同族嫌悪
新宿の繁華街にある昭和のバブル期の頃からある年季の入ったビルの3階には、佐々木ローンという名の貸金業者の店舗が入っている。
この店、国から貸金業の認可を受けていない、俗に言う闇金融である。金利は10日で3割。例を挙げると10万円が10日経てば13万円になるという理不尽な暴利を貪る悪徳会社だが、そこの社長、佐々木肇は今恐怖に震えていた。
「お、おいアンタ……何が目的だよ?」
「……」
「せ、せめてソイツを放してやってくれないか……ヒィッ!」
「……」
佐々木が怯えて汗だくでそう言うが、話しかけられている男は少しも耳を傾けずに、背を向けたまま彼の部下の社員の顔面を何度も何度も壁に叩きつけていた。
2メートル以上ある背丈に坊主頭で筋肉質な大男で、涼しい顔でまるで頭で釘でも打っているような様子だった。すでに流れた大量の血は壁を伝って床に溜まり、そこに何本か前歯が浮かんでいる。言うまでもなく部下はすでに気絶していた。
きっかり5秒の間隔で、狭い室内の壁に人の顔面が強打されていく生々しい音が響き渡る。他にも一人社員はいたが、すでに男の膝蹴りで股間を潰されて泡を吹いている。
佐々木はすっかり怯えてしまい、解放されたドアから逃亡しようと思うも、この男に追いかけられたらと思うと怖くてできなかった。
何で自分がこんな目に遭うのか、自分を恨む人間がこの男を差し向けたんだと睨んでいるが、心当たりは山のようにあるのでそれが誰か見当もつかない。無論この巨漢が誰かも分からない。願わくば闇金としての面子は潰されても、自分のホクロだらけの顔まで潰されないことを祈るばかりだった。
佐々木は元は都市銀行の行員だったが、ネットカジノに熱中して会社の金を使い込んだことがバレて解雇され、その後生活に困って慣れないスリをして捕まり禁固刑となった。その時に出会ったヤクザに金融の知識を買われ、出所後に組のシノギとしてこの闇金業を任された。
もし銀行員だった時と同じ真似をしたら殺すと刑務所で出会った若頭に言われたが、真面目に働きロイヤリティを収めれば組も自分に敬意を払ったし、大分羽振りもよくなった。人々を破滅に追いやることに罪悪感がなかったわけではないが、闇金に縋るようなクズに情けをかける方が愚かと思うようになってからはそれも薄れていった。
これは今までの報いなのか? と、佐々木が追い詰められた人間にはままある遅すぎた反省と後悔に浸りながら、歯の隙間から途切れ途切れに浅い呼吸を漏らしたその時。
「悪かったな。お前が真面目に仕事をしてるかどうか心配だっただけだ。別に何の問題もなかったよ。あれでいいんだ。おう。しかし、離れていても本当にお前は目立つな。ああいう場で黒いワイシャツ着るか普通」
入り口の階段を上って誰かがやってくる。このビルは1階にも2階にも何も入ってないので、階段を登ってきてるということはここにしか用はないはずだ。こんな時に誰かがウチに融資を頼みに来たのかと佐々木は思ったが、むしろこれで室内を見て逃げて通報してくれるならむしろ助かると、内心は少し安堵していた。
「一旦帰るんだよな? ああ。じゃあな。ちゃんと厚着して寝ろよ」
そう言って電話を切り、革靴の固い靴底の足音を高く響かせて事務所の中に入ってきた男は、掘りの深い聡明そうな外国人だった。彼はドアを閉めて内側から鍵をかけてから上を見上げた。
「随分と天井が低いな」
会ったことがない男だったが、佐々木には何故かこの顔に見覚えがあった。だから、混乱した頭の中で一体自分はどこでこの男の面を拝んだのか記憶をかき回した。今の不安を紛らわすために。だが、すぐに思い出せた。新聞だ。ちょうど机の下のゴミ箱の中の丸まったそれにこの男の顔が大きく載っていたはずだ。世界最大の武装組織のスポークスマン。
「ア、アンドレイ・ジェスタフ……!?」
「ほー私のことをご存知でしたか」
ジェスタフは無表情にそう言って金属のシガレットケースから出した煙草を咥えた。すると、それまで佐々木が何を言っても暴行をやめなかった大男が急に部下を放り捨て、彼の煙草にマッチで火を灯した。
「お疲れ様です」
ジェスタフは息を吸って肺を紫煙で満たそうとしたが、点火が甘かったのか途中で火が消えてしまった。それに気づいたジェスタフは苛立って舌打ちを繰り返しながら拳骨を作ると、部下の顎を躊躇なく突き上げた。
「テメェ煙草に火も灯せねぇのか!? 殺し以外は人並み以下だなこのボケが!」
「申し訳ありません」
男は改めて火を点けた。彼の歯茎から血が流れていたが、それを拭うよりまず先に煙草を優先していたことから、2人の間には圧倒的な上下関係があることが伺える。
まさかこれほどの男が金を借りに来たのかと佐々木は一連の暴行を見せられながら疑ったが、とても金に困っているようには思えない飛び切り上等なスーツを着ている。
「夜分遅くに失礼。その通り私はアンドレイ・ジェスタフと申します。単刀直入に言いますが佐々木さん。あなたのお金を私にくれませんか? 全てとは言いません。この事務所の金庫の金とあなたの預金全額が欲しい」
「……つ、通帳は持ってない。税務署が……」
「違法な貸金業を行ってることが露呈するからですか? もし、バレたらあなたは当然貸金業法違反で捕まり、芋づる式に恐喝やら傷害やら監禁、さらには殺人教唆などの余罪もバレると。事務所を半年ごとに変えてるのも摘発対策ですか?」
「あ、ああ……何でそんなことを知ってるんだ?」
「我々の国にも似たような輩はいますから」
ジェスタフは淡々と不愛想にそう言った。佐々木はこんな異様な状況でも普通に会話ができている自分が不思議だった。これまで捕まって取り調べを受けたことは何度かあるが、それよりも恐怖を感じていた。
その時佐々木のデスクにある固定電話が鳴り、反射的に彼が受話器を掴んだ瞬間、近寄ってきたジェスタフの部下が手刀を振り下ろしてまるで本体をまるで豆腐のように叩き潰した。
「余計な真似はするな」
「ミハイル! お前こそ手荒な真似はするな」
血だらけの手で佐々木の顔を掴むミハイルをジェスタフが咎めると、指示に従って大人しく彼は手を放した。
佐々木は咳き込みながら、ジェスタフの姿を爪先から生え際まで見回した。テレビでは分からなかったが、彼の背丈は180を超えており、ボタンを外したスーツから覗くシャツの形は仕上がった彼の逞しい肉体を見せびらかしている。鋭く据わった目付きといい、同じ裏社会の人間でもこうも違うのか。たまに会合で見る組が飼ってる半グレの奴らとは比較にならない。
「な、何故こんな強盗みたいな真似をする? アンタ国家規模の武装グループの最高幹部だろ? 金なんて経費で好きなだけ使えるんじゃないのか?」
ジェスタフは煙草の灰を床に落としながら静かにため息を吐いた。
「国内ではそうなんですが、何分日本と我が国では通貨が異なるし、我々の金は例えるなら地域紙幣のようなもので、世界中のどこでも両替なんかできません。それでも苦労して用意した日本円はホテルの代金一月分を先にデポジットしたら、ほとんど消えました」
「だから俺の金を奪いに来たと?」
「ええ。宝石とかを質に入れるのもしち面倒ですし。なら警察も頼れないあなたのようなとこから援助してもらうのが手っ取り早いという結論に至ったので、私が直接出向いた次第です」
そう言って、血だまりの中に吸殻を捨てた。血生臭さと煙草臭さがミックスした嗅いだことのない悪臭が佐々木の鼻を突いたが、2人は何も感じていなさそうなのが気味が悪かった。
「別に身包み剥がそうとまではこちらも望んでません。あなたの闇金での売上金を2千万くらい頂ければ文句はないのです。個人資産なども欲しいと言えば欲しいですが、あなたにも生活があるだろうから」
「それはこ、こちらにな、何のメリットがあるん、だだ?」
「あなたにも私にも共通する人間の一番大切な資本。つまり身体が無事なままで済みます。ま、あなたが生きる喜びを味わいたいと仰るのでしたら話は変わりますがね」
ジェスタフは従業員のデスク前にあるアーロン・チェアを物珍しそうに見て、それに腰かけながら佐々木に口調だけは紳士的に語りかけ、言い終えてから欠伸をした。
「それで、どうなんですか? お金は出してもらえますか? 私もかわいい部下に暴力を振るうよう指示するのは胸が痛む。なら平和的に行こうではありませんか」
ジェスタフが白い歯を見せて笑った時、突然外が騒がしくなって複数人の階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
「おや?」
そうして鍵のかかったドアを蹴破って押し入ってきたのは、債務者にしてはかなり人相の悪い集団だった。一人だけしわしわのくたびれたスーツを着ているが、残りはブランドのジャージだ。全員で5人いる。スーツを着た男の袖と腕時計のベルトの隙間から刺青が見えた。
「佐々木さん。21時の定時連絡がないからこっちから電話したら途中で切れるから、何事かと思ったら何? アンタタタキにあってんの?」
「……あーケツモチか」
普通の人間には警察や警備会社がいるように、裏社会には裏社会の守り手がいる。ジェスタフが少し意外そうな顔で背後を振り返る。そのまま佐々木の方にさっと視線を移すと、さっきまでと違い佐々木の目には希望が宿っていることを彼は見逃さなかった。
「おいお前らコイツら連れてけ。事務所で話聞かせてもらうからな」
「は、ははは……外務卿ともあろう者が恐喝に失敗して返り討ちに遭うなんて本国でいい笑いモンになるな!」
佐々木が勝ち誇って椅子に身を沈めたまま動かないジェスタフを指差す。
「あははははははっははははははっはははは!!」
すると、唐突にジェスタフは頬を膨らませて子どものように大笑いし始めた。だが、ひどく乾いた笑い声で、演技だというのは誰にでも分かる違和感に満ちた気味の悪い笑いだった。
「全くすごいわバッカ共がァ~!! あーもういいやミハイル!」
ジェスタフは呆れ顔で床を蹴って椅子ごと身体を回してミハイルに向き直ると、狂笑のせいで口から垂れたよだれを慌てて手の甲で拭ってから、まだ笑って手を軽く前に振った。
「何だコイツら」
ヤクザの兄貴分がこれから行う軽い制裁のために指関節を鳴らしたほぼ同時に、跳んできたミハイルの軍靴が前歯をへし折って彼の口腔へと突っ込み、彼は悲鳴を上げる間もなく壁まで吹っ飛ばされた。
「何しやが……がぼォが……ふざけ……ぶがァアァァァ!!」
そしてミハイルは男の両顎を両手で鷲掴むと、ビリビリと男の頬から顎にかけてを画用紙のように軽々と引き裂いた。その強引な腕力によって圧力で眼輪筋が盛り上がり、左の瞼から眼球が潰れて飛び出すほどだった。これほどおぞましい光景も中々ない。あまりに凄惨な有様に、命じたジェスタフすら引き裂く瞬間は目を背けた。
「あ、兄貴に何してんだこのガキ!!」
絶叫して人が破かれるのを初めて見た他の組員は慄いたが、すぐさまナイフやスタンガンを抜いてミハイルに襲いかかった。
一方ミハイルはベルトポーチから特殊警棒を抜き取り、振って宙で半月を描いて倍の長さに引き伸ばした。その先端は鋭利に削られ、槍のようにになっている。ミハイルはそれで一度に2人ぶん殴って事務所の隅まで吹っ飛ばすと、警棒を咥えて残る付近の2人の髪を掴んで唇を強引に重ねさせ、そのまま後ろ側の一人の後頭部を壁に強く押し付けた。
「いぇ、やめて……」
その上から警棒で2人の脳天を焼き鳥のように躊躇いなく壁ごと貫いた。それだけだった。
抜けば血が噴き出すので、突き立てた警棒をミハイルは抜かなかった。殴られた2人は一見無事なようだったが、身体はうつ伏せでありながら白目を剥いた顔は天井を向いていた。
これら全員始末するのに10秒もかからず、ミハイルは血に塗れた手をポーチからウエットティッシュを出して拭き取りながら佐々木を睨んだ。
「相変わらず残忍な男だな。一瞬で事務所が猟奇殺人現場に早変わりじゃないか。さて社長……」
「ひっ」
「さぁどうします?」
「こ、この外道が!!」
ジェスタフがスーツに返り血がついてないか探しながら佐々木に最後の警告をした時、血迷った佐々木が引き出しから小さな拳銃を取り出した。
しかし、ジェスタフもまた懐に手を伸ばしリボルバーを抜くと、省くもの全て省いた無駄のない素早さで引き金を引いて佐々木の胸を撃ち抜いた。が、それより先にミハイルが横合いから膝蹴りを繰り出して彼の頭蓋骨を砕いたので、華麗ながらも無駄弾を使ってしまった。
「心臓だと稀に数分耐えますよ。特に興奮状態では」
「ああ……そうだな。しかし金貸しだからって命より金を選ぶとは守銭奴の鑑のような輩だったな。長居は無用だ。さっさと金庫開けて出てくぞ」
ジェスタフはホルスターに銃を収めてから部屋をぐるっと見回し、隣にある従業員の控室の方に入っていった。5畳ほどの控室の中は着替え用のクリーム色のロッカーが3台あるのみで、ポスターすら貼られていない。ジェスタフは少し見てからドアを閉じた。
が、すぐにまた開けて、右のロッカーを開いた。
「あーロッカーで隠してるが、ここには本来物置か押し入れがあるのか」
ロッカーの正面部を切り取られたそこには、ロッカーと同じ色だが僅かに色が濃い壁があり、服に隠れたところに凝視しなければ見つけにくい小さな取っ手があった。ジェスタフは元はグレーのロッカーに塗装を施した跡があったことに気づいたのだ。
引き戸を引くと、そこには縦に伸びた奇妙な形の金庫が入っていた。
「おい」
ジェスタフがそれを持ち上げてロッカーから外に出すと、ミハイルに開錠を命じた。彼はバールも何も使わずに取っ手を掴み、片手で金庫の扉を矢を引き絞るような動きであっさりもぎ取った。あまりに滑らかに千切るので、ジェスタフは金属疲労を疑った。
中には札束の他に、債務者とみられる名前が書かれた付箋がついたファイルが何枚も積まれている。元はバンカーだった佐々木の几帳面さは輩になっても残っていたらしい。
「顧客名簿とか借用書とかか。まぁ一日一善ってことでこうしとくか」
ジェスタフは金庫の中身をミハイルのポケットに詰め込ませ、重要そうな書類をまとめて細かくなるまで何度も千切って紙吹雪をこしらえ手を離すと、血だまりの中に舞い落ちて紙切れが朱に染まる様子をぼんやり眺めた。
ミハイルが振り向いて彼に報告する。
「全部で600万円と少しです」
「チッ。嫌な予感はしてたがやはり大部分の金はコイツの自宅か、あるいはアガリでほぼ吸われて残ってないかのどっちかか……。まぁいい」
ジェスタフはミハイルによって顔を引き裂かれた男の元に近寄り、スーツの裏地から革財布を取り出すと免許証と札を全部抜き取ってミハイルに渡した。
「お前、どこでもいいから近辺の反社の事務所か幹部連中の自宅ぶっ潰して金奪ってこい。水商売でもいい。顔を隠すのも忘れずにな。済んだらこの免許証を置いとけばアイツら馬鹿だし絵描きはコイツの組だろうと勝手に揉めてくれるはずさ」
「かしこまりました」
そう言って、ミハイルは佐々木ローンの事務所を後にしていった。
「さて、この死体はどうしたもんだろうか?」
残った唯一の生者であるジェスタフは、何人もの骸を前にして悩ましそうに腕を組んだ。しかし、免許証を盗られたヤクザの口から呻き声が漏れたのを、彼は聞き逃さなかった。マチリークでは用心深く聡い人間でなければ出世できないし生き残れない。
ところで先日の記者会見では人を殺したことはあるが謀議や強要などはしたことがないと、この身を賭けてもいいと言わんばかりに神妙な顔つきで誓ったこの男だが、実際のところ。
「今楽にしてやる」
それは真っ赤な嘘である。
乾いた銃声はにぎやかな歓楽街を行き歩く人々の耳には届くことなく、静かに闇夜に溶けていった。誰も横切ったビルの中で惨たらしい処刑が起きていることなど思いもせず、師走の慌ただしさに奔走するのだった。
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