恋は幾つになっても良いものだ

春秋 頼

第1話 愛情表現の大切さ

 私は高校の頃、登校拒否児だった。知り合いの英語学校と契約を交わしている人から何もしてないなら、イギリスに行ってみないか? と言われた。季節は冬だった。

その年の夏に、本当は私が行くはずだった。場所は違うが、英語学校に私の変わりに弟が行った。弟は非常に感受性豊かな人だ。彼は変わりものだが、芸術性のセンスは非常に良い才能を持っていた。


そんな弟が、イギリスから帰ってきて、非常に良かったと、普段は口にしない事を言っていた。絶賛していた。そして、同じ年の冬、私は何が良かったのかを知る為に、行く事にした。弟のように、集団で行くのではなく、行きだけは、その人と二人で行った。その人の仕事の関係で、最初はフランスに、一週間ほど滞在した。今はどうか知らないが当時、フランスでは英語は通じなかった。でも意味は無い。私は英語が苦手だった。


 露店のような店で、フランスパンに肉と野菜を入れた昼食を、買って食べていた。私は何処から見ても日本人だが、何故か昔から、道などを尋ねられる。ジェスチャーを交えて、分からない事を告げて、私は逃げるように歩き出した。地図を頼りに、ルーブル美術館に行った。時期外れな為か、人も少なかった。暫く、色々見て、私は外に出た。


地図を頼りに行っていたから、気づけなかった。道に出ると、長く何処までも続く、銀杏並木の道が真っすぐ見えた。私は日本の絶景などは見た事はあったが、スケールの違いに感動した。ワゴン車のオープンカフェがあり、2,3の机と椅子があった。

私は、紅茶を注文して、その銀杏が季節の終わりを告げるように、最後に舞っているように感じた。子供の頃は嫌いだった銀杏を、それからは食べるようになった。


 一週間後、船でイギリスに向かった。船の中で入国審査があり、日本人である為、難なく入国を済ませると、イギリスの海沿いの南の町へ行った。何もかもが初体験であった。私は不安だった。手続きを済ませて、ホームステイ先に案内され、数日後にその人は日本へ帰って行った。ホームステイ先は母子家庭で、昼食のサンドイッチを受け取り、私は一番下のクラスに入った。英語を教える学校である為、英語圏外の人ばかりだった。私のクラスにはオランダ、フランス、サウジアラビアの人がいた。


そしてとても綺麗な先生だった。私は他の人とは違い、目的も無いまま外国へ行った。家と学校を往復する日が続いた。ある日、散歩をして帰ったら怒られた。そこで初めて知った。日本のような安全な国は無いのだと。確かに、散歩をして帰った時に見た街並みにある店々は日本とは全く違った。電化製品の店の窓ガラスには鉄格子がついていて、物を見せるというよりも、間から物を見る感じだった。


私はその家に一カ月ほどいて、他の家に移った。食生活が野菜中心過ぎた為であって、親切な人達だった。二カ所目の家は、おばあちゃんが一人で暮らしていて、同じ学校に通うイタリア人の女性もホームステイしていた。それからは、学校に行って帰って、その後はたまり場であるバーに行くようになった。バーにはその学校に通う、生徒がたくさんいた。当時はまだ日本では全く無名であった、ミスタービーンもやっていた。たまに教材として見ていた。


ある日、私はサッカーに誘われて一緒に皆で、学校にある広いサッカー場で皆と遊んだ。遊んで疲れて、緑の芝生の上に、私は仰向けになって寝転んだ。

私の視界には————空しか無かった。視線をずらしても、青空で埋め尽くされていた。私はその時、初めて世界の広さを感じた。自分の中で何かが変わった。


名残惜しかったが、人との出会いに、別れはつきものだ。そして帰国の日が来て、私は日本に戻ってきた。しかし、私の心はまだイギリスにあった。帰ってきて友人たちに会った。一人の友達が、「痩せたらカッコいいんだ」と言った。そのおかげもあって彼女は出来た。今思うと、もっとちゃんと大事にするべきだったと、今思い出しても後悔は尽きない。


 私は帰国して、叔父に会いに行った。叔父は毎年、一年のうち3,4カ月は海外で過ごす。そして会いに行く度に、叔母さんを連れてきて、「どうだ? 可愛いだろ」と言う、それは会う度に言う。私は最初の頃は恥ずかしかったが、それが如何に大切な事なのか知った。だから私は、それから付き合う女性には、愛を毎日伝えた。一緒に料理をしたり、スキンシップも、同棲している時は、朝別れる時には必ずキスをして過ごした。私は叔父のいい影響を受けて育った。数年前、電話した。毎回だが数年ぶりに、電話ごしで叔父は「覚えていてくれたのか」と泣きながら言う。私は「当たり前だ」と答えながら泣くのを我慢する。そして合えば、必ず叔母さんを連れてきて、自慢する。それがどれほど大切な事なのかはもう分かっている。私は微笑ましく叔父と叔母を見る。


私は特殊な家柄で育った。それだけに愛を知らずに育った。英才教育を小さい頃から叩き込まれた。休みの日も、放課後も無い。数カ所の塾と、習い事の毎日だった。

日曜日は朝から電車に乗って、大人に囲まれて夜、家に帰っていた。ある日、いつも通り私は電車で帰っていた。たまたま前に席に座っていたおじさんが「僕? ここに座りなさい」と言われた。しかし私は「お気持ちだけ頂きます。ありがとうございます」と言った。私の駅は終点だったが、その席に座る人は誰もいないまま駅についた。テーブルマナーでソースを机に一滴垂らしただけで、父親は私の顔面を殴った。その傷は今での残っている。ソース以上に血がテーブルに散った。


 母親は泳げない癖に、私と弟をいきなり最上級クラスに入れた。溺れて死にかけた。ある塾では、一点につき、一発太ももを太い定規で叩かれた。80点なら20発叩かれた。指ほど太い定規が、折れた事もあった。門限の5時を少し遅れて帰った時には、家の前にあるアパートの人に、危ないからうちに来なさいと、言われるほどその時は五時間ほど外の木の傍で、一人で座り込んでいた。


それからは何かある度に、拷問のような部屋に何時間も入れられた。コンクリートむき出しの一畳あるかないかくらいの、電気も勿論ない。3メートル程の高さにある、月明りの光しかない暗くて寒い部屋に、入れられた。ある日、同じ塾に通っていた、私と同じ小学生がいきなり来なくなった。親に聞いたら辞めたみたいだと言われた。

それから一年がたち、弟もその塾に来なくなった。


 私は同じように英才教育を受けている、体裁だけしかない友人から聞いた。

兄は一年前に自分の部屋で首を吊って死んだと聞かされた。そして丸一年後、弟も全く同じように首を吊って自殺した。私の世界に、愛は存在しない。死ぬか壊れるかのどちらかしかいない。私の実弟は壊れた。私にしか相談出来ないと言っていた友人も壊れた。彼の両親は子供の頃離婚した。そして跡継ぎとして長男は残った。大手のスーパーの跡継ぎの為に残されたが、私たちの世界では道理など通用しない。彼は携帯を持つ事も許されず、私は悪影響を与えると言われ、彼は真の孤独の世界に入っていった。私が地元に戻った時、同級生の多くから、あいつが狂ったから会ってほしいと頼まれ、私は次の日会いに行った。彼はもう昔の彼は消えていた。敬語で話し、明らかにおかしくなっていた。私は何があったのか独自のルートで調べた。


彼は跡継ぎの為だけに生まれ、生きて来たのに、孤独に耐えられず壊れた。その為跡継ぎも外された。誰も何も彼の事を知らない。私だけが知っている真実。私は次の日の昼休憩に合わせて、歩いて会いに行った。行く途中にある、公園の石のベンチに座って、御飯を独りで食べていた。背も高く、体格も良かった彼の後姿は、哀愁に満ちていた。私は多数の相談に乗ってきて、解決までの道を見つけてきた。しかし、彼の後ろ姿だけで、私ではもう、助ける事は出来ない事を悟った。私は彼にかける言葉も見つからず、そのまま声もかけられないまま帰った。


私も実は、父親と戦った。彼らは皆、世間では認められている存在だ。日本一の大きな会社や日本で1,2を争うほどの外科医もいる。戦艦大和の設計者も、山本五十六が通っていた今でもある料亭など様々な世界の有力者が、私の一族であり、私の父親は、その中で一番の権力があった。銀行にすら行った事は無く、相続の為どうしても行かなくてはならないので、私が付き添いで行った。父は言った。「銀行は来る者だ」キャッシュカードの存在も知ったのは、死ぬ一年ほど前だった。

通常では許されない手続きも、息子さんが来てくれたらいいです。と言うほど文句ばかり言っていた。


 まだまだ話してない事はあるが、ここから見て欲しい。私が再び立ち直れたのは、多くの犠牲者たちと叔父がいたから、助かった。叔父は遠縁なのに、私を愛してくれた。電話しただけで涙が出る事は、私も叔父の時だけだ。私は親から愛される事は無かった。その証拠もある。まず遺産分配は無かった。そしておそらくは日本の医師で唯一だろうが、医師会保険も自分が癌だと知って、解約した。医師会保険は絶対に払い続ける保険で6000万おりる。だから掛け捨てでも医者なら皆入っている保険で、借金してでも払い続ける保険である。家にはお金はあったが、私は戦い続けていた。その封じ手として、恐らく解約したものだと思われる。


私は愛も自分も、一度全てを失った。しかし、小学生にして首吊り自殺した兄弟や、跡継ぎの為に残ったのに、今も孤独で苦しみさえ忘れた彼らの事を思うと、私しかもう残っていない。私は哲学の観点から愛を世界に伝えたいと思っている。


町で見かける仲の良さそうな男女を見ると、私は幸せな気持ちになれる。心の底からそう思える。それは私が底の無い闇の中に、ずっと落ち続けていたからこそ、より愛や恋に対する気持ちが理解できる。そしてそれは、薄い陶器のように脆いものでありながら、運命で繋がるほどの相手と、出逢うことが出来れば、それは誰にも壊せないものとなるだろう。そして心と心で繋がった二人の愛は、誰にも断つ事の出来ない、本物の愛へと成長していくだろう。愛は目で見る事は出来ないが、確かに存在するものだ。そしてそれは目に見えるお金よりも、価値のあるものだと、私は思う。



 私は実に醜い親に育てられた。だからこそ人より余計に思ってしまうのだろうとも考えた。考えたが、愛に勝るものは無い。目に見えないだけで、確かに存在するものは数少ない。恋をし、愛を知り、そして二人の真実の愛によって、新たな芽吹きを感じる気持ちは、表現出来ない程の幸せに、満たされることだろう。待ち続けても愛は訪れる事はあるが、チャンスがあれば、自ら動くのが良いだろう。チャンスは少ない。だからこそ、それを運命と思って、気持ちを伝える時が来たら、心の中で育った気持ちを伝える事が大切だと思う。勇気も必要だ。仮にダメでも気持ちを伝えて、大切な存在なら友人として、それからは助けてあげるのも、愛と言えるだろう。愛はシャボン玉のように、作られては消えていく。


愛は、はかない、だからこそ美しさがある。そしてそれを守る為に、愛を日々伝える。私は叔父を見て、実に幸せを感じる。叔母は病気だが、数年前、叔父にあった時、若く感じた。今は叔父が全てしている。料理も覚えて、洗濯もして、100均の良い商品を話したりしていた。叔母が病気になっても、いつもの台詞を叔父は私に言った。「可愛いだろ?」私は笑みを浮かべて頷いた。日本には無い文化だが、叔父と叔母を見ていて、その大切さを実感する。だから私も相手がいる時は実践している。


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