Chapter2 VS『蛭』&『バー・パンドラ』

#2-1「蟹味噌キメて狂う回」

※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。お酒と煙草は二十歳になってから。




 初対面の相手を連れて行くメシ屋として、カニ専門店は最悪手だと思う。


 新宿某所の雑居ビルで8階に店を構えている『かになが』本店は、ラストオーダーが午前1時半まで、閉店は2時らしい。

 今は深夜0時過ぎで、ちょうどテーブル席がひとつ空いていたのは幸運だった。


 そこに居座るは、まずパッと見で明らかにカタギじゃないと分かるようなヤクザが2人と、顔面包帯だらけな上に折れた腕を三角巾で吊っているオレと、柏か新船橋のオバチャンくらいしかそんな色に染めねぇよって具合な紫色の髪をした男……紫苑の、素っ頓狂な4人組だ。


 ほんのり磯の香りが漂う店内の一角で、4人の男が眉間に皺を寄せつつ膝を並べ、真剣にカニフォークを握っていた。カニの脚を折る小気味良い音が鳴り続けており、誰一人として会話を切り出そうとはしない。

 誰もがカニの脚を剥くのに夢中で、喋っているヒマなど無いのだ。

 ただでさえ集まっているのが男ばっかりなので、空気は重苦しくムサ苦しい。カニは死ぬほど美味い。


「甲羅の内側にある、この豆腐みたいな白い身……」


 おもむろに紫苑が、まるで独り言のように口を開く。何事かと思ってオレを含めた三人が彼の方へ見やると、箸とカニミソが乗った甲羅をそれぞれ手に持っていた。

 オレと、隣に座っている家守組の手下……ちなみに彼は扇増おうぎましという名字だ……は、身を乗り出して彼の挙動を凝視する。


「これも食える部分だ。醤油を垂らし、カニミソと一緒に混ぜる。そして喰らう」


 紫苑は白い身とカニミソと醤油を甲羅の上で、箸を使ってかき混ぜ、甲羅の縁に口を寄せ、それらを啜る。彼は口に含むなり瞑目して、喉を鳴らして嚥下する。


「磯の香りと濃厚なカニの旨味が口の中でとろけ、解ける。後引くコイツの味を」


 言いながら横合いのお猪口に手を伸ばし、一息に中身を煽る。

 お猪口を再びテーブルへ置いて、硬質な音が響いた。紫苑は口元を弓なりに曲げたまま、深く味を堪能するように頷く。


「辛口の、引き締まった口当たりの日本酒で流し込むと、もうたまらない」


 オレと扇増は、揃って生唾を飲み込む。紫苑の隣で、阪成だけは「わかる」とでも言いたげな様子で、腕組みしたまましきりに頷いていた。


 たまらずカニミソがたっぷり乗った甲羅へと手を伸ばす。それから醤油を垂らし、折れていない手に掴んだ箸でかき混ぜる。恐る恐る、蟹の甲羅を口元へ近付ける。

 ──それを啜った瞬間に、目の前で宇宙が開けた。

 数多の星を飛び越えて、暗黒の宇宙を光さえもスッ飛ばす速さで堕ちてゆく。星雲も銀河も置き去りにした先で、オレは、ひとつの星が産まれる瞬間を垣間見た。


「狂う」


 たったそれだけを呟くのに精一杯だった。身体はちょっと痙攣していた。


「おいィ、一馬が白目むいてアヘ顔を晒してるぞォ」

「無理もないっスよ、若頭……これは……狂う……」


 意識さえ曖昧なまま、ぼんやり横合いに目をやると、扇増はテーブルに突っ伏したまま震えていた。


「カニミソは勿論、脚も、香りからして『格』が違う……存在感も、味の奥行きも。これが本当の『蟹』の味わい……。ウソだろ、今までオレが食っていたカニカマは、いったい何だったんだ……」

「わかる……カニカマとは何もかもが違う……」

「それは単なる業務用スーパーで特売されてるスケトウダラの加工食品だろうがァ。あとカニカマをディスってんじゃねえよォ、俺はカニカマも好きなんだよォ」


 オレと扇増が開けた新たな世界に慄いていると、対面の座席から落ち着いた笑い声が聞こえる。紫苑が頬杖を突いたままで、愉快げにこちらを眺めていた。紫苑は既に結構な量の酒を飲んでいる筈だが、色白い顔からは酔っているのか酔っていないのか探りにくい。

 彼は徳利を左手でぶら下げるように揺らして、手で弄びながら口を開く。


「美味いだろ、この店。少し前に新宿へ来てから、足繁く通っている。それより一馬は酒を飲まないのか?」

「あ、ああ……オレは、酒は飲まない」

「そうか。まあ、適当に食っていけ」


 今までも酒を勧められる機会は何度もあったが、その度に全て断っていた。

 酒や煙草と聞くだけで、あのクソ親父が脳裏に浮かぶからだ。自分でも知らずの内に、それらのものに生理的な嫌悪感を抱くようになっていたらしい。

 もっとも、それ以前に大前提として根本的な理由があるのだけれども。


「っていうかお前、紫苑もさ……オレと同い年くらいだよな?」

「俺はアンタの年齢を知らない」


 紫苑は自らの胸ポケット辺りに手を差し込みながら、素っ気なく返す。


「17だ」

「なら多分、同じくらいだな。数えていないから適当だけれど」

「飲んじゃダメだろ……て言ってるそばから煙草を取り出すなよ、篝火イグニスで火を点けるなよ、煙を深く吸ってから天井へ吐き出すなよ。そもそもここ喫煙席か?」

「ここは全席喫煙オーケーだァ」

「なら良かった……いや良くねえけど……」

「それで、聞きたい事についてだが」


 紫苑が灰皿へ煙草の灰を落としながら、一言で流れを遮る。

 紫苑は再びお猪口に手を伸ばし、酒を一気にあおる。それから再び咥えた煙草から紫煙をくゆらせた後で、訝しげな視線を向けるオレ達へと投げかけた。


「ある男を探している……『大太法師だいだらぼっち』の居場所を知らないか?」


 オレは聞いたことのない名前だった。

 しかし隣に居た扇増と斜め向かいの阪成が、途端に眉間の皺をより一層深く刻む。

 しばらくの沈黙を待った後で、先に口を開いたのは若頭……阪成だ。


「ウチの会長を探しているって事かァ」


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