社用車がミッション車なので運転できるか不安です

 一時二十分。お昼休みも終わって、午後のエンジンも順調にうなりを上げ、右・左・前進! と働いていたオフィスに社長から電話が入る。 


「誰か手の空いたやついる? スコヤカ工業まで車を取りに来てほしいんだわ」

 松下まつした社長はスコヤカ工業の社長の息子さんとどこかへ出かけるらしい。車に同乗させてもらうので乗ってきた社用車が要らなくなったわけだ。

「承知しました。誰かいると思います。引き取りに伺いますね」私は電話を切った。


「もーぅ、スコヤカ工業に車を取りに行くだけ? こっちは誰も手なんか空いてないっての」私と同じ部署の須藤すどう君が文句を言う。

「私がちゃちゃっと行ってくるよ」みんな忙しそうだったので、私が名乗りを上げた。「でも、誰かに送ってもらわなきゃだわね」

「じゃあ、営業の人に頼んでみよう」こちらも同じ部署の後輩、山本やまもと君。「津村つむらさん、免許証忘れないようにね」

「ラジャー」


 営業課の深見ふかみ課長がスコヤカ工業まで送ってくれることになった。スコヤカは市内にありそう遠くないところだし、たまにはこうしてオフィスを出るのもいい気分転換になる。深見課長と世間話を交わしていたらすぐに到着。深見課長は「じゃ、よろしくね」と言って帰っていった。


 私は駐車場を見回したが、あれれ、おやおや? という感じになる。スコヤカ工業の社用車しかないような気が……。来客用というプレートが出ている駐車スペースには古めかしいシルバーの軽自動車が一台停まっているだけである。

 私は事務所の自動ドアをくぐる。

「すみません、チクフォーマルマル株式会社の者です。車を取りに来たのですが……」

「ああ、松下さんとこの。来客用の駐車スペースに停まってるだろ? どうぞ持って帰って」にこやかな中年男性から厳めしい勾玉のキーホルダーがついた鍵を渡される。


 あいつが、松下社長が乗ってきたやつだったか。


 再び駐車場へ。随分古い型のダイハツ・ミラのようだ。こんな社用車があったなんて、全然知らなかったぞ。

 運転席のドアを開けて、私は飛び上がりそうになる。運転席と助手席の間の足下に、見慣れぬレバーが──もしや、これってミッション車!

「オーマイガッ」でも「うっそー」でもなんでもよかったが、とにかく心の中は叫ばずにいられなかった。免許はある、免許は。しかしそうならそうと言ってもらわないと。私がAT車限定免許だったらどうするの? と思うし、こっちはミッション車なんて子どもが学生生活終わらせられそうなほどの年月乗っていないんだぞ?


 私は頭の中の記憶を掘り起こした。自動車学校で乗ってから、その後、どこで乗った? 兄の車は土禁(土足厳禁)だったからめんどくさくて乗らなかったし、父の軽トラックもエアコンが壊れていたから乗らなかったし、彼氏の車──あれはアクセラだったっけ?──もう思い出すのに骨が折れるのでやめとこう。

 

 今からこれに乗って会社に帰るのよ! 大丈夫? 大丈夫?──私は自分の中の〈のほほん〉としている自分と〈心配症〉の自分に問うた。そして〈やるときはやる〉自分がどこかにいるのなら今すぐ連れて来い、とリクエストを出す。捜索願まで出さなければならないかもしれない。

 スコヤカ工業の駐車場は広く、幸い誰もいなかったので、私はエンジンをかけると慣れるためにしばらくぐるぐる回ってみた。エンジンをかけるときに一回エンストしてしまい、ハクセキレイが怯えて逃げまくってはいたものの、なんとなく行けそうだった。


 私は「ふー」と息を大きく吐くと、一旦エンジンをストップさせる。


 インターネットで「ミッション車の運転のコツ」の動画を見ておさらいしなくて大丈夫だろうか。ふと携帯電話を取りだすと、須藤君から着信が入っていた。かけてみる。


「須藤君」

「あっ、ツムっち。今、運転中?」

「なわけないでしょう。危ないし警察に止められるわよ。今から帰ろうと思ってるんだけど……」

「こっち今、ちょっと大変でさ……。ツムっち、矢野やのさん(女性)の血液型、何型か知ってる?」

「血液型?」私は突然の質問に驚く。「それって……もしかして矢野さん、ケガでもしたの?」

「いやいや、そうじゃないんだけど。さっきね、会社のトイレットペーパーが切れてることに気づいて、次に〈アス・トドック〉から届けられるのが来週だから、それまで近くの店で買って使っておこうってことになったんだけど、管理課に新しく入った手塚てづかさんっているじゃん?」

「ああ、あの九十九つくも君と同い年の女の子(二十歳)ね?」

「そう。その子がおつかい頼まれてね、12ロール六百円のやつを買ってきたらしくて、それで経理のせきさんは怒りだすし、矢野さんもパニックになっちゃったんだよ」

「うわっ、そりゃあ誰でもびっくりするでしょ。いくらなんでも会社で六百円のトイレットペーパーはね。きっと無駄に色がついてたり香りがついてたり異常にやわらかかったりするんでしょうねえ……最高、それ使えるんだ! って、言ってる場合じゃなかったわ。でも、それと血液型がどう関係あるの?」

「矢野さん、朝からついてなかったらしくって、その後もめまいがするって言って、すごく気分が悪そうでさ。で、課長が病院へ行ってきたらって、早退させたんだよ。それでね、山本君が、今朝の血液型占いですっごい運が悪い血液型があったって言ってたから、矢野さんがそうだったのかなって」

「ええええ……会社を数十分離れただけでこんなに話についていけないだなんて。あのねぇ、血液型占いは関係ないと思うけど。ちなみに矢野さんはA型よ」

「そっか、A型か」

「ねえ、もしかして、運が悪かったのってO型? 私、O型なんだけど」

「えっと、山本君に訊いてみる」

 私は慌てて語を継いだ。「待って、訊くのはいいけど、電話はもう切るわよ。これから会社に帰らなきゃならないんだけど、この車ね、まさかのミッション車なのよ」

「ああ、もしかして、ミラ?」

「そう」

 須藤君が、松下社長がこの車を手に入れた経緯を簡単に話してくれた。ここで細かく内容を述べるのはやめておくけれど、知り合いの老大人ろうたいじんがなんとかかんとかで、「もう乗らん」と言った車を引き取ったということのようだ。


 私はエンジンをかけた。クラッチを踏む足に力が入っている。すでに膝ががくがく言っているが、私も女だ、覚悟を決めなければ。



 十五分後、私は坂道にいた。そして「僕の後ろに道は出来るだろう……」とか何とか、そういう詩があったように、私の後ろには行列が出来ているであろう──。

 あともう少しで会社に辿り着くというところでミラをエンストさせてしまい、それ以降、思う存分あたふたしてやったが、それで解決する物事があってたまるか……とばかりにエンストの嵐となり、まったく進めなくなってしまった。

 坂道が悪いのよ坂道が──と一人呪いを吐きながら停まっていると、避けられない事態として後続車がやってきた。そしてそういうときに限って、その車はなぜか私の後ろで発進するまでじっと待っていてくれようとするのである。

 郵便局の駐車場で、これから停めようと思いちょっと動きを止めただけでクラクションを鳴らされたことがある。法規どおり黄色信号で停まったのにクラクションを鳴らされたこともある。なのになぜ、今日だけみんなそんなに優しいの? また新たな車がやってきて、仲良く列を作りはじめる。何台並ぶ気だよ。ここはマクドナルドか。


 私のことは見捨てていって、お願いだから。大体わからない? この古そうな車、坂道、そして鴨の親子もバッファローの横断もどこにもない。


 私はルームミラーで後ろの運転手に視線を送り、手を払う仕草をして「先に行け」と合図した。

 ようやく気づいたのか、車が動きだし、去っていった。みんな去っていく。お気をつけてー、平和な民よ。よし、これでいい。


 電話が鳴った。須藤君からだった。


「ツムっち、矢野さんの血液型わかったよ。A型だってさ」

「それ私が教えたやつ!」私は叫んだ。「連絡が不毛すぎるでしょ」

「あっ、違った。矢野さんが帰っちゃったから、書類の場所がわからないんだわ。ツムっちまだ帰ってこられないの? もう機嫌直して帰っておいでよ」

「子どもか!」私は事情を説明した。「……というわけなの。もう白旗をあげていいかしら? 誰か迎えに来てくれる?」

「もうちょっと頑張ってほしかったけどなー」須藤君がにやけているのが見なくてもわかる。「わかった、山本君に迎えに行ってもらおう。ついでに運が悪い血液型も教えられるし」

「その伝達はいらんて。でも助かるわ。ごめんね、みんな忙しいのに」

「いや、諸悪の根源は松下社長だから。みんな社長が悪いんだよ。いつものことだけど」

 なにもそこまで言わなくても。


 十分後、山本君が歩いて助けに来てくれた。運転を変わってもらい、彼のスムーズなギアチェンジを惚れ惚れ見守りながら会社への道を辿る。

「いや、久しぶりとはいえこんなに手こずるとは思わなかった」

「古い車は癖があるからね」と山本君。

「なんか会社、大変だったんでしょ?」

「ああ、九十九君が電気ポット壊した話?」

「電気ポット! その話は初耳……」

「『給湯』ボタンがおかしくなったのか、お湯が出っぱなしになって、止められなくなったんだよ。九十九君が押した後にそうなったらしいんだけど、九十九君、『ポットがばかになったっす』とか言って、お湯が床に流れてるのに拭きもしないでただ眺めてたらしいんだよ」顔をしかめる山本君。

「まあ、あの人らしいわね。今日なんか、プチトラブルのオンパレードじゃない?」

「ほんと、そう。で、ポットのこともそうなんだけど、深見課長が、『昼休みでも休憩中でもないのに、なんでお湯を使おうとしたんだ?』って訊いてきて、それに対して九十九君が『久米くめさんからもらったのど飴舐めたら口が気持ち悪くなったからお湯でリセットしようと思って』って答えたもんだから、久米さんが怒っちゃうし」

「九十九君の社会規範をリセットできないもんかしら」




 会社に帰り着いてから、「そういや、運が悪い血液型って何型だったの?」と訊くと、「B型って書いてあったよ」と山本君が教えてくれる。

「じゃあ九十九君じゃん、気をつけなきゃ」


 二時間後、給湯室から「おおーっ!」という叫び声が聴こえた。あの声は松下社長。戻ってこられたのか。戻ってこられて早々「あちゃー」。

 そして「社長、なにそのポット使ってるんすか!」とすかさず突っ込んだ声は九十九君だった。

 そういや、社長もB型だったわね。

 


 


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チクフォー・アンハピネス 〜会社の敷地に枯れ葉をばらまかれて困っています〜 崇期 @suuki-shu

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