつもこんなの吸ってんの!?」

「そうだ」

「理解できねえわ、有り得ねえ……本当に……」


 一馬は紫苑の隣へと腰を下ろした。不味いと言った矢先のタバコをまたも咥えて、煙を吸い込みながら再び咳き込む。

 それからアスファルトに視線を落とし、恨み言を吐いて捨てる様に小さく呟いた。




「本当に……こんなんじゃ狂えもしないぜ……」




 ゆるりゆるりと煙が音もなく舞い上がる。

 蛍光灯の明かりは感情もなく3人を照らしていた。

 やっと本音が混じった一馬の一言さえ、灰色のトンネルは吸い込んでしまう。

 応答もない夏夜の静寂に、紫苑だけが一馬へと応答した。


「そうだな」


 紫苑の声と、蛭の沈黙が喪失感を増す。

 それらを噛み締める様に、一馬は今にも泣き出しそうな表情を浮かべて俯いた。


「オレを置いて行くなよ……」







 かつて篝火イグニスによって栄華を誇る国があった。

 300年ほど前には、既に現代の技術水準を凌駕していたと言われる。ただし国の存在もまた篝火によって島ごと外界から秘されていた為、存在が明るみに出た時にはもう滅びていた。

 今でも日本から南に佇む孤島で、欠けた摩天楼が沈黙している。

 アトランティス、ムー、ニライカナイ等と好き勝手に呼ばれているが、今となっては真の名を知る者もたった1人しか居ない。滅びの理由さえ謎に包まれていた。

 そこは篝火イグニスの研究資料として、まさに宝物庫である。こぞって各国の政府は秘密裏に諜報員を送り込もうと何度も試みたが、その全てをたった1人が阻止していた。100年以上も前からずっとだ。


「喰蛇は弱冠16歳で渋谷の王となったヴェリタスユーザーじゃい」


 ひときわ高い廃ビルは、最上階の天井と壁を失っている。風化した不格好な断面を、強く吹き付ける潮風に晒していた。

 そこに2つの影が立っている。片方は薄緑色の羽織を纏う老人だ。切り揃えられた長い髪は、風になぶられ横合いへ向けて踊りのたうち回っている。

 もう片方は黒髪をツインテールで括っている少女だ。オフショルダーの長袖シャツにホットパンツという装いの上から、黒い羽織を肩に掛けていた。

 かつて栄えた港町を睥睨する少女は、持っている酒瓶へ口を付ける。


「その喰蛇が殺られたワケじゃあ。何より痛手なのは、近々ヤツが担う筈だった輸送じゃ。規模が大きいだけに各種スパイス麻薬と武器の入荷遅滞は痛手じゃぞ」


 ツインテールの少女は、老人を振り返りもせず、酒を喉へ流し込む。小さな口の端から雫が伝って胸元へ落ちた。


「如何したものかのう……黒澤よ」

「些事だ」


 まるでくだらないとでも言いたげに切り捨てる。

 亡国を見下ろす少女は、

 少女は酒瓶から口を離し、ある少年の名を呟いた。


「藤堂紫苑、か」




Chapter5『VS喰蛇』END


NEXT⇛Chapter6


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