第4話 二編 1

 はしがき


 学問という言葉には広い意味があって、無形の学問もあれば有形の学問もある。修身学(道徳)、神学、哲学などは形のない学問であり、天文、地理、物理、科学などは形のある学問である。どちらにしても、みんな知識見聞の領分を広くして、物事の道理をわきまえ、人間たる者の職分を知ることである。知識見聞を開くためには、人の話を聞いたり、自分で工夫してみたり、また書物を読むなどしなければならない。だから、学問をするためには、文字を知ることが必要である。が、昔から世人が思っているような「ただ文字を知るだけで学問をしている」とは、大きな間違いである。

 文字は学問をするための道具であって、それが学問ではない。家を建てるのにかなづち、ノコギリを用いるように、学問では文字を用いる。かなづち、ノコギリを知らない人を大工とは言わない。まさしくこの理由で、文字を読むことだけを知って物事の道理をわきまえてない者は、学者とは言わない。いわゆる「論語読みの論語知らず」とは、まさしくこれを指すのである。わが国の『古事記』は暗唱できるけど、今日の米の相場を知らない者は「世帯の学問」に暗い男と言う。道徳書、歴史書の奥義に達した者でも、商売の法を心得て、正しく取り引きのできない者は「帳合いの学問」につたない人と言う。数年の辛苦をなめ、数百の修行金を費やして洋学を成業したけれども、一家の生計を立てることのできない者は「時勢の学問」にうとい人である。これらの人物は「文字の問屋」というだけである。この功能は「飯を食う字典」に異ならない。国家には無用の長物、経済を妨げている食客と言って可である。だから、世帯も一つの学問であり、帳合いもそう、時勢を察するのもまた学問である。どうして、和漢洋の書物を読むだけが学問と言えようか。理にかなっていないではないか。

 この書の題名は『学問のすすめ』と名づけたけれど、決して字を読むことのみを勧めているのではない。書中に記していることは、西洋諸書の文をただちに翻訳して、その意味を訳し、有形無形のことでも、人の心得になる事柄を挙げて学問の大目的を示しているものである。以前に書いた本を初編として、さらにそれの論意を発展、拡大して、このたびの二編を綴り、次いで三、四編と進めていく。




 人は平等であること


 初編のはじめに、人はみんな生まれながら上下の差のない自由で平等云々、と言った。今この言葉を発展させて言おう。人が生まれたのは天が決めたことであり、人の力ではない。こう地球が人間の住みやすい環境になったのもすべては天命で、人力でそうなったのではない。いくつもの隕石が衝突し、○△という理由で海ができ、その中で単細胞生物が育った――などは、すべて天命である。人は互いに敬愛しあい、思いやりあいながら、おのおのの職分を尽くし、妨げあうことをしない。そのわけは、同じ人類だからである。そう考えると、同じ国の人同士、同じ県民同士、同じ町民同士、同じ学校同士の争いは、まったく無意味と言える。同じ人間で、ともに天と地を共有する動物だからである。例えば、一家の内で兄妹が仲良くするのは、同じ家を共有し、父と母をともにしているからである。

 だから、今、人と人とを秤にかければ、これを同等と言わざるをえない。ただし、その同等とは、有様(外観)が同じということではない。権理通義が等しい、ということだ。その有様を論じれば、貧富、強弱、智愚などの差があるのは当然だ。あるいは、大名貴族で大邸宅に住み、美服美食する人もあれば、人足として店の裏に借家をして今日の衣食にも困る人もいる。また、才知に溢れ、役人や商人になって天下を動かす人もいる。あるいは、知恵分別がなく、生涯、あめや菓子を売って暮らす人もいる。あるいは強い相撲取り、あるいは弱いお姫様、いわゆる、雲と泥、月とすっぽんの違いがある。しかし、生来の持ち前である権理通義の方向から論じれば、全くの同等であり、その重さに一厘一毛の軽重はない。すなわち、その権理通義とは人命を重んじ、その人の持っている物を守り、その名誉を大切にする、という重大な理である。人々がこの権理通義を通し、護ろうとする法などを設けたのならば、どんなことがあってもこれを害してはならない。

 大名の命も、人足の命も、命の重さは同じである。豪商の一〇〇万両の金も、あめや菓子を売って、儲けた四文の銭も、自分の物としてこれを大事にする心は同様である。世の悪いことわざに「泣く子と地頭にはかなわない」とある。また、「親と主人は無理を言うもの」などと言って、人の権理通義を曲げるようなことを唱える者がいるが、これは有様と通義とを取り違えている論である。地頭と百姓とは、有様外観は違うけど、その権理に違いはない。百姓の身体に痛いことは、地頭の身にも痛いはずだ。地頭の口に甘いものは、百姓の口にも甘いだろう。痛いものを嫌い、甘いものを好きになるのは、人の情欲で、他人に迷惑をかけずに、その情欲を満たすのは人の権理である。この権理では、百姓も地頭も厘毛の軽重はない。ただ地頭は富んでいて強く、百姓は貧しくて弱いだけである。貧富、強弱は人の有様外観であり、もとから同じではない。

 ところが、今、富強の勢いをもって貧弱な人に無理を強いるのは、理由はどうあれ、他人の権理を害している。これを例えて言えば、力士の腕に力があるとして、その力の勢いをもって隣の人の腕をねじり折るようなものだ。隣の人の力は言うまでもなく力士より弱いけれど、弱ければ弱いなりにその腕を使っていたのに、言われなく力士に腕を折られるというのは迷惑至極と言える。

 また、右の議論を現実の世の中にあてはめて言おう。旧幕府の時代には士農工商の身分の区別がひどく、士族はみだり無用に権威をふるい、百姓町人への取り扱いは、目下の罪人に対するようだ。さらに切り捨て御免などの法もある。この法によれば「平民の命はわが命にあらずして、借り物に異ならず」とある。百姓町人は何の縁もない士族へ、平身低頭し、屋外では道を譲り、屋内では席を譲り、ひどいものでは百姓町人が家で飼っている馬を、かってに乗られるほどの大迷惑を受けるのはけしからんことである。

 右は士族と平民との一人単位の不公平であるが、政府と人民との隔たりに至っては、これよりさらに見苦しいことがある。幕府はもちろんのこと三百諸侯は領地におのおの小政府を立て、百姓町人を自分の都合のいいように扱ってきた。時には慈悲を見せるようだけど、その実はすべての人がみんな持っている権利を認め、許すことなく、見るに忍びないことが多い。そもそも、政府と人民との関係は前にも言ったように、ただ強弱の違いがあるだけで、人の持つ権利自体は異ならない。百姓は米を作って人を養い、町人は物を売買して世の生活水準を上げる。これは百姓町人の仕事である。一方、政府は法令を定め、悪人を制し、善人を保護する。これが政府の仕事である。この二つの仕事は任務を分けているだけで、どちらも重要な仕事である。政府のこの仕事を行うのに莫大な財が必要になるが、政府には米も金もないから、百姓町人から税金を取っている。それは、政府が自分の仕事ができるように、と双方一致で決められたことだ。これは政府と人民の約束である。だから、百姓町人はちゃんと税金を出して、固く国法を守れば、その職分を果たしたと言える。政府は税金を取って正しくそれを分配し、しっかり人民を保護すれば、その職分を果たしたと言える。双方がその職分を果たして約束を違えることがなければ、もう何も言うことはない。おのおのその平等な権理を思う存分にふるえばいい。

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