最終話 後白河法皇とはどういう人物だったのか?

 後白河法皇の無能さを露呈させた法住寺合戦により、彼は再び幽閉されることになったのだが、ここまで読んでくれた方は後白河法皇が単なる無能な暗君であることを理解してくれたと思う。


 保元の乱は勝つための算段を緻密に練り上げ、いざ戦う時にはなりふり構わずにあらゆる手段を使って勝利をもぎ取った戦いである。

 

 いわば、勝つべくして勝った戦いと言える。


 ところは法住寺合戦はそんな戦いとは全く逆の、勝つための算段などなく、不適切な人事を行い、しまいには馬鹿正直に戦い、義仲に鎧袖一触で撃破されるという無様な醜態を晒すことになった。


 後白河法皇にはいくつかの悪癖があるが、それを改めてまとめていこう


1.一度決めたことならば周囲が止めても状況を考慮せずに実行させる


2.たとえ、任命した人間がその仕事に不適切であってもお気に入りであれば任せてしまう。


3.物事を客観視できない。


4.平気で約束や自分のやったことをなかったことにする。


5.忠告されても平気で無視する。


 その結果として彼は何度も自分を窮地に追いやってきたのだが、それでも長生きし、気づけば66歳で崩御していた。


 後白河法皇の欠点ばかり今までは指摘してきたが、後白河法皇にはこうした欠点ばかりの中で、それを打ち消してしまうような長所がある。


 それは極めて運が良いということだ。


 そもそも、彼は父である鳥羽上皇から「即位の器に非ず」とし、完全に見切りをつけられたが、中継ぎという立場であったものの天皇として即位出来た。


 そして、平治の乱で幽閉し、息子である二条天皇が親政を行い院政を停止させられるも、彼が若くして崩御したことで院政を復活させた。


 さらにも六条天皇が即位しても、平滋子の間に生まれた子を高倉天皇として即位し、治天の君として君臨し続けることが出来た。


 傍から見れば、まるで神がかっていた天運が味方していると思うだろう。


 後白河法皇はこの時代随一のラッキーマンだったのだ。


 だが、治承三年の政変が起きて、幽閉されるもそのあとに高倉天皇と平清盛は病死し、義仲と頼朝が平家討伐に向けて決起し、逆に平家を追い詰めてしまった。


 義仲に法住寺合戦で負けても、頼朝が差し向けた源義経に救出され、事なきを得て、義仲は討ち死する。


 傍から見れば、天皇だけは変わっても、彼は治天の君としてずっと君臨し続けていたのだ。


 人によっては天運だけではない何かが彼にあると思っても無理はないと思う。だが、それは後白河法皇が優れた賢者だからではない。


 後白河法皇は運と共に、彼自身が治天の君という至尊の地位にあるからこそ、治天の君として君臨し、死なずに済んだに過ぎないのである。


 これが、中国の皇帝であったならば、おそらく処刑されていただろう。


 例えば、春秋戦国時代、趙を大国にした武霊王という王がいた。彼は兵士が直接馬に乗って戦う騎兵を作り上げ、周辺諸国に勝利し続けた。


 その後、武霊王は太子に位を譲ったが、自ら「主父」を名乗り、実権を握り続けていたのだが、彼の息子同士の後継争いに巻き込まれ、恵文王となった息子の軍勢に三か月包囲され、餓死するという悲惨な死を遂げた。


 日本のように、天皇家を神聖な存在として崇め奉る珍しい国だからこそ、後白河法皇は死なずに済んだだけに過ぎないのだ。


 そして、彼が治天の君を維持できたのは端的に言えば、彼が法皇となった後に親政を行えるような天皇がいなかったからに他ならない。


 六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と皆後白河法皇の孫であり、年の離れた息子なのだ。


 しかも、六条天皇には無理やり高倉天皇に譲位させ、安徳天皇は幼い身で平家一門と共に入水自殺してしまった。


 そして、高倉天皇は成長し、息子である安徳天皇に譲位して上皇になったのだが、若死してしまい、その機会が与えられなかった。


 もし、平家と関係が深い高倉天皇が長生きしていれば、後白河法皇は治天の君の地位から簡単に転げ落ちたであろう。


 下手をすると、彼の兄崇徳院のように、讃岐などの遠国に配流されていた可能性すらあった。


 そもそも、後白河法皇は自分よりも優れた名君である二条天皇から院政を停止させられているのだ。


 決して優れた君主などではないし、多くの失政と失態を重ねてきた暗君なのだ。


 だが、その暗君にもかかわらず、治天の君として君臨していた姿は当時の人々からは天意が味方している、あるいは天照大神か大日如来が守護しているように思えただろう。


 故に、後白河法皇には不思議な魅力があり、多くの人を魅了していたのである。


 さらに後白河法皇が陰謀家、策謀家として見られるのは、状況が悪化してもラッキーで乗り越えすぎていることから、それを陰謀として見られている可能性がある。


 だがそれは陰謀論にハマっているとしか思えない結論だ。本当に賢明な人物ならば、三回も幽閉されることもなかっただろうし、息子である二条天皇に院政を停止させられることもなかったはずである。



 また、賢明な人物ならが嘉応の強訴のように、一度決めた裁定を覆すようなその場しのぎの策を打つこともしない。


 そろそろまとめに入らせてもらうが、後白河法皇は陰謀家などではない。


 それはメディアや彼の幸運ぶりが作り上げた見せかけだけの幻影にすぎないのである。


 実態は、今様狂いの、支離滅裂で周囲の状況も理解せず、その場しのぎのウソをついてごまかし、事態を悪化させて周囲にひたすら迷惑をかけるだけの暗君に過ぎないのである。


 ちなみに、後白河法皇を嫌っていた九条兼実は彼の死に対して玉葉にこう記載している。


「法皇は度量が広く慈悲深い人柄であられた。仏教に帰依された様子は、そのために国を滅ぼした梁の武帝以上であり、ただ延喜・天暦の古きよき政治の風が失われたのは残念である。いまご逝去の報に接し、天下はみな悲しんでいるが、朝夕法皇の徳に慣れ、法皇の恩によって名利を得た輩はなおさらである」


 梁の武帝は中国南北朝時代屈指の名君であったが、同時にこの時代屈指の暗君という二つの評価を受けている人物である。というのも、国の最盛期を築きながらも仏教にのめりこみ、文字通り国を傾けてしまった。

 

 その結果、謀反を起こされ餓死したという悲惨な末路を辿っているのだ。


 そして、延喜・天暦の古きよき政治というのは、醍醐天皇と村上天皇の時代、つまり天皇親政が行われ安定していた理想の時代として、当時の貴族たちには認識されていた時代である。


 兼実は後白河法皇を、そんな理想的な時代の風潮を失わせた人物として認識していた。そして、後白河法皇が仏教にのめりこんでいたのを、仏教にのめりこみすぎて国を滅ぼし、餓死した梁の武帝になぞらえており、悲しみを装いながら、後白河法皇を全く評価していなかったである。


 しまいには「法皇の恩によって名利を得た輩」とつまり後白河法皇のお気に入りだった院近習が、後白河法皇が死んだことで誰よりも悲しんでいるというすさまじい皮肉を日記に書き記している。


 九条兼実は後白河法皇を誰よりも嫌っており、信西がこぼした「和漢の間、比類少きの暗主」を書き記しているほどである。


 彼は皮肉屋ではあるが、平家にこびず、後白河法皇にもこびないという気骨ある人物である。


 その彼から見れば、後白河法皇は無茶苦茶な君主に見えていたのがよくわかる。


 兼実の書き記したこの記述こそ、改めて後白河法皇という人物について、認識を改めるものではないかと私は思うのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 ヤン・ヒューリック @ginga4

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ