るいと美空

空と鈴

 ありきたりだった日常が、ある日突然変化する。

 悪いことも、楽しいことも、新しいことでさえも。

 そのきっかけは、いつも些細なことから始まるのだ――



「んー、中々良い感じかな」

 ある日の夜、美空は自宅の台所で、ひとりオーブンを眺めていた。その中では、丸い形をした焼き菓子が、綺麗な焼き色を付け始めている。

「ただいまー」

 そこへ、玄関から聞き慣れた女性の声が聞こえてきる。母が帰ってきたのだ。

「おかえり。今日は早かったね」

「今日は、取引先との商談が早く終わってね。他の仕事も片付いてたから、そのまま直帰しちゃった」

 そういって、楽しそうに笑う母。美空の母は、とあるメーカーで営業の仕事をしており、帰りが遅いことも少なくない。

 幼い頃に両親が離婚して以来、母は営業の仕事をこなしながら、女手ひとつで美空を育ててくれた。

 そんな母を、美空はいつも尊敬している。

「そういえば美空、何してるの?」

「これ?クッキーだよ。るい君に、お菓子を作ってくるって約束してたから」

「るい君……? ああ! 先日美空を助けてくれた、あの男の子ね」

 蛇女事件の後、連絡を受けて駆けつけた母に、警察はこう説明したのだそうだ。

 帰り際、興味本位で立ち寄った無人寺で、連続殺人事件の犯人に襲われたものの、偶然近くを通りかかったるいが警察に通報。その後駆けつけた警察により、犯人は逮捕され、美空は事なきを得た、と。

 しかし当然ながら、真実は違う。なぜなら美空は、妖怪に襲われたのだから。

 では何故、警察は彼女の母にこのような説明をしたのか。

 現代において、今や妖怪は昔の人の恐怖から産まれた空想の産物、として認知されている。

 そのいう理由から、協会は社会の混乱などを避けるため、そういう事実をあまり口外しないようにしているのだそうだ。

 とはいえ、今回の場合は既に事件として、警察が動いてしまっていた。そのため、協会が警察側と色々折り合いをつけた結果、表向きは犯人逮捕により事件は収束した、ということで収束したのだそうだ。

 けれど、多少の差異はあれど、実際にるいが命の恩人であるという事実に変わりはない。なので母にも、その辺りは念を押して話しておいた。

 その成果なのかは不明だが、直接会ったことはないものの、母もるいに対して好意的だ。

「あの日、警察から連絡を受けた時は肝を冷やしたけれど、本当に彼には感謝しないといけないわね」

「……うん」

 あの日、もしあの場にるいが居合わせていなかったら――。そう思うと、今でもゾッとすることが度々ある。

 彼は自分の不注意で、美空を巻き込んでしまった言っていた。

 しかし、美空がるいに救われたことも、また事実だ。

 これくらいのことで、お返しができるとは思っていない。もしかしたら、彼からすれば、お返しをされる程のことでもないのかもしれない。

 それでも、せめて自分にできる恩返しはしたいと、美空は思ったのだ。

「……それで? 実際のところ、どうなの?」

「……何が?」

「るい君よ! 手作りのお菓子まで作っちゃうんだから、やっぱり気になるんでしょ?」

「多分、お母さんが想像しているような感情は、全く抱いていないと思うよ。まあ、他の意味で気にはなってるけど」

 実際るいは、どこか不思議な雰囲気を持った少年だ。

 陰祷師としての、初対面での彼の印象がそのまま残っているから、そう思うのかもしれない。けれど、彼には不思議な雰囲気を持つ何かがある。そう、美空が直感したのは事実だ。

「ま、恋の始まりはある日突然だものね。その時はお母さん、精一杯応援するからね」

「だから、そんなんじゃないって!」

 楽しそうにからかう母に赤面しつつ、美空はオーブンに視線を戻す。

 るいは甘いものが好物だと言っていたけれど、果たして彼は喜んでくれるだろうか。

 そんな想いとともに、オーブンに焼かれる焼き菓子は、こんがりと綺麗な焼き色をつけていった。





 翌日、美空はお礼のお菓子を持って、るいから貰ったメモを頼りに、彼が住むという住所へ向かった。

 隣町までバスを乗り継ぎ、閑静な住宅地を進んでいくことしばらく。目的地に建っていたのは、三階建ての小さなアパートだった。どうやらその一部屋に、彼は住んでいるらしい。

 確かこの辺りには、学生寮替わりのアパートがいくつか点在していた。このアパートも、そのひとつなのだろう。

「ここかな……?」

 美空は記された住所に書かれた部屋の前で、足を止めた。メモを見比べ、間違いがないことを再度確認する。

 ちなみに、今日訪ねるということは、昨夜るいにメールで連絡を入れている。しかし、肝心な彼からの返信はきていなかった。

 ――もしかして、タイミング悪かったかな……

 果たして、このままインターホンを押しても良いのだろうか。

 そんなことを思いながら、部屋の前で躊躇する美空。すると、後方から見知らぬ女性に声をかけられた。

「あなた……。もしかして、春野美空さん?」

「え!? はい、そうですけど……」

「やっぱり! 話には聞いていたけど、中々可愛い子じゃない。るい君も、案外隅に置けないわね」

 そういって、どこか悪戯っぽく、けれども嬉しそうに女性は笑う。

 綺麗に整えられた黒い巻き髪、大人っぽいけれどどこか小悪魔的な、包容力に満ちた綺麗な人。それが、美空の抱いた彼女の第一印象だった。

「……あの、秋葉君のお知り合いですか?」

「あら、ごめんなさい。あなたとは、初対面だったわね。初めまして。私は秋葉鈴香、るい君の姉です。よろしくね、美空さん」

「は、春野美空です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 この綺麗な人がるいの姉であったとは、夢にも思わなかった。慌てて挨拶を返す美空に、鈴香はクスリと笑う。

「今日は、るい君に会いに?」

「あ、はい。お世話になったお礼に、お菓子を作ってくるって、約束していたんです。ただ、連絡がつかなくて」

「そう……」

 すると鈴香は、少し考え込む仕草をした。何か、思い当たることがあるのだろうか。

「美空さん。連絡を入れたのって、もしかして昨日の夜かしら?」

「はい、そうですけど?」

 疑問符を浮かべながら鈴香の問いに答えると、彼女は何かを察したのか「あー……」とバツの悪そうな表情を浮かべた。

「多分だけど、るい君、寝てるんじゃないかな?」

「寝てる、ですか?」

「彼、朝が苦手だから」

 そういって、気まずそうに苦笑いを浮かべる鈴香。

 現在の時刻は、午前九時を過ぎた頃。確かに朝が苦手な人であれば、この時間はまだ眠っていても不思議ではない。

 加えて鈴香の話では、るいは前回のような大仕事すると、その疲れが残るのか、早めに就寝する日がしばらく続くのだという。

「……ちなみに、いつ頃就寝されるんですか?」

「そうね。前に似たようなことがあった時は、夜九時には布団に入っていたわね」

 ……道理で連絡がつかない訳だ。

「しばらくインターホンを鳴らし続けてみて。そうすれば、そのうち起きると思うわ」

「わかりました」

 とはいったものの、寝ているところを無理矢理起こしてしまうのは、なんだか気が引ける。しかし鈴香の言動を聞く限り、これはよくあることなのだろう。

「それじゃあ、私は用事があるから、ここで失礼するわね。るい君によろしく」

「あ、はい。色々ありがとうございました」

 去りゆく鈴香を見送りながら、優しい人だなと美空は思う。

 雰囲気や感じなどは、あまりるいに似ていない印象だった。けれど、あの人は家族としてるいのことをとても大切に思っているのは、すぐにわかった。

 ――お姉さん、良い人だな

 そんなことを考えていると、唐突に鈴香が歩みを止め、こちらに振り返った。

「美空さん」

「はい!」

「これからも、るい君と仲良くしてあげてね。……彼、無意識に人と距離を置こうとするところがあるから」

「え……? あ、はい」

 言葉の意図が理解できず、美空は片言に返事を返す。その言葉に微笑むと、今度こそ鈴香は去っていった。

 あれは、どういう意味なのだろう。

 るいとは出会ってまだ二日なので、美空自身も彼について知らないことはたくさんある。

 けれども美空は、るいが鈴香の言うような、人を避けるような人物には思えなかったのだ。

 しかし、姉の鈴香がそれをあえて美空に伝えたということは――

 彼女が『無意識に』と言っていたということは、るい自身も自覚がないということなのだろう。

 彼には、何かがあるのかもしれない。

 とりあえず、今はお礼を渡すのが先だ。

 美空は気持ちを切り替えると、一呼吸の後、静かにインターホンを鳴らした。

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