第2話 隠せ


 私、岩本奈子といいます。試験が始まってまずすることは、この名前を記入すること。試験まであと一時間、今はなんとしてでもこの手のメモを消さなくてはならない。二年間の努力が、こんなちっぽけなメモで台無しになるとかありえないから!

メモを見つけた瞬間、時が止まったかのように気が遠くなった。すると、昨夜ギリギリまで頭に詰め込んだ数式や英単語がハラハラと脳裏によみがえってくる。待って、今はそれどころじゃない、あっち行ってて。頭を振って数式たちを追い払う。

 どうやって消そう。改めて手のメモを凝視する。いつも持ち歩いている油性ペンで、それは書かれている。うっかり消えないかと、爪で引っ搔いてみたが、痛いだけで消えはしなかった。立ち上がって辺りを見渡すと、ベンチの前にある階段を降りたところに、水道があるのが見えた。サッカーコートの傍、きっと部員たちが使うものなのだろう。私は水道まですっ飛んでいった。幸運なことに、ちゃんと石鹸も備え付けられている。勢いよく蛇口を捻る。うわー冷たい、手痛いよ。なんで水道水って夏ぬるくて冬冷たいんだよ、逆になってよね。うおおおメモ消えろ消えろ消えろ。

気合を込めて擦るが、薄くなっただけで消えはしなかった。これではかえってカンニングを疑われやすい。制服のスカートで濡れた手をぬぐい、ふつふつと沸き起こる絶望と焦りに、私は立ち尽くした。

なんとか袖で隠してやり過ごせないだろうか?いいや、そんな怪しい素振りを見せたらますます疑わしい。

「あの、岩本さん・・なにしてるの?」

頭上から声を掛けられて、私はハッと顔を上げた。階段の上から、同じ制服を着た少女がこちらを見ている。逆光で顔が見えない、しかし階段をのぼっていくと、誰だかわかった。

「あ、市川さん」

 そこにいたのは、隣のクラスの生徒、市川のぞみであった。志望校が同じだとは知らなかった。彼女は顔の横に垂れる短い髪を耳にかけ、気弱そうな目で私を見ている。クラスの端っこでひっそり過ごしているタイプの子、と覚えている。私も同じタイプだから、顔を見るたびに親近感が湧いていた。

「ハハハ、市川さんもここ受けるんだ。実は今ヤバくて」

 事情を説明すると、市川さんは困り眉をより一層困らせてうなった。

「うーん。消すのが難しいなら、絆創膏で隠すとか・・?」

 私は目を見開いた。

「それだ」

 絆創膏とは思いもよらなかった。さすがに試験管も、わざわざ絆創膏をはがしてまでカンニングを暴いたりしないだろう。そうと決まれば早くしなければ。

「ありがと市川さん、私その辺の店で絆創膏探してくる!」

 市川さんに言い残し、勢いよく走り出す。駅までの道には店が無いけど、高校より先の道を進めば何かあるかもしれない。電車の本数が少なくてかえって良かった。時間に余裕がある分、まだどうにかできる。白い運動靴でコンクリートを蹴り、ひたすら全力で走った。


 私は市川のぞみといいます。試験が始まってまずするのは、問題用紙に全て目を通すこと。岩本さんは行ってしまった。一人ベンチに残され、私はどんどん遠ざかっていく岩本さんの後ろ姿を見つめる。隣のクラスだからあんまり話したことないけど、思っていたよりずっとバタバタした子だなぁ。絆創膏が置いてる店なんて、この辺あったかな。この高校に通ってるお姉ちゃんから聞いてた限り、お店自体ほとんど無いらしいけど・・。


つづく・・・

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