煙とカモメ

山脇正太郎

煙とカモメ

 対岸の工場の煙突から吐き出された白い煙は、はじめはその輪郭を明らかにしているたが、次第に空との境界線をあいまいにしながら消えていく。

 3月も終わりに近づこうというのに、海辺の風はまだまだ冬の寒さを含んでいて、防波堤に腰かけていた僕は軽く身震いをした。傍らに置いていた缶コーヒーは既に冷め切っており、甘ったるい後味ばかりが目立った。少しばかり残っていたコーヒーを飲むことをやめて、海に流すことにした。

 カモメが鳴いていた。つがいだろうか。二羽のカモメが、白い翼を広げて滑空をしている。その姿を見ていると、僕の胸には灰色の雲がかかり、あの日の思い出に囚われてしまった。


 香織は僕の横に座って無邪気に笑っていた。

「小さい頃、カモメってもっと小さな鳥だと思っていたの。ツバメぐらいの大きさと勝手に考えていたから、初めてカモメを見たとき随分と大きくてびっくりしたわ」

 香織はアルバイト先の喫茶店で一緒に働いている女の子で、背中まで伸びた黒髪がトレードマークだった。潮風が彼女の長い髪を顔にかけるので、香織はその都度直さなくてはいけなかったが、意に介してはいなかった。

 「でも、テレビの映像とかで見たことはなかったの」

 「もちろん見たことはあったわ。でも、それは私の思い込みを正すには十分じゃなかったのね。実家のテレビの画面が小さかったことが原因じゃないかと思うわ。でも、大画面のテレビだと、カモメは巨大な怪鳥として認識されていたかもしれないわね」

 香織は僕の横で、いかにも訳知り顔でうなずいて見せた。僕もうなずいた。

 「和也君は、思い込みが現実と随分ずれていたことってないの」

 「そうだね。僕は都道府県の位置関係が思っていたのとずれを感じることがあるかな」

 「北海道と沖縄が隣同士だと思い込んでいたってことかな」

 香織はいたずらっぽく笑った。

 「さすがに僕だってそこまで無知ではないかな。北海道が北の方で、沖縄が南の方だってことは知っている。どう言えばいいかな。例えば、高速道路を車で走っていて、山口県から広島県に入ったときに、そういえばこの二つの県は隣り合っていたのだと感じるみたいなことかな」

「それは無知ではなくて」

「無知というわけではなくて、知識と経験が一致したという感じかな」

「そうか。私のカモメと一緒だね」

 香織は小さく笑った。僕はそれを見て可愛いなと感じたが、その後を継ぐ言葉が出てこなかった。

 何かいい話題はないか、僕は香織との関係性の中に答えを探した。しかし、二人の間に容易に燃え上がりそうな火種が見つからない。先程から何かしらの偶然で盛り上がることがあるが、不意に立ち消えてしまうのだ。


 喫茶店でのアルバイト初日、僕は香織を見て、一目ぼれをした。香織は僕と同い年で別の大学に通っていた。どちらかと言えば、人見知りの性格らしく、他のメンバーとも業務連絡しか話していなかった。彼女は休憩時間には、一人で文庫本を過ごしていた。僕は彼女と少しでも話をしたかったので、香織が読んでいる本の題名を尋ねるなど少しでも接点を作ろうとした。次第に、業務連絡の際も笑顔を見せるようになってきて、僕は好感を持ってもらえていると感じていた。

 車で市役所に連れて行って欲しいと言ったのは、彼女の方だった。僕は中古の軽自動車に乗っていて、彼女に用事があればいつでも載せてあげるからと話していたのだ。僕は、ついでにどこかでランチをしようかと誘った。香織は二つ返事でオーケーをした。

 市役所の用事は30分ほどで終わり、僕たちは予定通りに食事に行くことになった。店はこぢんまりとしていたが、大人っぽい雰囲気が漂っていた。クラシック音楽がBGMとして流れていた。平日の昼間だったからか、僕たち以外にはカップルが3組いただけだった。かすかに聞こえてくる会話は、どれもたわいもなかったが、時折大きな笑い声が挟まれていた。

 どうしたらあんなに実がない話で盛り上がれるのだろうか。僕は内心うらやましかった。僕たちはというと、パスタをフォークでどうすれば上手に食べられるかということを少し話したばかりで、会話が途切れていた。

「おいしかったね」

 僕はコーヒーを飲みながら、彼女に話しかけた。

「学食では、なかなかお目にかかれないクオリティだったね」

 香織は、コーヒーにミルクと角砂糖を二つ入れて混ぜていた。

「甘いのが好きだよね」

「そうね。どちらかと言うと甘党かな」

「そうか、甘党か」

「そうね」

 香織が可愛くてたまらなかった。もし許されるなら、この場で抱きしめたいほどであったが、僕はそれを我慢した。その代わりに、帰りに海に寄ることを提案した。


 10月の海辺は誰もいなかった。青い空に数羽のカモメが舞っていた。

 僕たちはベンチに少しだけ離れて座った。先程のカップルのような会話ができたらいいなと思った。バイト先の店長、趣味、最近読んだ本などについて話をした。小さな種火は、盛んに燃え上がる。そして、唐突に消えてしまう。その繰り返しであった。

 カモメの話題が終わった後、いよいよ話すべき話題が見つからなくなった。見ないようにしていたという方が適当かもしれない。恋愛に関わる話をしなくてはいけないのではないか。どんな男性が好きなのか。彼氏はいるのか。

「あの」

 僕は香織の横顔に声をかける。

「うん」

 彼女は、こちらに顔を向けた。僕は心臓の鼓動が高まっているのを感じた。頬や耳が熱かった。

「カモメいいよね」

 香織はにこりと微笑んだ。

 今日は恋愛について話をするべきではないような気がした。二人の関係はそれほどではない。急いては事を仕損じると言うではないか。僕もにこりと笑った。


 寮に戻った後に、友人の部屋に遊びに行った。

「お前は何をしたかったのか」

 友人はあきれ顔だった。彼に言わせると、最低のデートらしい。

 とりあえず早めに電話をするように言われ、電話をかけてみたが、話し中であった。その後、何回か電話をかけたが、その日は結局つながらなかった。

 程なくして香織はアルバイトを辞め、僕は彼女と会うことはなくなった。


 コーヒーを海に流し終わった僕は、対岸の景色を見た。工場の煙突は先程と変わらず煙を吐き出していた。それを見て、僕はもう一度身震いをした。

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煙とカモメ 山脇正太郎 @moso1059

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