白に一色、足すまで待って

【KAC5 88歳】

 腫れぼったいまぶたが微かにぴくりと動いて、目が開いた。


 うっすらと隙間が出来た箱みたいに、アタシの小さな瞳に見慣れた景色がぼんやりとながら映り込む。


 眼瞼下垂の手術をしようかねと鞠子さんに相談したこともあるが、


「お義母さんはもう歳だから。意味ないと思いますよ」


 と窘められたのが、数年前。


 白内障手術は73歳の時にしたというのに、最近はまた見えづらくなっていた。


「よる年波にはかなわん、か」


 六畳一間のひとりの部屋に、ぽつりとアタシの声が響く。


 あぁいやだいやだ。嗄れた声になっちゃって。それに独り言もめっきりと増えた。


 ため息ともただの息ともつかない空気が、どこからともなく漏れて、アタシは上を向いたからだを横にする。


「よっこい、せ!」


 気合いを入れないと、起き上がることすらままならない。まるで関節という関節に軛を打ち込まれたみたいに重くてだるい。


 これが毎朝毎晩いやむしろ常時。

 若い人たちには、想像もつかないでしょうね。


 アタシだって、若い頃は陸上で鍛えていた。だけど、81歳の時に日課の早朝ランニングで足首を捻挫。これが入院にまで発展してしまった。


 鞠子さんに、


「もう走らないでください。心配するほうの身にもなってくださいね」


 と言い渡され、半世紀以上続けていた日課を辞めた。


 あそこからぐんぐん悪化している気がする。


 この歳にまでくると、あちこちに不備が見つかる。皮膚科、歯医者、眼科、耳鼻科、整形外科――これだけ毎日医者にかかっていると、ほんとうは昔から欠陥だらけだったのに、気づいていなかっただけなのかもしれないなんて思う。


「そろそろお迎えかねぇ」


 確かなため息とともに、アタシはそう吐き出すと、這う這うの体で窓に近づく。


 窓の下に設えられた神棚に飾ってあるおとうちゃんに、挨拶をするためだ。


 神棚と言っても、こじんまりとした二段式のものに、生前の写真を立て掛け、前に茶湯器と仏飯具、挟まれるようにしてお鈴が供えられているだけの質素な作りだった。


 元々この家には立派な仏壇があったのだが、息子夫婦の子供たちが、りのべーしょんだとかいうのをした際になくしてしまった。もう10余年も前のことである。


 その時に、


「仏壇がないのでは、お義母さんが困るだろうから」


 と、鞠子さんがいんたーねっとで買ってきてくれた。


 本音を言うと、少しはアタシに相談してくれても良かったのに、とは今でも思っている。


 だって、ここは元々、アタシとおとうちゃんの家なのだから。


「ふう。おとうちゃん、おはようございます」


 しわくちゃになった手を擦り合わせると、油分の足らない皮膚と皮膚とがくっつく音がした。

 枯葉を擦る音に似ていて、アタシはまたも深い息を吐く。


 皮膚科でもらっている軟膏を塗るのを忘れていた。くわえて、何処に置いたかも忘れている自分に気づく。


 ほんとに、やぁねぇ。


 線香、はないのでせめて茶湯器に水を入れるため、足を崩した。空っぽになった器を両手で持ち、牛の歩みで洗面台へと向かう。


 洗面台までは、アタシの背の高さに合わせた手すりがついているので、比較的楽だ。


 蛇口を捻り、小さな容れ物に水を汲む。底にうっすらと水が張る程度でいい。昔はもっと入れていたのだが、零してしまったことがあり、鞠子さんに叱られた。


 水を止めると、また来た道を戻り、正座をしてお鈴を鳴らす。


 これが日課。アタシの1日のはじまり。


 手を合わせて目を瞑っていると、そういえば昨夜、鞠子さんに背中の患部に軟膏を塗ってもらったことを思い出した。手が届かないので塗って欲しいと、自ら頼んだのだ。


 歳をとると物覚えが悪くなる。それは確かなことだ。しかし、ある時ふっと点と点とが結びつくみたいに思い出すこともある。


 ほんとうにふっと。


 幸いなことにアタシは、腰が悪いだけで、耳も比較的聞こえているし、認知症的な症状に至ってはこの歳まで出ていない。それでも、さすがに記憶には年々自信がなくなってきていた。


 歳をとるとは、色を失うことだと思う。


 周囲から人が消え、記憶も消え、最期には自分も消える。


 そうして一所懸命に生きてきた証がすべてなくなり、まっしろにもどったその先に何があるのか。


 それは、誰にも分からない。


 ただ、アタシは思っている。その先にはきっとおとうちゃんがいて、アタシを待ってくれていて。「遅かったな」って、いつものように泣いているみたいな笑い方をしてアタシを手招くと。


 だからアタシは黙って隣に座って、空になった杯にお酌をしながら、「あなたがいつまで経っても呼んでくれないからでしょう」とちいさく愚痴を言って、笑い返すのだ。


 ああ、おとうちゃん、早くお迎えにきてくださいな――。


 部屋を出ると、目の前にえれべーたーがある。これもりのべーしょんの際に鞠子さんが付けたものだった。


 付けた当初は、なんのために付けたのかよく分からなかったが、今ならわかる。


 たぶんこれがなかったら、4階の自室から出ることなどなかっただろうから。


 1階が近づいてくるにつれ、何やら騒がしい声が聞こえてきた。


 これは確か、玄孫のそらくんとるかちゃんの声だ。何かを言い争っているように聞こえるが、何だろうか。


 しかし、そらにるかだなんて、今時の子の名前は本当にわけがわからない。


「いいから! かせよ!」


「だめだって! ママに言われたでしょ! ひいおばあちゃん、びっくりしちゃうからダメって!」


「なんでだよ! この前うちのクラスでたいきの時はつかったぞ!」


「だーかーらー! としがちがうっての!」


 えれべーたーが1階に到着する。

 鉄の扉が開いたので、アタシはゆっくりと降りた。


 ガラスを嵌めた引き戸の向こうで、玄孫ふたりの影が激しく動いている。甲高い声も聞こえる。どうやら未だに言い合っているようだ。


 首を捻りながらアタシが入ると、大きな破裂音とともに、目の前に色とりどりの紙が降ってきた。


「あーーーー!!!」


 同時に曾孫のゆきちゃんの絶叫も降ってきた。


 ゆきちゃんは、目をぱちくりとさせているアタシのところに文字通りすっ飛んできて、肩に落ちた紙たちを手ではらうと、


「大丈夫ですか? いとおばあちゃん、びっくりしましたよね。あぁ、ごめんなさいぃ」


 はらはらおろおろといった様子で、ごめんなさいを何度も繰り返した。


「え。あ、大丈夫だよ……ね?」


 アタシはそれ以上どう答えていいやら分からず、一緒におろおろしてしまう。


「よ、よかったぁ」


 ゆきちゃんはそう言うと、へなへなとその場に座り込んでしまった。


 そこで初めて気づく。


 ゆきちゃんやそらくんるかちゃんだけではなく、20帖ほどの居間にはもっとたくさんの見知った顔があることに。


 あれは確か、ゆきちゃんの夫のしゅうへいさんに妹のめいちゃんだ。その隣にいるのは、更に妹の誰だったか、あ、そうそう、ちかこちゃん。その夫の、えーっと、ごめんなさい。思い出せないさんに、たぶんその子どもたちの――わからない。


 ただ、とても久しぶりに見る顔もあった。


「お。主役の登場だ」


「いとばあちゃーん、おめでとー」


「びっくりしてる。ほら、やっぱり刺激が強すぎたんだよ」


「いや、久しぶりすぎておれらのこと覚えてねえんだろ。もう歳だし」


「え。あ、あの……」


 落窪んだ瞳をあっちへこっちへ動かしていると、皆が口々に何かを言った。


 そしてそれは勘違いでなければ、アタシに向けられたものであるようだ。


 呆然と立ち尽くしていると、エプロン姿の鞠子さんが、ぱたぱたと厨房から小走りでやって来た。


「お義母さん、大丈夫でしたか?」


「おばあちゃんごめんなさい。クラッカーダメって言ったのに。ほんとにもうあんたたちは!」


「わぁん。ごめんなさいー」


「あたし、とめたのにー。とばっちりじゃぁんー」


 同時に、まだ隣でおろおろしていたゆきちゃんも、いつの間に連れてきたのかそらくんとるかちゃんを叱っている。


 その顔がまさに母親のそれだったので、アタシは思わず頬を緩めた。


 クラッカーなら知っている。紙筒の下に紐がついていて、それを引っ張ると、大きな音とともに中から紙吹雪や国旗やらが飛び出すものだ。


 どうやら先ほど自分に向けて発射されたものが、それだったらしい。


 アタシはまた目を瞬かせた。


「お義母さん、今日は何の日かご存知ないですか?」


 鞠子さんが少し訝しむようにした。

 アタシはもう一度視線を泳がせると、答えの代わりに肩を竦める。


 鞠子さんが小さく息を吐くのが分かった。


「お誕生日ですよ。お義母さんの。88歳の。米寿、おめでとうございます」


 鞠子さんのその言葉が合図であったかのように、皆が一斉に拍手をした。


 ぱちぱちぱちぱち――


「おめでとうおばあちゃん」


「ひいおばあちゃん、大好き!」


「白寿目指してくださいね」


 ぱちぱちぱちぱち――。


 惜しみない拍手がこの場にいる誰からも送られる。


 きょろ、と首を動かす。と、先ほどは気づかなかった変化に気づいた。


 ゆきちゃんのお腹が、膨らんでいる。


「ゆきちゃん……その、お腹」


 手を伸ばしかけて戸惑う。


 こんなしわくちゃのお婆さんに触られても、ゆきちゃんは迷惑かもしれない。だが、ゆきちゃんはアタシのそんな考えなどお見通しかのようにアタシの手をそっと掴むと、自分のお腹にあてた。


「そう。3人目、生まれるの。だから、いとおばあちゃん、100まで、ううん、ギネスブックに載るくらいまで、長生きしてね」


 曾孫の3人目の子ども。


 自分の世界はどんどん白く、白紙に戻っていくと思っていた矢先に、そんなことを言われると、先ほどまでおとうちゃんの写真の前で言っていた言葉をこそ、白紙に戻したくなってきてしまう。


 おとうちゃん、ごめんなさい。

 さっきの言葉はなしにしてください。アタシ、もう少しこっちにいたいです。


 今日、米寿を迎えたアタシが、白寿まで生きて、更にその白に一色足すまで。


 どうかそちらでもう少し待っていてくださいな。


 奥村いとゑ、88歳。


 100まで生きてみせましょう。


【了】





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