カイブツさん

紫鳥コウ

 催眠術――というものを試すといわれて、ぼくは、神社の裏手にある切り株の上に座らされた。夏の日差しが斑に落ちている松林には、探せばいくらでも蝉の抜け殻が落ちていた。彼女は背伸びをして、ぼくたちの近くにある樹の幹にへばりついた、ぱっくりと割れた蝉の抜け殻をつまむと、それをポケットにいれた。


 そして彼女は、思いついた単語を並べて、でたらめな文法で組み立てた呪文をぼくの耳元で囁き、汗でべったりとした背中を何度もさすりはじめた。一通り呪文を唱え終えると次は、「あなたは、カイブツさん、あなたは、カイブツさんなの……」と、繰り返しはじめた。真夏日の午の暑さではっきりとしなくなってきた意識に追い打ちをかけるかのように。


 ぼくはこの悪戯を終えるためには、「カイブツさん」になりきらなければならないのだと悟った。十歳にしてぼくは、永久的に奴隷にされることを逃れるためには、一時的な隷属を受け入れるしかない、ということを覚えた。


 彼女はポケットから先ほど捕らえた蝉の抜け殻を取り出すと、親指と人さし指でつまんで、ぼくの目と鼻の先に差しだした。そして、「これが、あんたのエサよ」と言い、いまだ生命が宿っていたころの原型を留めているそれを、食すように命令してきた。もちろん、彼女の強要を拒むことはできなかった。


 彼女はぼくに対して、たびたびこうしたいじめを行ってきた。それも、ふたりきりのときに、誰にも見られないところで。性的な言葉を連呼させられたり、クラスメイトの悪口を披瀝するよう脅迫されたりした。とくに、女子のクラスメイトに対しては、容姿への侮辱を引き出すまで、彼女は容赦がなかった。


 ゆえにぼくは、この蝉の抜け殻を食すことへの忌避感はありながらも、彼女への抵抗ということに関しては、なんら不能でいた。


 彼女の二本の指に挟まれた蝉の抜け殻を、両手を皿にして受けとろうとすると、「あなたは、カイブツさんなの、手なんて使えないの」と、ピシャリと咎められた。彼女は、汗で濡れたぼくの髪をむしゃむしゃと撫でた。そして、ぼくの唇にその抜け殻をあてて、「さあ、食べなさい」と、蝉時雨のなかでもはっきりと聞こえる声で命じてきた。


 ぼくは唇でそれを受けとろうとしたがうまくいかず、前歯で挟もうとしたが彼女の指にあたってしまい、すぐに唇をすぼめて撤退した。が、そのとき、唇の裏の粘液が彼女の指をねっとりと湿らせた感覚に、不思議と全身が痺れた。


 ほかに方法が思いつかず、無様なさまを晒すことに羞恥を覚えながらも、暑さに喘ぐ犬のように舌をのばした。彼女はそこに抜け殻を置こうとしたが、バランスを失して土の上に落としてしまった。しかし彼女は付着した微細な土を取ることなどなく、ぼくの顎を反対の手で押し上げて、無理やり口のなかに抜け殻を入れこんだ。


 目の前で見ていたあの生命体の模型を想像しないようにしたが、数回奥歯で噛むくらいが精一杯だった。耳の裏から脳へと突き抜けるように咀嚼音が響いた。土の味だけが口の中に広がっていき、すぐに渇いてしまう唾液のせいで戻しそうになりながらも、なんとか喉のほうへと追いやった。


 いつまでも、あの抜け殻が、食道にへばりついているような感覚に不快感と不安を覚えながらも、ぼくは、自分のことを本当に「カイブツさん」だと思いこんでいることに気づいた。


 だから、彼女の親指と人さし指を綺麗に掃除しなければならないという次なる命令も従順に受け入れ、それぞれの指を歯でかまないように丁寧にしゃぶっていった。そして同時に、身体の下の方でなにかが腫れ上がるような違和感を覚えていた。

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