第19話

 左目のあるべき場所に、ぽっかり穴があいていた。

 穴としか呼びようのないものが、黒く口を開けている。見たものを瞬時に記憶できる異能を秘めているとはとても思えない、まさに空っぽの洞だ。

 右目が美しいだけに、髑髏の眼窩にも似た穴の不気味さは際立った。


「この穴はたぶんブラックホール的なものだと思う」

(なに言い出すんだ、この人?)

「おそらくはこれが彼との交信回路なんだ。通信はごくまれだし、私からは何も送れないけれどね。私が君たちの訪問を知っていたのも、この目を通して情報を受け取っていたからだ」

(いやいや、待ってよ)

 今度は話が宇宙にまで広がるのかと思うと、竜馬はぞっとした。


「じゃあ、その穴に指を入れたら宇宙に触れるんですか?」

 由良の奇人変人がうつったのか、姫野までとんでもないことを言い出した。

「やってみる?」

 由良は嫌がるどころか楽しそうだ。

 もちろん、竜馬は止めた。姫野がその不思議な穴に引きずり込まれる可能性もゼロではないと思ってしまったから。


「チームが勝利したら、姫野君はご褒美になにがほしい?」

 どうやら姫野を気に入ったらしい由良は彼の方に向き直り、尋ねた。

「えっ? そんなの、あるんですか?」

「勝利したら、だけどね。過去の勝者はそれぞれが望んだものを手に入れたようだよ。金に地位に名声に……。まあ、ありきたりではあるけれど。人間の欲望はいつの時代も変わらないってことかな」

 しばらく真剣に考え込んでいた姫野は、竜馬が思いもしなかったものが欲しいと訴えた。


「本当だよ。僕、なんでもするよ! 音楽の才能がもらえるなら、ナビでもなんでも精いっぱい頑張ります!」


「才能って、お前はもう持ってるだろうが? 全国レベルのコンテストにも何度も入賞したって聞いたぞ」

 竜馬はつい口を挟んでしまった。放っておくと姫野がおかしな方へ暴走しそうで心配になったからだ。

「努力を重ねてやっと手に入れた実力を、そう呼ぶのならね。でも、違うんだ。勉強にたとえるなら、僕は秀才かもしれないけど天才じゃない。才能を持って生まれた人間には、どんなにあがいてもかなわない。でも……、今更どうにもならないとわかっていても悔しかった。ずっと悔しくて堪らなかった」

「姫野……」

「絶対に手に入らないはずだったものをもらえるんです。僕、やります。やりたい! 必ず勝って、音楽家としての人生を最高のものにしたいんだ」


 出会ってからの姫野の印象が、竜馬のなかで二転三転していた。

 テレポーテーションを笑顔で強行したり、由良の目の穴に指を突っ込もうとしたり……。どこが繊細なんだ? 猪突猛進型の強心臓の持ち主じゃないかと思っていた。

 だが、祈るように組んだ両手に震えるほどに力を込め、懸命に訴える姫野を見ていると、また別の思いが頭をもたげる。


 音楽のために命懸けになれるほどの強い心は、その強さゆえに脆くもあるかもしれない。ほんの少し傷ついただけで、大きなヒビが入る。塞がることのないヒビは彼を苦しめ、やがては押し潰してしまうかもしれない。

 戦いと音楽と、姫野にとっては相いれないものの間に身を置いて、そうならないとも限らなかった。これから先、なにが起こるのか。まったく予想がつかないのだから。


「才能なんてもの、本当に手に入ると思うのか? 見ることも触れることもできない、形もなにもないものなんだぞ?」

 姫野の決意表明に賛成しきれない竜馬に、彼は責める視線を向けた。

「ここまできて信じるか信じないかの問いかけは、もはや意味がないでしょう? 今夜、この目で見てこの耳で聞いたこと全部が現実だと信じるなら、ご褒美の話を信じてもちっともおかしくない」

 竜馬は何も言い返せなくなった。


「真白君は? 欲しいものはある?」

 この状況を楽しんでいるとしか思えない由良の濡れた右目が、竜馬を映した。

「俺は……」

 聞かれるまでもなく、竜馬の答えはすでに出ていた。

 正直、肉体の一部となった刀を思う存分使ってみたくてうずうずしていた。

 戦うことで強くなれるなら、それ自体がもう竜馬にとってはご褒美だ。


 自分の力に溺れるな。振り回されるな。お前が力の主たれ。


 師匠の教えを守って道を踏み外しさえしなければ、大丈夫。そう思う気持ちの一方に、うまく言葉にできない後ろめたさもあった。命の懸かった戦いに喜びを見出す自分を、竜馬はどこかで嫌悪している。


(日本を救うってちゃんとした目的があるじゃないか)


 心のなかで何度も言い聞かせている竜馬の隣で、一巳が席を立った。それまでなぜか黙って自分たちの会話を聞いているだけだった彼が、静かに口を開いた。


「俺はごめんです。関わり合いになりたくありません」


 口調は普段の一巳と変わらない落ち着いたものだった。だが、その横顔には、展望台で見せたあの何事か深く思い詰めた表情がはっきりと浮かんでいた。

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