ハチハチ

ささやか

ハワイでビキニ

 最後の朝も何一つ変わらなかった。

 妻が用意した朝食をとりながらテレビを見る。朝のニュースの星占いでしし座は最下位だった。男にとってそれが正しいことなのか誤りなのか判断がつかない。ただ、ラッキーアイテムの油淋鶏を昼食にとることはないと思った。

「やっぱりスーツの方がいいかな」

 朝食を終えた後、しばらくしてから妻に尋ねる。八十八歳になった朝、男はセンターに行かなくてなならなかった。

「普通の格好で行かれる人も多いみたいだけど」

「いや、節目の日なんだ。ちゃんとした格好がいいだろう。スーツにしよう」

「はいはい。用意しますね」

 妻は苦笑しながらスーツの用意を始める。男はネクタイを選ぶ。人生最後のネクタイだ。僅かに迷った末、子供たちから贈られた深緑のネクタイを手に取る。妻にネクタイを渡すと「あら、それにしたの」と言われた。やはり妻から貰った花柄のネクタイにした方がよかったかもしれない。だが今更変える訳にもいかず、男は「ああ」と短く返事をした。

 男がスーツを着るのはずいぶんと久しぶりのことだった。医療が発達した現代において八十八歳以前に病死する人間は稀になった。そのため、葬式もすっかり行われなくなり、代わりにハチハチ前に親族一同で集まって別れの会を催すのが一般的になっていた。最後に男がスーツを着たのは孫の結婚式の時で、四、五年ほど前のことだ。幸いにして男の体型はほとんど変わっていなかったため、問題なくスーツを着ることができた。

 妻も男のスーツ姿に合わせ、外出の準備をする。

「一緒に来るのか」

「そりゃ最後ですもの」

「まるで俺が子供みたいだ」

「子供はセンターに行かないでしょう」

 男が渋面を作ると、妻はからからとおかしそうに笑った。

 夫婦の家から最寄りのセンターはやや遠く、バスに乗って一時間ほどかかる。二人は普段通りのペースでバス停まで向かった。急ぐ必要はなかった。けれど引き延ばす必要もなかった。

 男は時刻表を確認する。あと十分ほどでバスがくる予定だった。その旨を妻に告げ、ただバスを待つ。バスは時刻表より五分ほど遅れてやってきた。

 バスに乗り、二人掛けの席で男が窓側、妻が通路側に座る。男が車窓から景色を眺めると、何ら特筆すべき点のない住宅街がすらすらと流れていった。バス停とバス停の間の景色のようにほとんど誰からも顧みられずに男の人生も終わろうとしていた。それは悪いことではなかった。ただ、当たり前のことだった。男は景色を見ながら今日という日は雲一つない晴天であることに気づいた。

「今日はいい天気だな」

「そうですねえ」

 男が思わず話しかけると、妻は車窓を流れる空を見た後のんびりと頷く。

「さっきまで気づかなかった」

「私も気づいていませんでしたよ」

「そうか」

「ええ」

 センター最寄りのバス停に着くまでの間、二人の会話はそれだけだった。

 バスを降りた後、二人は案内標識に従い、センターへ向かう。夫婦以外にもハチハチらしき老人がちらほらと見えるようになった。

「喫茶店、寄りますか」

 いよいよセンターが近づいてきたあたりでいくつかの喫茶店があった。妻が指さした喫茶店は外から窓越しに見る限り、それなりに賑わっているようであった。今日の期限までまだ時間がある。最後のひとときを過ごしたい人々がこの辺の喫茶店を利用するのだろう。だが彼等と一緒になるのはどうも男の気が進まなかった。

「いや、別に腹も減っていないし寄らなくていいだろう。油淋鶏もないしな」

「あなた今まで油淋鶏なんて好き好んで食べたことないでしょう」

「占いで今日のラッキーアイテムだったんだ」

「まあ。それじゃあおうし座のラッキーアイテムはなんでしたか?」

「覚えてない」

「まあ」

 妻はからからとおかしそうに笑った。その後、彼女は墨汁のように黒い言葉をぽとりと零した。

「明日からキムチが食卓に並ばなくなりますね」

「代わりにトマトを増やせばいいだろう」

 男はキムチが好物だったが、妻はほとんど食べなかった。妻はトマトが好きだったが、男は生のトマトが大嫌いで一切食べようとしなかった。

「私が食べる量は変わりませんから量は増えませんよ」

「そうか、そうだな」

 喫茶店を通り過ぎ、少し歩けばいよいよセンターに到着する。センターの白い外壁は病院を連想させる白さだった。お昼にもなっていないにもかかわらず、既にそれなりに人が集まっていた。

 男はハチハチの列に並び、窓口で所定の手続をする。男の人生が終わりが今確定した。

 処置室に行く前、最期の会話を妻と交わす。

「今までありがとう」

「こちらこそありがとうございました」

 互いに深く頭を下げ合う。

「あなたがいなくなったら、私もあと一年。いったい何をすればいいのでしょうね」

 妻の問いに、男は正しい答えを持ち合わせていなかった。もし完璧な答えがわかっていたら男自身がそれを実践していただろう。そんなものはなく、男は漫然と余生を過ごした。そして終わる。だが妻の困った表情をそのままにしておくことはとんでもない裏切りのように思えた。男は何かを言おうと口を開き、何も思い浮かばず、それでもどこからか言葉を引き出す。

「ハワイ、そう、ハワイにでも行ったらどうだ。真っ赤なビキニでも着てビーチに行けばいい」

 妻はきょとんと目を丸くした後、太陽がはじけるように笑った。

「また変なこと言ってもう。子供たちに言ったら大笑いされますよ。あなたの遺言がハワイでビキニとか言って」

「それは、困るな。子供たちには言わないでおいてくれないか」

「駄目です」

「駄目か」

「ええ、駄目です」

 妻は目元に残った涙を拭い、男の願いを断る。

「あなたがいなくなった後でも、あなたのことでずっと笑っていられますから」

「そうか」

「ええ、そうです」

 それで終わりだった。男は職員の案内に従い、処置室に入る。妻は彼の後ろ姿を見えなくなるまで見送る。

 そして、男の人生が終わった。

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ハチハチ ささやか @sasayaka

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