第3話 走れ


 私、岩本奈子といいます。試験が始まってまずすることは、この名前を記入すること。走れ走れ、絆創膏さえ手に入ればどうにかなる。私はマフラーをたなびかせ、ずり落ちる眼鏡を手で押さえながら校門を飛び出した。駅から来た道をそのまま、高校を通りすぎる形で駆け抜けていく。正直なところ、メモを見つけたあたりからパニックに陥っていて、正常な判断ができていない。高校より先の道なんて進んだことが無い。未開の土地を走る不安に気が付かないように、とにかく足に力を込めて走り続けた。

 そもそも、手にメモをする習慣は、母の教えだ。正社員で働きながら家事もこなす母の手は、いつもメモだらけだった。小学生の時、しょっちゅう宿題を忘れる私に「お母さんみたいに手にメモしてごらん。絶対忘れないから」と優しく教えてくれたのである。そうして身に着けたメモを残す習慣が、こんな形であだとなるなんて。走る振動で、リュックに入れた水筒がチャプチャプと鳴っている。母が朝淹れてくれたほうじ茶、今はできるだけ存在を思い出したくなかった。

 闇雲に走ること数分、巨大な十字路に行きついた。信号待ちのインターバル、両膝に手をついて休んでいると、横断歩道の先に一枚の看板が立っているのが目に入った。

『コンビニエンスストア・ヤミィ この先200メートル』

 輝く『コンビニエンスストア』の文字、名前からしてメジャーなコンビニではないが、この世の便利を追求したコンビニという存在に期待しないわけがないだろう。信号が青に変わる。私はよしと声を出して、再び走り出した。

 走る私の視界に、「ヤシマ商店」の文字がちらりと現れた。見ると、道の反対側に寂れた個人商店が建っているのが見えた。寂れた外観、規模はコンビニと変わらないが、店名を示すプリントの文字は色褪せているし、店内は暗くて道を挟んだところからでは中がうかがえない。かろうじて、入口の自動ドアのガラスに古いビールのポスターが貼ってあるのが見えるくらいだ。営業はしているようだけれど、コンビニと比べたら圧倒的に期待値が低い。私は目線を前に戻し、商店を無視して走り続けた。


 コンビニエンスストア・ヤミィ。なるほど、ヤミィね。確かに美味しそうなお惣菜がわんさか並んでる。わー、あのチキンサンドとかすんごい美味しそう。手作り弁当、へぇこんな大量のお弁当ぜーんぶ手作りなんだぁ、本当かなぁ。

 絆創膏など存在しない。ほぼお惣菜屋さんである。走ったせいで暑くなり、外したマフラーが手に収まらず、床に垂れるが気にならない。光り輝くお惣菜たちを前に肩で息をする私を、店員のおばさんが怪訝そうに見ている。できれば見ないでいただきたい。

「すみません、この辺に絆創膏売ってそうなお店ってありませんか?」

 首だけ動かして話しかけると、店員のおばさんはビクッと身体を震わせた。

「絆創膏・・?ええと、そうね、駅まで行ってくれれば反対側にドラックストアがあるけれど」

 おばさんの背後斜め右上、壁掛け時計に目を移す。試験まであと45分、全力で走って往復したら間に合う?まて、薬局って10時くらいにならないと開店しないんじゃないか。腹立つ、無駄な情報教えてきやがってヤミィおばさんめ、お弁当はあんたの手作りか。

 僅かな望みをかけて、絆創膏の代わりになりそうなものを探し店内を練り歩く。赤いマフラーを引きずり、肩を怒らせながら歩く私の姿が目を引くのか、おばさんは首を伸ばしずっとこちらを見てくる。だからこっち見んなって。文房具コーナーに差し掛かる。私はよくボールペンや消しゴムを無くすから、コンビニでよく調達する。しかし今日必要なのは手の甲のメモを隠すものなのだ。くまなく睨んだが、透明のセロハンテープしかない。マスキングテープならワンチャン隠せたのに。再びレジの時計を見る。試験まであと40分、もうこのコンビニに構っている時間は無さそうだ。


 来た道を走って戻る。走る意味は無いに等しいが、とにかく走らないと諦めたような気がしてたまらないのだ。焦りによる怒りが凪いでいくのを感じる。次にどんな感情が沸いてくるのか、怖くて考えたくなかった。絆創膏が手に入らない、つまり私は手の甲にメモを残したまま高校入試を受けるしかないのか。メモを隠すために直前になって奔走している受験生など、世界で私ひとりじゃないか?最近、体育の授業以外ずっと机に向かっていたから、そろそろ足が限界だよ。

 命運尽きかけたその時、目の前に寂れた商店が建っていた。さっき入らず通り過ぎた「ヤシマ商店」だ。私は立ち止まり、店内を覗き込みながら道を渡る。古い蛍光灯が照らす店内はコンビニと比べて圧倒的に暗い。外から確認できるのは、数種類の果物とお菓子だけ。でも、でも、もしかしたら絆創膏を置いてるかもしれない。最後の望みだ、ここでなかったら本当に終わり。疲労で震える足を動かし、店内に入った。自動ドアは思ったよりスムーズに開いた。

「・・・・いらっしゃい」

 入るまで気が付かなかった。店内左側の奥、レジの向こう側で椅子に腰かけた女性が陰気に声を上げた。歳はわからない、お婆さんとおばさんの間くらい・・?さっきのコンビニの人とよりさらに怪訝そうな目で私を見ている。目は合わず、私の着ているスカートのすそ辺りを見ているように感じる。個人商店の店主ってもっと愛想の良いお婆さんなイメージだけど、この人は人見知りみたい。気まずさに襲われたが、すぐに振り払い店内奥に進む。絆創膏絆創膏絆創膏・・・。お菓子とカップラーメンが店内のほとんどを埋め尽くしているように錯覚してしまう。でも昔ながらの商店なんて、ご老人が良く来そうだし医療用品があっても良いんじゃないの。カップラーメンゾーンの次はインスタントラーメンゾーン。ラーメン大好きかよ。「昔ながらの中華そば」だ、勉強中の夜食によく食べたな・・あ、棚終わった。顔を上げ、周囲を見渡す。棚が終わった、最後までこまごまとした食品で店内の商品は終わっていたのである。絆創膏など、当たり前のように存在しなかった。

 まずは右手のマフラー、次に左手の学生鞄が床に落ちる。その音を引き金に、心が折れた。試験まであと二十分、駅まで走っても間に合わない。それにもう、くたくたで走れない。

「うう、うう、もうやだぁ」

 私はその場にへたり込んだ。なんで直前までメモに気が付かなかったんだ。なんで試験前に手にメモをしてしまうんだ。なんで手にメモをしないと忘れてしまうんだ。自分が嫌になる。受験も嫌だし、試験も嫌だし、何もかも嫌になってきて、涙が沸騰したお湯のようにこみ上げてきた。しまいに私はへたり込んだまま、上を向いてわあわあ泣き出した。

「な、なに・・どうしたの!?」

 驚いたのは店主の女性である。怪訝そうを通り越して珍獣を見るような目で見ながら、レジの向こうから出てくる。

「ば、絆創膏、絆創膏ないですか」

「絆創膏?あー、うちにそういう類のもんは置いてないけども」

「わあああ」

「怪我してるの?」

「違うんです」

 泣きじゃくりながら、私は事情を説明した。自分が受験生であること、今から高校入試なのに手の甲にメモがあること。このままだとカンニングを疑われ、失格になってしまうこと。                                

 説明が終わると、店主はしばらく困り顔で固まっていたが、やがて一つ息を吐き「そこに座って、少し落ち着きなさい」と言った。そしてさっさとレジの奥に行ってしまう。事情は伝わったのだろうか?私は鼻をすすりながら大人しくパイプ椅子に腰を下ろす。「落ち着きなさい」なんて、母親以外の大人に初めて言われた。号泣によるしゃっくりが収まる頃に、店主が戻ってくる。その手にあるものを見て、私は息をのんだ。

「これでいいの?売りもんじゃなくて、わたしの私物だけど」

 店主の手にあったのは、大判の絆創膏であった。手の甲をほとんど覆えるサイズ、私が探し求めていたアイテムそのものだ。

「えっ、いいんですか?」

「うん。もう、うちの店で号泣しないでよ」

 立ち上がって絆創膏を受け取ると、さっきまでと違う涙がこみ上げてきた。泣くなと言われたばかりだが。


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