うつけの後見人はつらい

八木寅

桶狭間の戦い(所説あります)

今川義元いまがわよしもとを見下すため、織田信長は馬をがけの上へと雨のなか登らせた。


「早く戻り、迎え撃つ態勢を整えましょう」


家老の林秀貞はやしひでさだ(呼び名は新五郎)はびしょ濡れの顔をしかめた。

彼は後見人として、信長を支える立場にある。だが、必死に世話を焼くも、手を焼かせられてばかりだった。


そして今回。信長はのこのこと数千騎で出かけだしたのだ。止めるのも聞かず。


「もし負けたとて、これでわしは義元より上にいたことになる」


そう信長は、谷底で休む二万余りの今川軍を眺めて、得意げに笑った。


「一国の主である自覚をなさられよ。もう少し考えて行動を」

「いやだ」

「なっ」


「考えてなんになる。新五郎や父上みたいに眉間みけんしわができるだけではないか。父上は楽しそうな顔を見せることなく亡くなった。

儂は笑うぞ。

一度きりの人生、楽しもうぞ」


信長は黒曇の下、太陽のごとき眩しい笑顔で拳を突き上げた。


「応」


と吠え返したのは、秀貞ではない。信長の幼馴染みの池田恒興いけだつねおきや小姓の前田利家まえだとしいえ馬廻衆うままわりしゅう

彼らは信長を慕い、同じ志を持っていた。秀貞が阻止できないのは、こやつらのせいもあった。こやつらが信長を持ち上げるゆえに、手に負えなくなっている。


秀貞にとって信長はうつけすなち馬鹿者だった。よって、彼にとってその取り巻き共もうつけだった。


そのうつけ者共が雄たけびを上げたせいで、下の谷が騒がしくなりだした。


「早く戻りましょうぞ」

「新五郎。皺、できてるぞ」


うつけ者共に咎める顔を向けた秀貞を、信長はおちょくった。

秀貞は怒りに震えた。


「くっ。だれのせいで」

「だから笑えって」


堪忍袋の緒が切れそうになった。

そのとき。


「お笑いなされ」「お笑いなされ」


うつけ者共が秀貞の脇の下に手をいれ、くすぐってきた。

への字の口から吐息が漏れる。信長への監視の目がそれた。

その瞬間。


「やーい、義元。儂のほうがあんたより上だぞ。悔しかったらここまでおいでん」


なんと。信長は崖のきわまで馬を動かし、今川勢に向かって大音声だいおんじょうを発したのだ。声はとてもよく谷に反響した。叫んだあとにはなにがおかしいのやら、うつけは大笑いしだしている。

それにつられて、秀貞をくすぐっていたうつけ者共も信長の隣に並んではやしし立てだし、笑いだした。


「おい!」


と怒鳴ったのは、今川の総大将。秀貞も𠮟りつけようとしたが、一歩遅かった。秀貞は額に手を置き、肩を落とした。雷鳴が轟く。


「我は東海一の弓取り、今川義元なるぞ」


義元は弓を引いた。力強く放たれた矢は雨を切り裂き、信長が乗った馬の足のすぐ手前に刺さった。その距離わずかこぶし一つぶんほど。

馬は驚き、前足を上げ――、斜面を駆けだした。


「うっひょーい。こりゃ凄い凄い」


信長は面白がり、歓声を上げながら馬の腹を蹴ってどんどん下りだした。

それを見て、うつけ者共も馬を谷へと走らせだした。

待て待て、と慌てる秀貞の声は巻き起こった馬蹄の音と砂煙にかき消され、織田軍の馬と兵は興奮して今川軍へと流れこんだ。



かくして。

今川義元は信長の馬廻衆に討ち取られ、織田軍が勝った。

雨に打たれる若武者たちの顔は実に晴れやかであった。


「皆の衆、よくぞやった。楽しい世をつくって行こうぞ」


わはは、と信長が笑うと、周囲の者も楽しそうに笑った。皆の目は、雨に打たれ緑を濃くする草木のように生き生きと輝いていた。



いくさは独りでは成り立たない。されど、無理やり兵を集めたところで、士気に欠ける。

その点、信長には皆を惹きつける魅力があり、士気はいつも高かった。


……うつけに見えるが、主導者としての素質があるのだろう。新しい価値観のこの頭領は織田家を未知なる地へ導いて行くかもしれない。


秀貞も笑いの輪にはいった。



【帰って尾張】

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