第二章 発動 ~犬首山の一夜~

第8話

 耳にうるさくまとわりつく音が自分の呼吸音だと気がついた。

 恥ずかしいほど肩が上下している。

 この苦しさには覚えがあった。限界まで息があがって身体が思うように動いてくれない辛さより、どんなに打ち込んでも弾き返されてしまう苦痛の方がはるかに大きいこの苦しさには……。


 ここは夢のなかだろうか?


 竜馬が構えた竹刀の先にいるのは、亡くなったはずの師匠だった。泰然とした立ち姿の師匠の、竹刀を持つ手はだらりと落ちている。戦う気力失くし、佇んでいるとしか見えないこの老人に、竜馬はもはや手も足も出ないのだった。


 骨太で強固な身体の作りをしていたが、一巳の祖父とは思えないほど小柄な人だ。それがこうして刀を合わせる時は、小山のように見える。肩や背が力ではち切れそうに盛り上がり、屈強な雄牛のごとく竜馬の目には映る。

 竜馬が成長して師匠の背丈を超えても、長い手足に筋肉がつきたくましくなっても、師匠から感じる恐ろしいほどの圧は変わらなかった。


「竜馬よ」


 稽古中も決して荒らげることのなかった、柔らかく語りかける声が蘇ってくる。


「竜馬よ。命のやりとり、ただそれのみが我らが剣だ」


 師匠は世間の人々が思う『師匠』とは違っていた。武道に人道を重ね、礼節や道徳を説いたりはしなかった。

 命のやりとりができるだけの技を磨き、力をつけること。すなわち勝利することが常に自分が目指すべきたったひとつの目標だと、竜馬は信じてきた。


「今のお前は一巳より強いのか?」

「強い! 絶対に強い!」

「相手の強さを認めなければ、侮っているうちは、お前は先には進めないぞ。切磋琢磨と、ただ争い、競い合うのとは違う」

  

 ずっと昔に交わした師匠との会話が思い出される。今になって、あの時の言葉を聞き流してしまっていた自分に気がつく。


 師匠が放つ「気」に呑み込まれる。どんどん空気が足りなくなっていくようで、立ち向かうどころか今にも膝を折ってしまいそうだ。それでも少しでも前に出ようと必死になる竜馬を、師匠は見ている。


(ああ……、あれは亡くなる前の日だった。師匠はあんな目をして俺を見ていた)


「いいか。この先、お前がどんなに強くなっても、その強さに振り回されるなよ。力にお前が操られるのではない。お前が主人だ。自分の力を限界まで引き出すのに相応しい場所を見つけてやれ。そうすれば、命の応酬の果てに光を見ない我らが無明の剣にも、ひょっとしたら灯せるかもしれない。その先を照らす人としての明かりをな」


 遺言とも呼べる言葉だったのに……。今この瞬間まで忘れていた自分に、竜馬は歯噛みした。


 もっともっと教えてほしかった!


 この世に二人といない師を失った絶望がどれほどのものなのか。やっとその大きさを我が身の痛みとして感じることのできた竜馬が、師匠の名を呼んだ時だ。


「あっ!」


 パアアアッと音が聞こえてきそうな勢いで、白い閃光が広がった。こめかみが痛むほどのほどの眩しさに目を逸らそうとして、できない。

 見開かれた竜馬の瞳のなか、師匠の輪郭がぐにゃりと崩れ、溶けていく。

 黄金がかった光は師匠と過ごした日々を、その存在さえもすべて覆い隠してしまうようだ。


「……何だ?」


 師匠が消えていった巨大な光の向こうに、何かの気配があった。

 誰か、ではない。自分が今まで見たことも触れたこともない、「何か」だ。


 オマエニシヨウ


 「何か」は頭のなかに忍び込み、そう告げた。


 タタカエ

 タタカワナケレバ オマエノセカイハオワル


 性別も年齢も曖昧なその声が、秘やかな笑いを含んでいることを竜馬ははっきりと感じていた。

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