東京脱出のためのテイクアウト弁当

名瀬口にぼし

第1話 鶏とトマトのエスカベッシュ

 二十一世紀末。

 災害大国である日本では、ほぼ完全に近い災害予測技術が完成していた。


「続いては、発生予定日まであと四ヶ月となった関東大破局噴火のニュースです」


 だから床に置いた電子端末から流れる公共のWEBラジオも、まだ起きていない未来の災害のことを教えてくれる。


「じゃあ、もうそろそろ行くか」


 出発前に何をするわけでもなく時間をつぶしていた陽太はその何ヶ月も同じ言葉を繰り返している防災チャンネルの再生を止め、端末をリュックサックのポケットにしまって立ち上がった。


 紛争に原発事故、異常気象に大不況。二十一世紀も様々な不幸なことがあったが、世界は滅亡しなかった。

 しかし東京は、これから起きる箱根山の大破局噴火によって滅亡する。

 だから陽太は新卒で就職してから八年勤めた東京の会社の職を失い、借りていたアパートを引き払って地元の岐阜に帰るのだ。


「こうなると結婚とか家庭とか、逆に何もなくて良かったかもな」


 特に将来を考えた相手がいたことはないのだが、陽太はもう二度と見ることはないであろう自室を前に、自分の人生を前向きに振り返った。

 家具や物を実家に送るなり処分するなりした部屋は、最初に内見で見たときのような見知らぬ場所に戻っている。


(まあ家賃の割にわりと広くて、結構気に入っていた物件だった)


 陽太は軽く名残を惜しみながら、リュックサックを背負って部屋を出た。

 今の東京は滅亡を控えているから、次の住民もいないのだと思うと少々悲しかった。


 ◆


 外は風が涼しい八月の夕暮れで、沈みかけた太陽は赤く、都心から外れた街は濃い影の中にあった。


 そのまま近くの不動産会社に部屋の鍵を返却した陽太は、品川に向かうために地下鉄の駅を目指した。品川で新幹線に乗って名古屋まで行き、名鉄に乗り換えて岐阜に帰るのだ。

 幸いなことに、岐阜の有効求人倍率は全国でもトップクラスに高い部類に入る。


(新幹線の中でなんか食べようと思っていたが、どうしようか。別にコンビニでもいいが……)


 けちな性分で一人暮らしをしていた陽太は食事のほとんどを自炊で済ませており、コンビニでの買い食いもそれなりに特別なものであった。


 コンビニならどこがいいかと考えなら、通勤でも使っていた地下鉄の駅までの道を歩いていると、レンガ調の外壁がおしゃれな一軒のイタリア料理屋が目に入った。数年前にオープンしたときから毎日見てはいるのだが、一度も入ったことはない店だった。

 しかしテイクアウトのメニューがあることは、ポストに入っていたチラシで知っていた。


 陽太は薄闇の中で目を凝らし、その店先に置かれたこれまた手のこんだチョークアートでメニューが書かれた黒板を見る。

 手書きの白文字で紹介されている料理名は、聞いたこともないものもあった。


(持ち帰りの弁当が1000円から……。ちょっと高いが、今日だけならまあいいか)


 東京最後の弁当として少し奮発することにした陽太は、思い切ってその名前が読めないイタリア料理屋に入店した。


 ガラス戸に一瞬、ネルシャツにカーゴパンツを着たあかぬけない中肉中背の自分が映る。その姿は洗練された店構えに似合っていなかったが、陽太は気にせずに中に進んだ。


(えっと、ここで食べるわけじゃないから注文は多分レジだよな)


 間接照明でオレンジ色に照らされたやや薄暗い店内には、手前にテーブル席、奥にバーカウンターがあり、レジはカウンターにあるようだった。

 思ったよりも席数も多く、客の入りも悪くはない。


「いらっしゃいませ。お一人様でのご来店ですか」


 店内を見回していると、若い女性の店員が明るい声で陽太を迎えた。

 女性は清潔感のある笑顔が好印象で、大学生くらいの年齢に見える。


「はい。あの、弁当で持って帰りたいんですけど」


「テイクアウトでございますね。メニューは、こちらからお選びください」


 陽太が希望を伝えると、女性はカウンターからメニュー表を手にとって渡す。

 硬めのクリアファイルに入ったメニュー表には、ミラノ風カツレツや白身魚のフリットなどのイタリアっぽいおかずの名前が並んでいる。一品選んだおかずに野菜の煮物と白米がつくのが、持ち帰り用の弁当の内容らしい。


「このエスカベッシュっていうのは、何なんですか?」


 メニューの中にあるまったく名前の知らない料理が気になり、陽太は尋ねた。


「エスカベッシュは南蛮漬けとか、マリネのようなものですね」


 店員の女性はにこやかに、質問に受け答える。


「じゃあこの、鶏とトマトのエスカベッシュでお願いします」


 女性がしてくれた説明で理解したわけではないが、ここで食べなければ一生その料理を食べることはないだろうと思い、陽太は注文した。


「かしこまりました。エスカベッシュのテイクアウトがお一つですね」


 女性が大きな声で返事をすると、後ろのキッチンにいたシェフの男性がプラスチックの容器を出しててきぱきと料理の盛りつけを始める。


 中身が気になって見てみると、シェフが載せているのは潰したトマトのソースにしっとりと浸ったおおぶりな鶏の唐揚げだった。


(エスカベッシュが何なのかはわからないが、ベースが鶏の唐揚げなのは嬉しいな)


 思いがけず親しみのある献立であった喜びに、陽太は顔をほころばせて財布から代金を出した。


 シェフの手際は非常によく、あっという間に容器は白米やおかずできっちりと埋まる。


 いつの間にか割り箸やおてふきの用意を済ませていた女性の店員は、その容器に蓋をかぶせて輪ゴムで止めた。

 そして代金の載ったトレイを下げて、商品をビニール袋に入れて陽太に渡す。


「1100円ちょうど、いただきます。保冷剤を入れてありますが、早めにお召し上がりください」


「はい。わかりました」


 弁当を受け取り、陽太は店を出た。


 東京脱出のためのテイクアウト弁当は、ずしりと食べごたえがありそうな重さだった。


(あの店員さんもシェフも、そのうち東京を去るんだろうな)


 なかなか繁盛していそうな店に見えたので、勿体のないことだと陽太は思った。しかし四ヶ月後には大破局噴火とやらが来るのだから仕方がない。


(それでも今日はまだ、営業していて良かった)


 陽太が歩く地下鉄の駅に向かう道には、ちらほらともう閉店している店もあった。


 すべてが終わる日まで、あと四ヶ月。


 滅亡を控えた東京からは、人やモノの姿が徐々に消えつつある。


 しゃれた名前のついた唐揚げの弁当を手に地下鉄に乗る陽太も、その立ち去る大勢の人間の一人なのだ。

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東京脱出のためのテイクアウト弁当 名瀬口にぼし @poemin

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