第7話 七重奏 伝説も霧の向こうだ公務員

「燈馬ーっっ!はよ降りといでんか!!!」


 朝陽が昇り小鳥がさえずる異人街の平穏な朝に不似合いな怒鳴り声が、早朝の倉橋邸に響き渡った。

 使役式神のざわめきと、聞き覚えのある訛りに、洋館の住人達が次々とベッドから起き出す。

 最初に階段の踊り場から玄関を伺ったのは駿牙だった。

 寝ぼけ眼をこすりながら指紋の残る眼鏡を浴衣の袖で拭きつつ来訪者を確かめて、叫んだ。


「こここ琴音先生!!??」

「すーちゃん!おはようさん。みんなまだ寝てんのか!?はよ叩き起こして!一大事や!」


 捲し立てるように言ったのは、紺の袴に白いフリルの付いたブラウス姿の眼鏡の女性、芳賀琴音(はがことね)。

 耳の下でパツンと切り揃えられたボブヘアに、凛々しい印象を与えるぱっちりとした吊り目と細めの長身が特徴的な美人女医だ。


「燈馬さーん!起きてください!兄さん!緋継さーん!琴音先生が来られてますよ!!!」

「ひーくん!ありくん!燈馬ぁあああ!!起きろー!!!」





 二人の大声目覚ましによって、珍しく午前6時過ぎの倉橋邸の応接に住人全員が揃った。


 寝ぐせ頭を適当に撫でつけながら、使役式神が運んできた渋めの番茶を啜って有匡が欠伸を堪える。

 最後に応接に顔を出したのは緋継で、寝起きとは思えないほどきちんと身支度を整えてからやって来た。ネクタイこそ結んでいないがすぐにでも出かけられる格好である。

 楽な着流し姿の有匡と燈馬、この後学校に向かう駿牙は書生姿だ。チコはいつも通り緋継の隣に控えており、玉藻前は自分の寝床から出てきていない。


「こんな朝からどうしたよ琴音」


 ちゃっかり長椅子の琴音の隣を陣取った燈馬が質問を投げる。

 呪力持ちの琴音は、陰陽師再招集の前から陰陽寮に所属していた医師である。

 遡れば徐福の落とし胤が祖先だという祖父の跡を継いで、普通の診療所の医師と陰陽寮向けの薬師のふたつの顔を持っている。

 祖父から授かったいくつかの錬丹術はあるものの、呪力も弱いため、琴音はほぼ一般人として生活しており、協力要請が来ない限りは陰陽寮と関わらないようにしている。


 玉藻前と遊ぶとき以外には異人街に寄り付かない彼女が、自らここに出向いたということは余程の事態が起こったということだ。

 会うたびにちょっかいを掛けて来る燈馬に辟易している琴音だが、今日ばかりは態度が違った。真顔で一同を見回す。


「出たんや、滝夜叉姫が!!!」

「・・滝夜叉・・姫」


 歌舞伎や浄瑠璃でしか聞いたことのない妖怪の名前に、燈馬がぽかんとなる。

 間抜け面の燈馬にすぐさま琴音の平手が飛んだ。

 ぱあん!という小気味よい音が応接に響く。


「ぼけっとしてる場合ちゃうやろ!しゃんとせえ!滝夜叉姫ゆーたらあんたらにめっちゃ因縁あるお姫さんやんか!!」


 琴音からの仕打ちには慣れ切っている燈馬が、いやー目ぇ覚めたわ、と頬を押さえて笑う。

 この人やばいな、と駿牙は頬を引き攣らせて、有匡は素知らぬ顔でもう一口番茶を飲んだ。


 未だによく分かっていない燈馬に二度目の平手が飛ぶ前に、緋継が足を組み替えて説明役を買って出た。


「その昔、燈馬のご先祖様が髭切丸を奪われて、碓井貞光と協力して取り返した相手が滝夜叉姫ですよ」

「な、なん百年前の話だよそれ!!」

「およそ千年。ほとんどただの伝承ですけどね・・」

「え、でもなんで今更、そんな昔の滝夜叉姫が出て来るんですか?」

「それがな、すーちゃん!良順和尚が、滝夜叉姫と出くわした、ゆーねん!」


 下山手通にある正縁寺の良順和尚は、地元の住民たちからの信頼も厚い高名な僧侶である。

 家の事情で小学校を卒業できなかった子供たちを寺に招いて、読み書きを教えたり、時には悩める大人たちの相談にも乗ってくれる、琴音たちにとっても馴染みの深いおじいちゃん和尚だ。

 そんな良順和尚が檀家の寄り合いに顔を出して、ついつい深酒をしてしまい夜中の二時過ぎに家路についたその道中、暗がりから赤い影が出てきたらしい。


「数珠も持ってはったし、禍付きなんはすぐに分かったから、お経で祓おうとしたんやて。ほんならお経の途中で地面から髑髏が出てきて、赤い影が女の子になったんやて!目が合うた途端、数珠が割れて髑髏ががばあて口開けたらしくて、恐ろしなって逃げようとして」

「え・・・琴音先生まさか・・」

「あ、ちゃうちゃう!死んでへんで。生きてる思いっきり生きとるから。慌てて逃げようとした時に腰やってもうて、朝方うちの診療所にお弟子さんが飛んで来たんよ。ほんでな、良順和尚が言うには、和尚が手ぇに持っとったコブシの枝に髑髏が纏わりついてきたらしいねん!」

「良かった・・」

「すーちゃんはほんま陰陽師のくせに怖がりやなぁ」

「陰陽師全員が安倍晴明みたいに優秀だと思わないでくださいよ!!」

「それ、芦屋さんの前で絶対言うなよ、駿牙。言うんなら、あちらのご先祖様もちゃんと付け加えなさい」


 神妙な面持ちで有匡が訂正した。

 村雨隊隊長は、この手の話題には物凄く敏感で神経質なのだ。


「隊長さんはほんまにお家第一やなぁ・・あの人見とると陰陽師やなくて武士見とる気になるわ」

「それで、琴音先生、良順和尚がその赤い禍付きを、滝夜叉姫だと?」

「そうや。髑髏連れとる女の妖怪ゆーたら、滝夜叉姫に間違いないっていうから、あんたらになんかあったらと思って」

「心配してきてくれたのか!」

「面倒がこっちに降りかかったら困るからや!」

「なるほど・・・赤い禍付きの謎がこれで解けましたね!でも、滝夜叉姫ってコブシの花と関係あります・・?コブシって白い花ですよね・・?」

「たまたま綺麗な花だったから欲しくなった・・とか・・?あるわけないか・・」

「兄さん、禍付きに花の美しさってわかるんですか?」

「さあー・・人によるんじゃない?玉藻前なんてあの通り超がつくほどお洒落好きだし、花見だ紅葉だ煩いだろ」

「玉藻前を比較対象にするのはどうかと思いますけどね」

「主君、昨日の帰り道出会った野良犬が、滝夜叉姫らしき赤い禍付きを見たと言っていましたよ!名前は分かりませんが綺麗な白い花が咲いている細道でした」

「チコくん、お手柄ですね。滝夜叉姫の好きな花なんでしょうか・・?」

「燈馬、あんたどっかで赤い禍付きと会うてへんのんか?よう思い出してみい」

「卜部のご先祖様と因縁があったっつったって、俺に直接関りなんかねぇよ!」

「燈馬さん、福原でやばい遊女と遊んだんじゃないの?」

「は!?ちゃんと相手は選・・」


 きっぱり言い返しかけた燈馬が、隣の琴音の視線に気づいて言葉尻を飲み込んだ。

「馴染みの遊女で最近店に出て来なくなった方は?」

「なんで俺に特定してんだよ!滝夜叉姫と縁があるのは卜部だけじゃねえだろが!」

「碓井の子孫の人ってここら辺におるん?」

「直系の子孫の方は、関東に所属されてますよ。分家筋までは拾い切れていませんね」

「芦屋さん頭抱えるだろうなぁ・・」

「っていうか、滝夜叉姫が本当なら、これかなりの大捕り物になりますよね?」

「待て待て!たまたま傍に髑髏が現れただけって可能性もあるだろ!?良順和尚が酔っぱらって見間違ったって可能性も」

「あれだけ名のある僧侶が唱えたお経でびくともしない禍付きですよ、相当な大物ですよ。十中八九、滝夜叉姫でしょうね」

「あのう・・主君・・・滝夜叉姫というのは、どのような姫君なのでしょう?」


 黙って話を聞いていたチコが、一人掛けの椅子に腰かける緋継を仰ぎ見た。


「後で複写の絵巻物を見せてあげましょうね。簡単に言うと、天下取りを目論んで、夢半ばで倒された父の復讐を誓って妖術使いとなった姫です」

「その姫は、燈馬殿のご先祖様が倒したのですか?」

「いえ。倒したのは大宅太郎光国(おおやたろうみつくに)という別の人物と言われています。我々のご先祖様である頼光四天王との直接的な因縁は、卜部が警備をしている際中に、源家の宝刀【髭切丸】が滝夜叉姫によって盗まれてしまい、頼光の怒りを買った卜部が、碓井に助けを求めて二人で滝夜叉姫から刀を取り戻した事、そして、滝夜叉姫の弟である平良門(たいらのよしかど)を頼光四天王が退治した事ですね」

「なるほど・・・よく理解できました。では、かなりの強敵ということですな!」

「まあ・・伝承を見る限りそうなるでしょうね・・有匡、駿牙。物凄く他人事のような顔をしていますが、これは村雨隊で対応する事案ですからね」


 よかった。うちのご先祖様じゃなくてと揃って気を抜いていた倉橋兄弟である。


「はいはい、分かってますよ、な、駿牙」

「護符大量に用意しておきますね!」

「主君、ワタシは凪殿が髭切丸を振るう姿を拝見したことがないのですが・・」

「凪は分家筋で、剣術の腕はさほど良くありません。いつも暗器しか使わないでしょう?私は渡辺綱の直系ですが、剣ではなく銃を使いますし、必ずしも能力が受け継がれるわけではないんですよ」


 ぽんと叩いた胸元には、愛用のベレッタが収まっている。

 呪力を込めた弾で禍付きを倒す緋継のやり方は陰陽寮でも珍しい最新式だ。


「良順和尚の話やと、かなりの妖力やったらしいで。しかも顕現も自在で、瞬きの間に消えてしもて気配も追えへんかったって」

「結界に上手く引っかかってくれたらいいけど」

「低級の禍付きならともかく、滝夜叉姫はもともと人間ですからね、陰陽師が張った結界に自ら触れるような事はしないでしょう」

「いっそのこと結界破ってくれりゃ分かりやすいよなぁ」

「燈馬さん!張りなおすの滅茶苦茶手間と材料と時間がかかるんですからね!」

「範囲が広ければ広い程人海戦術なの、知ってるでしょ?また一日神戸の街歩き回りたい?」

「・・・悪かった」


 村雨隊結成一発目の仕事は、古くなった結界の補強だった。

 依代となる水晶や紫水晶を配られて、地図を片手に日の出から日暮れまで延々と種まきのように依代を地面に埋める作業を繰り返した日を思い出して、燈馬が苦い顔になった。

 あれはある意味聞き込みよりも辛かった。

 暗がりに集まる禍付きを見つければ無視するわけにもいかない。

 まるで子供の頃に罰としてさせられた庭の草むしりのようだった。


「とにかく、用心しいや!ほんで、うちは巻き込まんといてな!」


 ばしん!と燈馬の背中を叩いた琴音が、ほんなら、と言って腰を上げる。


「あ、待て、琴音」

「なんやの。はよ帰らんと診療時間が」

「悪いが今日は診療所は休みにしてくれ。別件で陰陽寮絡みの仕事が入ってんだ」


 本来なら午後から琴音を迎えに行って、通り魔事件の容疑者の診察を依頼するつもりだったが、ここまで出向いてくれたのだから帰すのは惜しい。

 赤い禍付きが滝夜叉姫と分かった以上、出来るだけ早く今後の対策も立てなくてはならない。

 有匡は式神を呼び出して、凪、茨、成伴を呼びに行かせる。

 当分こちらの事件に縛られることになるだろう。


「兄さん、僕学校どうしましょう?」

「寄り道せずに帰っといで」

「有匡、電話使いますよ。店に連絡してきます」

「別件って・・最近静かや思っとったのに、そんな次々事件が・・」

「滝夜叉姫も面倒だが、それと並行して生霊探しもしなきゃなんねぇんだ」

「生霊!?ほんまにややこしいわ!もう!」


琴音の悲しい悲鳴が応接に響き渡った。





・・・・・・・・・・・・



 同日、午後。


「あのう・・ごめんください・・・」


 ティータイムの客がちらほらと店を訪れる中、白猫屋の看板の横で立ち止まって不安げな表情で中を伺う地味な紬の着物の女性がいた。

 手にした籠と風貌から察するにどこかの家の女中のようだ。

 珊瑚色の辻が花の着物に若苗色の源氏車の帯を合わせたエプロン姿の伊吹がトレー片手に女中の元に向かう。


「はい、いらっしゃいませ!中へどうぞ?」

「あの・・み、美紅お嬢様ですか!?」


 元町通のマドンナ兼看板娘と間違われたのは初めてである。


「いえ、あたしは従業員です。美紅お嬢さんはいつもお店に来られるわけじゃないんですよ」


 時折、付文を言付かった女中が店にやって来ることがあるので、その類だろうか。

伊吹の言葉に、女中が落胆の表情で項垂れた。


「そ・・そんなぁ・・白猫屋に行けば美紅お嬢様に会えるって・・」


 主人から余程厳しく言い含められて来たのかもしれない。

 崩れ落ちそうな女中の身体を支えて、伊吹は元気づけるように言った。


「良かったら、中で待たれませんか?今日はお稽古の後お店に寄られるはずですから」


 ようやく振替のお稽古三昧が終わって、明日の夕方には店に行けそうだと手紙に書いてあった。

 美紅と会うのは、有匡達と出会った日以来である。


「え、よろしいんですか!?お金・・なくて・・」

「お気になさらず!大丈夫ですよ、付文を持ってこられたんですよね?」


 伊吹が預かっておくことも出来るが、この様子だと必ず本人に渡して、何なら返事も貰ってこいとか言われていそうだ。

 大抵の付文に返事をしない美紅だが、今日ばかりは丁寧に断りの文句を書いてあげて欲しい。

 店の中へ案内しながら問いかけると、女中が違うんです、と否定の声を上げた。


「え、なら、伝言とか?」

「私が、美紅お嬢様にお願いがあって伺ったんです」





 通りから見える場所は困るという女中を奥の半個室に通して、訝し気な視線を向けて来る加藤を笑顔でごまかして、給与天引きしたコーヒーとアイスクリームを女中に出してやり、待つこと一時間。


 俥で乗り付けたお稽古帰りの美紅を、挨拶もそこそこに半個室へと引っ張り込んだ。


「なあに、伊吹!そんなに急いでなにかあったの?話したいことが沢山あるのよ!あなたが手紙に書いていたあの・・」

「あたしも色々話があるけど全部後よ」


 白い花が咲き乱れる杜若色のワンピースに、クロシェットを被った美紅は、片腕をがっしり伊吹に掴まれたまま、待ってたよ!と声をかけて来る常連客達に笑顔で手を振る。


「美紅に会いたいって訳ありな感じの女中さんが来てるのよ」

「ええ?女中・・?どこのお屋敷の子かしら・・お名前は?」

「まだ聞いてないけど、かなり思いつめた様子なの」


 締めていたカーテンを開けて、中で待つ女中に、美紅を見せると、アイスクリームを出した時の数倍嬉しそうな笑顔が返って来た。


「この方が美紅お嬢様!!」

「お待たせしてしまったかしら?わたしに御用がおありだそうね?ところで、あなたどちらの女中かしら?」


 見覚えがない様子の美紅に、女中が椅子から立ち上がって丁寧に頭を下げた。


「私は、永尾家でお世話になっておりますトミの従妹にあたります、絹子と申します。今は、藤堂家で働かせて頂いております」

「ああ、トミさんの!そう、あら、確かにちょっとお顔立ちが似てるわね、で、絹子さん、わたしにどんな御用かしら?」


 永尾家の使用人の縁者と聞いて、ホッとする。

 美紅に懸想している男の家の女中なら、二人きりにするのは少し心配だったからだ。


「コーヒー持ってくるわね。アイスクリームも」

「ええ、お願い」


 混み入った話のようだと判断して、伊吹はそのまま席を立つことにした。





 半個室から出ると、すぐに加藤から声を掛けられた。


「伊吹さん!これ、二番テーブル、あんみつは四番テーブルです、急いで」


 女給がいなくなり、給仕の手が止まってしまったらしい加藤が、いらいらした様子でコーヒーを入れている。


「はい、ただいま!あ、加藤さん」


 美紅にコーヒーとアイスクリームを!と言いかけた伊吹を遮って、加藤が剣呑な視線を半個室に向けた。


「さっきの女中なんなんですか?美紅お嬢さんの客って言ってますけど、うちの屋敷の者じゃありませんからね!怪しい人間じゃ・・」

「伊吹ちゃーん、あんみつ早くしてくれよー!」

「コーヒーはまだかね?」

「すみません!すぐに!!あの、さっきの女中さんトミさんの従妹さんだそうです!」


 早口でそれだけ言って、カウンターの上からコーヒーとあんみつを取って急いで給仕に向かう。


「トミさんの・・?」


 屋敷の女中の名前が出て、加藤の表情が若干和らいだ。


「おまたせしました!」

「なんだい、あの女中、美紅ちゃんに付文でも届けにきたのかい?」

「こないだも通りから学生が美紅ちゃんのこと見てたからなぁ」

「付文ではないみたいですよ。こちら、おさげしますねー」

「伊吹ちゃんにもいい相手が見つかったし、こりゃあ美紅ちゃんも本腰入れて婿入り先探すのかねぇ」

「俺が独り身だったらなぁ」

「私はいつでも嫁に来てもらって構わないがね」

「永尾の旦那さんが許さねぇよ!」

「僕だって許しませんよっ!」


 カウンターの中から加藤まで参戦してきた。


「あの、加藤さん、美紅お嬢さんに・・」


 コーヒーを、と言いかけたところで、半個室から美紅本人が出てきた。

 何やら困った表情で伊吹を呼んでいる。


「あの、伊吹、ちょっと来て頂戴。あなたにも聞いて欲しい話なのよ」

「え、あたし・・?」

「加藤さん、申し訳ないけれど、暫く伊吹を借りるわね?」

「はい!どうぞ!喜んで!」


 二つ返事で頷いた加藤に見送られて、伊吹は再び半個室に戻ることになった。


「なに、なんなの?相談ごと?」


 女同士でしかできない話だろうかと興味半分、心配半分で美紅の隣に腰かける。

 美紅の視線を受けた絹子が、白猫屋にやって来た理由を語り始めた。




「私が藤堂家でお世話になり始めたのは、ふた月ほど前からなんです。トミさんの話を聞いてずっと都会に出たくて、やっと紹介して貰えたのが藤堂子爵のお屋敷でした」

「藤堂子爵って・・ええっと・・どこかで・・」

「通り魔事件の被害者よ」

「葺合の藤堂子爵!?」

「はい。そうなんです・・あの日、逃げる・・犯人に切り付けられたと新聞に書かれた女中が私です」

「え・・・?そ、それは、とても怖い目に・・」

「違うんです、そうじゃないんです!新聞に書かれてある事は嘘なんです!」

「嘘?」


 目を丸くして美紅を見やると、困り果てた表情でこくんと頷き返された。


「そもそも、この事件は、通り魔事件じゃないんです。冬也さん・・屋敷の書生が、旦那様ともみ合っているうちに誤って起きた事故なんです」

「え、でも・・新聞には・・」

「藤堂子爵が、通り魔に刺されて、犯人が逃亡途中に、豆腐売りの男と、買い物途中の女中を切りつけたって書いてあったわね」

「旦那様が、警察の事情聴取で通り魔に襲われたと証言なさって、私たち使用人には・・緘口令をしかれたせいです・・」

「なにそれ・・」


 唖然とする伊吹の前で、絹子が記憶をたどるように続けた。


「嫡男の公孝(きみたか)様の婚約が決まって、翌週にはお相手の関東のご令嬢とご両親がお屋敷にお見えになる予定でした。だからあの日、使用人たちは離れの掃除と買い出しで殆ど母屋に残っていませんでした。私がお使いから戻ると、母屋の台所で大きな声がして・・勝手口から中を覗くと旦那様と冬也さんが掴みあっていました。旦那様はナイフを振り回して殺せ!とか悪魔!とか、訳の分からない事を叫んでおられて、冬也さんは旦那様を止めようとしてもみ合いになって、床に倒れこんだ時には旦那様のお腹から血が・・私が悲鳴を上げると、裏口から豆腐屋の男の人が敷地に入って来たんです。震える私を不信に思ったその人が中を覗いて驚いて大声を上げて、冬也さんは我に返ったみたいに私の顔を見て泣きそうな顔をして・・手も真っ赤で・・声を掛けようとした私と豆腐屋の男の人を突き飛ばしてそのまま屋敷を出て行ってしまって・・その後で離れから番頭さんがやって来て、家に押し入って来た男に旦那様が刺されたって叫んだんです。私と豆腐屋の男の人はすぐに別々の部屋に連れていかれました。その後で古株の女中さんが部屋に来て、冬也さんは元からいなかった、警察には何も言うなって。余計な事を喋ったら二度とどの家でも雇ってもらえないようにしてやるって・・」


「脅されたってこと!?」

「酷い話だわ」


「古株の女中さんの話だと、冬也さんは、旦那様と他所の女性との間に出来た子供だそうで、公孝様が地震で行方不明になられた際に旦那様が探し出して連れて来た人だとか・・」


「公孝さんは見つかって、今は怪我をなさったお父様に代わって家を仕切ってらっしゃるわね。・・確か、跡取りの他にも、お嬢様がいらっしゃったわよね?その方も秋頃にご婚約されるって聞いた気がしたけれど・・」


「はい。公孝様のご婚約の後で、お嬢様のご婚約を整えられる予定でした。お嬢様は西宮の全寮制女学校に入られていて私はお会いしたことがないんですが・・」


「二人の子供の縁談がまとまるまでは是が非でも問題を起こしたくないわけね・・」

「同じ妹の立場としては・・お嬢様に同情しちゃうわね・・」


 家の存続の為にはよくある話だろうが、一般市民の伊吹にはまるで別世界の出来事である。


「冬也さんはすごく、すごく優しい人なんです。旦那様はとても厳しい方で私は叱られてばかりで・・冬也さんがいつも励まして下さいました。旦那様の事も尊敬していらっしゃって・・それが、こんなことになるなんて・・」


「冬也さんは複雑な立場だけれど、書生としてしっかりお勤めされていたのね」

「はい・・すごくまじめな方でした。旦那様は・・気性の激しい方で、気に食わないことがあると物を投げたり、使用人に手を上げることもありました。怒り出すと手が付けられなくなるので、みんなすごく怖がっていて・・酷いときなんて、禍付きが取り憑いたみたいに暴れるんです。あの日も暴れた旦那様を押さえようとして誤って・・」


「容疑者・・じゃなくってその冬也さんって方は意識不明の状態で捕まったって新聞で見たけど」


「それだって本当かどうか分かりません!このままだと、冬也さんは、通り魔犯にされてしまいます!私は警察に本当の事を話したいんです、だけど、あの事件以降、使用人は何人も暇を出されて、残された私含め数人の使用人は、番頭さんが目を光らせていて、自由に外にも出られません。手紙を書こうにも私は平仮名を読める程度ですし・・ほかの使用人の告げ口が怖くて・・途方に暮れていた時に、トミさんのお屋敷のお嬢様の話を思い出したんです。白猫屋に行けば、話を聞いて偉い警察の方に取り次いで貰えると思って・・」


 今日は番頭が子爵の病室に一日付き添う予定だったので、隙を見て屋敷を抜け出してきたという絹子の草履はひどく汚れていた。

 葺合から店にたどり着くまでの苦労が伺われる。


 伊吹と美紅は顔を見合わせて小さく息を吐いた。

 美紅の親戚にも警察関係者はいる。

 が、華族の息がかかった警察官も多い。


 本来ならば、藤堂家の書生が主人を刺傷した、と新聞記事になるところを、子爵家とは縁もゆかりもない通り魔に藤堂子爵が襲われたと、されているところからして、 藤堂家が徹底的にこの事件を隠したい意向が伺える。 


 急に数の減らされた使用人。

 犯人は見知らぬ男で急に家に押し入って来て、主人を襲った、と残された全員が口を揃えて訴える。

 不審な点はいくつもあって、けれど、警察は一切追求しようとしない。

 明らかに藤堂家からの圧力である。


 となると、美紅の父親に話したところで右から左の可能性が大いにある。

 この間までの美紅ならば、話はしてみるけれど、力になれるかどうか、と言葉を濁すしかなかった。

 だが、いまは。


「・・・伊吹」

「うん、分かってる。同じこと考えてるわ」


 有匡と成伴の肩書は警察官だ。


「倉橋さんのお家は異人街なの、先日お邪魔したから場所も分かる。会いに行って話を聞いて貰えるようにお願いしよう」

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