第二話 逃げ

 実を言えば、僕はここには来ないつもりだった。


 でもなんというのだろうか。一人が怖くなったのだ。


 僕は僕を知らない。自分が自分を知らないのに、他の人が知るわけない。


 今は親でさえも怖い。


 いずれ僕のことを忘れられてしまいそうだから。


 だから夜10時。約束の時間に僕は約束の場所に立っている。


 正直誰でも良かった。今は僕を知ってくれている人がいるだけで。


 その点、彼女は適役だったのかもしれない。


 もし約束の時間になって来なくても、まだ初めて会っただけの関係だ。


 裏切られようが何されても特にこれと言った感情は無い。


 しばらく待っていたが、約束の時間が五分過ぎたぎたとき、僕は来ないと確信した。


「遊ばれてただけか」


 奇妙な仮面をつけて目を引き、素顔を見せなかった。


 それだけで十分怪しいのに、僕はのこのこと来てしまった。


 なんだか無性に馬鹿らしくなり、来た道を引き返そうとした。


「お、何だ来てたんだ」


 反射的に振り返ると、狐面の例の女がそこに立っていた。


「よっ」


「来ないかと思いましたよ」


「いやあ悪い悪い、


「良さげ?」


「ああ、ついて来て」


 僕は一言も話さずに彼女に付いて行った。


 話す内容が無かったというのもあるだろうが、この人がいるのにも関わらず、静寂な夜の雰囲気に酔っていたのかもしれない。


 しばらく歩き、突然女はピタッと足を止めた。


「もうすぐ来る」


「来るって何がですか?」


あやかし


 直後、女の頭上に亀裂が走った。


 空間にできたそれは、徐々に拡大していく。


「な、なんだよ、あれ!?」


「だから言ってるじゃん。妖だよ」


「だから妖ってな……」


 僕が言葉を言い終わる前に、その亀裂から何かが這い出てきた。


 目玉がおびただしいほどあり、全身は黒く、巨大な蛙のような見た目をしていた。


「う、あ、ああ」


 僕は衝撃のあまり声が出なくなっていた。


 脳の回転が止まり、足に意識が伝達しなくなる。


「さてと、ほい」


 女は、僕に木刀投げつけた。


 僕はそれを受け取るものの、その意図がよく分からないでいた。


「じゃ、頑張れ」


「え?」


 女は驚異的な身体能力で、住宅の天井部分まで跳躍した。


 それだけでも僕の脳は処理落ちしそうなものだが、今は優先事項が違う。


 蛙のような化け物、妖と呼ばれているそいつは、周りの電柱や物を破壊しながらこちらに向かって来ていた。


「うわああああああ!」


 ようやく状況を理解し始めたころ、僕は一目散に走っていた。


 逃げろ、逃げろ、逃げろ!


 そんなことを考えながら。


 だがそんな思いもむなしく、妖との距離は徐々に縮まっていく。


 それに僕の体力も限界だった。


 すると不運にも、交差点に帰宅途中のサラリーマンらしき男が一人歩いていた。


 こちらに気付く様子も無く、鼻歌を歌っていた。


 僕はその男に声をかけようとした。逃げろ、と。


 でも同時に思ってしまった。


 ここで声をかけなければ、あの男は襲われてしまうだろう。


 でもその間、僕が逃げる時間稼ぎになってくれるかもしれない。


 そんな思いが、いつしか僕の心の隙となっていた。


 だからだ、選択を間違えたのは。


 僕は男に声をかけず、すぐ右の小さな路地に入った。


 その数秒後。


「ん?なんだ……う、いだあああああああああああ! だ、誰か、助けでぐれえええ!」


 男の悲痛な声がこだました。


 だから僕は耳をふさぐことにした。


 何も聞こえなくて済むよう。


 目を閉じる。


 何も見たくないから。


「そうやって逃げて何が残る?」


 いつの間にか僕の傍には狐面の女が立っていた。


「そうやって逃げるから孤独なんだろ」


「だって仕方無いじゃないか! あんな化け物、僕にはどうすることもできないよ!」


「だから逃げた?」


 何なんだよ。


 逃げて何が悪いんだよ。


 急に僕を連れ出して、いきなり化け物と戦えなんて無理に決まってる。


 それに何が何だかまだ理解しきれてない。


 理解できない物に恐怖して何がおかしいんだよ。


 そうだおかしくない。だから仕方ないんだ。


 そう、仕方ない。


「君はさあ、他人が死んだら悲しいかい?」


「別に僕と関りが無い人が死んでも悲しくなんかないですよ」


「じゃあ私が死んだら悲しい?」


「……あなたもほとんど他人だ」


 僕は声を絞り出すように言い放った。


 女はしばらく何も言わなかったが、やがて僕の手を取った。


 そして無言のまま交差点へと僕を引っ張りだした。


 そこには、血まみれの男。


 そして大きな口から血を滴らせている妖がいた。


「君は知らないだけだよ、人を。君自身何をしたいか、とか。だから教えてあげる、自分の素の心を」


 彼女は手ぶらで妖に向かって行った。


「何言って」


 すると彼女の体が、妖の手によって弾き飛ばされた。


 まるでゴム玉のように壁に叩きつけられ、脱力しうつぶせになった。


 叩きつけられた彼女は、僕の足元で倒れていた。


 あまりのあっけなさに、またしても僕に衝撃を与えた。


「な、にして、早く、逃げ、ないと」


 僕は彼女の体を起こしてみる。


 すると、彼女の仮面が割れ、素顔が見えていた。


 短い黒髪に、整った思ったよりも幼い顔。


 息はあるが、途切れ途切れだ。


 何をしたいか。


 僕は生きてると言っていいのだろうか。


 他の人を身代わりにして生きたって、別に攻められはしない。


 でもそんな考え方だからこうなったのか。


 これは罰だ。


「そうだ、僕は今まで生きて来たんじゃない、死んでなかっただけだ」


 何がしたいか。


「僕は、僕が生きてるって誇れるようにしたい」


 ならどうするべきか。


 答えなんてもうとっくに出てるじゃないか。


 腕も足も震える。でも生きたい。死にたくない。


 地面に転がっている木刀を握りなおし、僕は化け物を強く睨みつけた。

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