いつもの焼肉



 煙が黙々と立ち込める、七輪で食べる中目黒の極狭焼肉屋、それが私たちにとっての「焼肉屋」だった。いつもは一番小さい2人用の席だが、今日は馴染みの店主に頼んで、スーツケースも置ける四人掛けの席に通してもらう。


 空港でアメリカーノを飲み終わってから、このお店まで移動すると、もう結構いい時間になっていた。お店いっぱいに広がる肉の匂いに、弁当で胃が弱ったヒロトが、恋しさと吐き気がないまぜになった顔をしているのを尻目に、お腹がぺこぺこだったミサキはテキパキと注文をする。

「タンと、ロース、カルビにご飯と、ユッケ、キムチ…あと、とりあえず、卵スープ大盛りで!」

「サンチュとナムルは?」

 店主の言葉に、ミサキは忘れてました!と声を上げた。

「それもください!」

「あのさ、お前それ全部食えんの?」

 胃もたれしそうな顔のヒロトは呆れた声で問いかけるが、ミサキはこともなげに答えた。

「え?二人なら余裕でしょ?」

「だから俺は食えないって」

「またまたぁー。はいきたよっ!」

 ミサキは店主がすぐに出しきた卵スープをヒロトに差し出した。

 

「二日酔いの時とか、『何も食いたくねー』って言いながら、だいたいここのスープ飲んでるうちに、私より多く食べてたじゃん」

「いつの話だよ」

 ヒロトがまた呆れた声を上げた。

「え、私いまだこれで二日酔い治してるんだけど…ヒロト老けたの?」

「同い年なのにジジイ扱いすんな」

 睨みながらスープをかき込んだヒロトは、そのまま肉を追加注文した。


 やっぱ頼んでんじゃん。


「ってかそれ一人で全部飲んじゃう?」

「わるい、飲みたかった?」

「一口だけ」

「はい」

 ヒロトが蓮華を差し出すのに合わせて、ミサキは何も考えないまま口を開けた。すると、少しとろみのある熱々の卵スープが勢いよくミサキの猫舌に広がった。

「あっっつ」

「口に食いもん近づけられたら、条件反射で口を開けるの、まだ治ってないのかよ。」

「会社では流石に気をつけてるよ」

「なんで気をつけるシチュエーションがあるんだよ。」

「ははは」


 先ほどのミサキの空っぽのスーツケースには触れられることがないまま、取り止めもない会話が続いた。よく遊んでたあの頃や、電話していた時の感じと何も変わらない、いつも通りの空気が心地よくて…というよりもさっきのダサい自分を掘り返されるのが居た堪れなくて、できるだけそっちに空気を持っていきたくなかった。


 その後しばらくして、一通り空腹が落ち着いたミサキは、ヒロトの好きなホルモンがじゅうじゅうと音を立てているのを眺めながら、気になることを聞いてみた。

「日本にはどれくらいいるの?」

「決めてないけど、2〜3日?…伸びても割とすぐ帰るかも」

 思いがけない言葉に、ミサキは一瞬動きを止めた。

「え、せっかく帰ってきたのに…仕事忙しいの?」


 ヒロトは、ホルモンを転がしながら、苦い顔で答える。

「仕事はパソコンがあればできるけど、家がないからなぁ」


 その言葉に違和感を覚えたミサキは、「え、実家は?」と聞くと、「無理だった」と返ってきた。

「兄貴たちが住んでるからさ、行く前に親父に聞いたら、孫が新生児のうちは泊めらんないって」

 ヒロトは頭をかきながら、俺だって姪に会いたかったんだけどなぁと呟いたが、即座にしまったと顔をこわばらせた。その様子を見てハッとしたミサキは、さっきのお返しだとばかりに悪い顔を作った。


 確かヒロトの帰国の目的は、姪っ子に会うためだったはず。

 でも、その姪っ子は新生児で会えない?


「…ねえ」

「うるせぇ、しゃべんな」

「なんで私に嘘ついたの?」

 ミサキの反撃に、ヒロトは何も応えずに苦虫を噛み潰したような顔をした。頭の回転が速い男だから、いつも言いくるめられることも多いのに、珍しい反応だ。


「……俺、七輪の中に飛び込みたい。」

「おいしく焼いて食べてあげるね」

 突然の優勢にミサキが頬杖をついてニヤニヤとしていると、ホルモンを返していたヒロトにじっと睨まれた。

「お前は、トングごと七輪に引き摺り込んで道連れにする」

「え、怖いんだけど」

 ミサキは慌てて頬杖ついていた腕をひいた。


 するとその後すぐ、どん…と目の前にどんぶりと器が置かれた。

「おい、俺の商売道具で変な心中なんかするなよ」

 頭の上から店主の大きな声が響いたので、二人は怪訝な顔をして声の主を見上げた。


「私たち、冷麺、頼んでないですよ」

「どうせこの後頼むだろ?」

「まあ、そうっすけど…俺らの注文覚えてくれてたんすか」

 この店はうまくて安く、店主の人柄も悪くない。だが、彼は顧客の好みを把握して…と言う、ホテルような接客をするタイプではない。それに、二人で来たことがあるのはもう何年も前で、当時も一人で来るようになってからも頻度もそんなに多くなかったはずだ。

 ヒロトとミサキが意外そうな顔をすると、店主は「そりゃそうだろ」と大きな声で笑った。

「お前らバラバラで店に来ても頼むもん一緒だから覚えやすいよ」

「へ?」


 店主の言葉にヒロトとミサキは顔を合わせて首を傾げた。


 私たちの食の好みは全く一緒ってわけじゃない。

 ヒロトはユッケが苦手で、ホルモンが大好き。私は、ホルモンは普通に好きだけど、ヒロトがあんまりにも美味しそうに食べるから、私はいらないからって譲って、ヒロトが苦手なユッケを独り占めするのが定番だ。

 ミサキの食べ物で一番大好きなユッケは、ヒロト以外苦手な人が周りにいないから、他の人だとこうはいかない。


 …はずだったんだけど。


「ユッケもホルモンも、一人だと自分も心置きなく食べれるって言ってガツガツ食ってさ『こいつら脳みそ同じじゃねえか』ってずっと思ってたから、流石に覚えるわ」

 …確かに私は言った覚えがある。

「そんで締めは冷麺だろ」

 今日は久しぶりにつがいで見れたから、その冷麺はサービスしといてやるよ、と言って店主はまた店の奥に戻っていった。

「つがいって言い方やめてください…!って行っちゃった…」

「言い逃げだな。それより、ミサキもホルモン好きなら食えばいいのに。」

 ちょうど残り二つとなったミノを箸で取っていたヒロトが、ミサキのタレ皿に置いた。ミサキは礼を言ってミノの味を噛み締めながら、ちょうど半分になったユッケの皿を差し出した。

「そっちも、ユッケ好きなら食べればいいのに。」

「うるさい好きじゃねぇ。ってか、あの人まじで声がでけぇな、他のお客さんがこっち見て笑ってんだけど」

「やっぱり私も七輪の道連れにして」

「二人分入るかな」

 冷麺をかき込んだ後、二人は会計をして、生ぬるい視線から逃げるように、そそくさと店を後にした。


 ミサキが一人暮らししている家は駅の先だったので、ヒロトを見送るついでにダラダラと同じ方向を歩く。道が狭くて、肩と手が当たりそうなのが少し気になりながら、二人は意識を逸らすように周りの景色に目を向けていた。


「桜、もうちょっとで咲きそうだな」

「そうだね。」

「ミサキはこの辺に住んでるんだよな。なかなかやるなぁ」

「家賃高くて死にそうだけど、仕事が遅いから近くないと帰らなくなっちゃうんだよね」

「確かに、さっきも忙しそうだったな」

「すごい顔してたの見られたもんね」

 ミサキはバツの悪そうな顔をするが、対するヒロトはどこか気の抜けた様子で「ああ」と答えただけだった。


 …どうしよう、もうすぐ駅に着く。着いてバイバイしてしまえば、この関係はまた変わらないままなんだろう。

 正直、無理矢理有給とって海外に行くよりも、久しぶりの連絡を送るよりも、今言おうとしていることを口に出す方がとてつもなく難しい。


 なんなら、こうして会えたんだから、もうそれでいいんじゃないだろうか。

 気弱な自分が言い出す勇気をどんどん削いでいく。でもそのたびに、心の中の世界的実業家に『今日ガ人生最後ノ日ダッタラ、ドウスルンデスカ、コノ意気地無シ」と罵倒してくるのだ。脳内再生された実業家の言い方が絶妙に腹が立つ。


 意を決して、話を切り出そうとミサキは口を開けたが、先に声を出したのは隣にいる男の方だった。

「今日さ、カフェに着いたら、とある人が鬼みたいな顔で携帯睨んでてさ。」

「私じゃん」


 なんでもないように返事をしながら、ミサキは内心焦っていた。


 ああ、私がもたもたしている間にさっきの会話が続いてしまった。駅に着くまでにここからどうやって切り出す?っていうか、なんの話なのよいきなり!


 すると、ヒロトは少し足を止めて、ちょっとだけ小さくなった声で続きを言った。

「仕事なんだろなって思ったんだけどさ、それにしてもすごい顔で…あの顔を時さ、すげえ嬉しかったんだ。」

「…え、なんで?」

 ワンテンポ遅れてミサキも足を止めた。いつの間にか駅に着いていたようで、泊まった場所は入り口の大きな地図のすぐそばだった。

「俺さ、昔『明日死ぬなら』って話したの覚えてる?」

「うん」

 人の声で聞き漏らすことがないように、ミサキは真っ直ぐヒロトの顔を見つめて話を聞いた。


「最近急に、それを思い出してさ、俺が明日死ぬならあの顔が見たいって思って日本に帰って来たから。」

「…社畜フェチ?」

「ちっげえよ、ぶっ飛ばすぞ」


 ミサキの茶々に呆れた顔をしたヒロトは、ため息とも深呼吸ともつかない、大きな息を吐いてから、もう一度ミサキに向き直った。

「俺、今の仕事でこの先も稼げるか、まだ全然わかんないし、日本にだってあんまいないかもしれないし、性格だって割と捻くれてると思うから、ミサキの友人としては、『俺』って男はあんまり勧めたくないんだけど…」

 ヒロトが言葉を切った一瞬、ミサキは、周りの人の声は何も聞こえないくらい、自分の鼓動がうるさいことに気がついた。


「それでもやっぱり、肉で口一杯の間抜けな顔も、眉間に皺が入った鬼みたいな顔も、全部世界一可愛く見えるくらい好きなんだ。」

 ヒロトが照れたように笑いながら、真剣に話した言葉に、ミサキも震える声を抑えて、伝えないといけない言葉を少しずつ口に出していく。

「わ、私は、しがない社畜ですし…食いしん坊で抜けてて、ビビりで助けてもらってばっかりだから、大事な友達の彼女にはあんまりおすすめじゃなくて、だから勇気が出なかったんだけど…」

 心の実業家が、今は拳を上げて応援してくれている。

「電話しなくなって何年経っても、それでも、しんどい時やいいことがあった時は、誰よりも四千キロ離れてる捻くれた男友達の声が聞きたくなってたの。だから、今日同じヒロトと同じことを思い出して、会いに行かなきゃって思ったの。」


 もう少し、頑張れ私。

「私もヒロトが好きだよ。」

 その瞬間、ミサキはヒロトに抱きしめられていた。

「良かった。まあ知ってたけど」

「の割には、抱きしめる力が強いけど…ビビってたんじゃない?」


 ミサキも、そろっと背中に手を回してふふふっと笑った

「はい、捕獲したから…もう離れれません。なんちゃって。」

 ミサキの冗談に少し動きを止めたヒロトは、低い声で困ったように囁いた。

「なにそれ…」

「え、ごめん、いい歳して流石に寒かったかな?」

「いや…なあミサキ」

「何?」

 ミサキは自分の冗談に居た堪れなくなりながら返事をした。するとヒロトが素っ頓狂なことを言い出した。

「俺の終電、多分無くなった。」

「いや、まだ十時だし。」

「あーあ、間引き運転のせいだな。困った」


 いや、ミサキ側から見えている奥の電光掲示板はまだまだ下までみっちり予定が書かれてるし、むしろ案件に余裕のあるミサキの同僚なら、そろそろ飲みにこの駅までへ来てもおかしくない時間だ。


 て言うか、ホテルはこの後取るって言ってたくせに…どこへの終電だよ。東北か?九州か?


 でも、そんなツッコミは口に出さなかった。ミサキだって離れたくない、クスリと笑ってから、素っ頓狂な主張を受け入れた。

「それは困ったね」

「俺を家まで連行してくれない?…なんつって。」

「脱獄しない?」

「…刑期終わっても出ないかも」

 ミサキはその答えに満足そうに頷いた後、少し焦った声でヒロトにお願いした。


「わかった。けど流石に一旦離してくれないかな」

「やだ、捕まえといて」

「そろそろ、うちの会社の人が通るんだよ・・・・」

 その後たっぷり一分粘った後、ミサキは解放されて、駅の反対側に向かって歩き出した。


 ただ、先ほどと違って触れそうな距離にあった手はしっかりと繋がれていた。

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悔しいけど、君が好き。 矢凪來果 @kikka8791

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