黄昏時に泣きながら笑う

雪子

黄昏時に泣きながら笑う

 3月の黄昏時は、記憶をくすぐる寂しい香りがする。別れの香り、不安の香りと言ってもいい。

 変わりゆく関係に一人寂しさを覚える香り、慣れ親しんだ人と別れる香り、新生活を不安に感じた時の香り。春の香りはそういう香りだ。心躍る息吹の香りは、黄昏時には香らない。

 暮れていく空は、焦燥感を掻き立てる。このまま、4月に進んでいっていいのか。このまま、選んだ道を進んでもいいのか。それは本当に正しい道か、最善の道か、幸せになれる道か。そんな不安が心を支配して、どこに向かっても、なんだか心が躍らない。

『今、何してる?』

 赤く染まりつつも、確実に闇を呼び寄せてくる不思議な色の空を見て、無性に誰かに会いたくなった。LINEを開いて彼女にメッセージを送る。

『ゴロゴロしてる』

 いつも淡白なメッセージを送ってくる彼女の文面が、今日はひときわ淡白に見えた。

 文字にすると、言葉の響き方が目に見えて変わる。伝えたかった優しい空気感、フラットな感情、コミカルな雰囲気。そういうものが、文字にすると消えてしまうような気がして、僕は言葉を文字にするのが苦手だった。伝えたいように伝えようとすると、いつも筆が止まって動かなくなってしまうのである。

 だからこそ、絵文字やスタンプを使わない彼女の文字が、僕には突き放すような鋭いナイフに見えたのである。それがいつも通りであるのは分かっていても、感傷的な気分は僕の目にフィルターをかけるには十分だった。

『今から瑠唯るいちゃんの家に行ってもいい?』

『別にいいけど』

 その文字を見て、足の向かう先を自宅から彼女の家に切り替えた。彼女のメッセージが突き放すように見えるのは文字で見ることが原因なのであって、実際に会えばなんてことないということを、今すぐ証明したかったのである。

『着いたよ』

『今開ける』

 彼女の家の前でLINEを送った。すぐに既読がついて、返信が来た。

「どうぞ入って」

 彼女が玄関の扉を押さえながら、僕を中へ招いた。

「適当に座って」

 彼女は、基本いつもこんな感じでちょっぴり不愛想だ。言葉足らずというか、なんというか。彼女曰く、「言葉にするのが苦手」らしい。

 彼女は、自分の口から出た言葉が、思ったよりも軽く響いたり、面白く響いたりすることがどうも苦手なのだ。そういう彼女は、文字を書くのがとても上手だ。時間をかけてじっくりと書いてくれる彼女の手紙には、いつも抱えきれないほどの優しさがつまっている。だったら、LINEも得意なのではと思うが、そうもいかないらしい。LINEでメッセージを送ることは、気持ちを言葉にするという感覚よりも、会話をする感覚に近いのだという。

「急に、どうしたの」

 彼女が、温かいほうじ茶を出してくれた。ゆっくり立ち上る湯気が、部屋に消えていく。

「会いたくなった」

「どうして」

「…どうしてって…」

 彼女が、間髪入れずに理由を問うてきた。会いに来るには、会いに来たいと思った理由があるはずで、僕にも理由があったわけだが、僕がわざと理由を言わなかったことに気づいたらしい。

 言いにくいことというものがある。何か失敗をしてしまったこと、悪いことをしてしまったこと、二人の関係に影響があること。僕がそんな言いにくいことから逃げたかったことを、彼女は見逃さずに逃れられない状況を作ってきた。

 僕は、次に言おうと準備していた言葉を歯で食い止めた。物理的な準備だけでなく、心の準備が必要だったのである。

 彼女は黙ってしまった僕を見ても、何も言わなかった。ただ隣に座って、部屋に消えていくほうじ茶の湯気を見ていた。

 しばらくして、僕は大きく深呼吸をした。

「4月から、本社に異動になった」

「…つまり?」

 彼女は、また間髪入れずに言葉を続ける。ぶっきらぼうにも見えるその態度は、大事な話をしようとしている僕を、冷静な目で見ようと努力してくれている証拠だ。彼女は基本、不器用なのである。

「4月から、新潟を離れて大阪に行かなきゃいけない」

「…そう」

 がっくり首をたれた僕の隣で、彼女はまっすぐほうじ茶の湯気を見つめていた。

 ああ、部屋の中まで3月の黄昏時の香りがする。寂しい香り、別れの香り、不安な香り。

 彼女が、言外に託した僕の言葉の意味をゆっくり理解していくのが分かった。

 僕らの関係の未来が、二択で決まること。遠距離恋愛にするか、離れることを理由に別れるか。

 僕は、その選択を彼女に託したいわけではなかった。ただ、離れることを聞いた彼女がどんな反応をするのか出方を見たかったのである。打算的で、自己中心的な考えだ。

「…それは、すいが頑張った結果なんでしょ」

 彼女が、口を開いた。

「頑張ったから、本社行きが決まったんでしょ」

「…うん、まあ、そう」

 僕は、謙遜したらいいのか、素直に認めればいいのか分からなくて曖昧な返事をしてしまう。

「だったら、そんな悲しそうな顔をしないでほしい」

 ほうじ茶の湯気を見つめていた彼女が、うつむいたのが気配で分かった。

 彼女の言葉で心が、ぐちゃぐちゃになった。彼女の優しさで胸が熱くなる気持ち。ずっと望んでいた本社行きが決まって嬉しい気持ち。彼女と離れ離れにならなきゃいけなくて寂しい気持ち。別れの恐怖と、不安。僕の心は、そんなたくさんの感情をさばきれるほど、有能じゃない。

 うつむいた先に見える自分の膝に、涙が垂れた。

すいが、嬉しそうな顔をしていたら、私も素直に喜べたのに」

 彼女がそう言って、横から僕に抱き着いてきた。

「わ」

『アハハハハハハハハハハ‼』

「え⁉」

 ふいの彼女の行動に体勢を崩した僕が手をついた先には、テレビのリモコンがあった。あまりにも場違いな笑い声が部屋に響いて、お互い固まる。視線の先は、もちろんテレビだ。

『さあ次は、注目のこの二人!』

「…」

 変な体勢で抱き合ったまま、数秒テレビを見つめていた。テレビはお笑い番組を映している。

「…フッ」

 彼女の息遣いが、右耳を抜けた。

「フフ」

 僕を抱きしめる彼女の力が少し弱まる。

「ハハハ」

 笑いの程度が彼女の中で最高点に達した時、彼女は僕から手を放して声をあげて笑った。

『アハハハハハハハハハハ‼』

 テレビからまた大きな笑い声が聞こえる。

「ハハハ」

 彼女もそれに合わせて笑う。

「…瑠唯るいちゃん、泣いてる?」

「…わざわざ聞かなくても分かるでしょ」

 彼女は、泣きながら笑っていた。ぐちゃぐちゃになった顔で、急にテレビがついたことに笑っているのか、お笑いそのもので笑っているのか、離れることが寂しいのか、自分でももうよく分かっていないという顔をしている。

すいだって、泣いてる」

「笑ってるよ」

「どっちもじゃん」

 僕も、泣きながら笑っていた。状況は面白くて、お笑いも面白いのに、面白ければ面白いほど、涙があふれて止まらなかった。

 僕たちは、そのまま何も言わずにお笑いを見続けた。

 言葉のいらないその空間は、文字にするのが苦手な僕にとっても、言葉にするのが苦手な彼女にとっても居心地のよい空間で、泣いて笑っている間は感情に身を任せていられた。

 肩を寄せ合って、お互いの熱を確かめる。複雑に絡まる感情を胸に抱えた不安の中で、彼女が隣にいるだけでそれでよかった。

「僕は、瑠唯るいちゃんとこれからも一緒にいたいよ」

 テレビが終わったらこう告げようと思う。

 泣くことによってつまった鼻からは、もう3月の黄昏時の香りはしなかった。

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