誰がアダムに第六感を与えたのか?

清水らくは

誰がアダムに第六感を与えたのか?

 女は、果実を持ってアダムのところに行った。それは善悪の知識の木にっていたものであり、決して食べてはならぬと神に言われていた。しかし蛇は女をそそのかした。その果実は食べれば死ぬというものではなく、神のように善悪の知識を知るようになるのだと。女はすっかりその言葉を信じて、アダムと共に果実を食べる気になっていたのである。

 女に果実を差し出されたアダムは、「なんかやだあ」と思った。はっきりと言葉にはできないが、嫌な感じが体の中を駆け巡っていたのである。彼にはそういうことがしばしばあった。痛みでも快感でもない、言い知れぬ感覚が備わっていたのである。

「非常に魅力的だけれどね、僕はやめておこうかなあ」

 アダムは言った。

「なんで? こんなにおいしそうで、しかも神様と同じ力を得られるというのに」

 女は何としてでもアダムにも果実を食べさせようと頑張った。

「しかしだね、良くない感じがするんだよ」

「感じって何? 蛇も言っていたわ、食べても大丈夫だと」

「蛇もなあ、なんかよくない感じなんだよなあ」

「また感じ! それってはっきりとしたこと?」

「はっきりとはしないけど、でも感じるんだよ」

「もう、知らない!」

 怒った女は、そのままその場から去ってしまった。

「うーん、まずかったかなあ。でも、他にもこんなに食べるものがあるのに」

 アダムは禁止されていない果実を手にとって、ほおばった。

 アダムも女も禁断の果実を食べなかったので、楽園では特に何も起きずに時間が過ぎていった。それは数千年も数万年も続いたが、特に誰も気にしなかった。

 だがある日、草原で微睡んでいたアダムは嫌な感じがして起き上がった。あたりをきょろきょろと見まわしていると、空中に黒い煙が現れ、渦巻き始めた。

「なんだいったい」

 黒い渦は大きな穴となり、そこから一人の男が這い出てきた。全身に青い布を身にまとっており、両目の前には丸い氷のようなものがある。

「ううむ、ずいぶんと殺風景な世界だ。んん? 裸の男! こちらを見ても驚いてはいるが、まるで何なのか計りかねているようだ。これはもしや」

「一人でぶつぶつ言っているなあ。なんかいやな感じだ」

「君はアダムなのか?」

「そうだけど」

 男は拳を突き上げて飛び跳ねた。

「アダム! ついにアダムを見つけたぞ! 君は、禁断の実を食べなかったんだな!」

「そういえばそんなこともあったかなあ」

「何たる幸運。実際にそのような世界が存在したとは」

「あなたはさっきから何を言っているんだ?」

「うむ、失敬。実は私は、並行世界から来たのだよ」

「ヘイコウセカイ?」

「まあ、知恵の果実を食べていない君には分るまいが。世界はたくさんあってね、ほとんどの世界ではアダムは禁断の果実を食べてしまうのだよ」

「それは良くない感じだなあ」

「うむ。しかしおかげでイヴとの間に子供ができる」

「イヴ?」

「ああ、まだこの世界ではそう名付けられていないのだな。女のことだよ」

「はあ」

「その子供たちが増え、世界には人間があふれる。私もその一人というわけだ。世界は違うものの、私は君の子孫でもあるわけだ」

「はあ」

 アダムには何もわからなかったが、虚言という感じはしなかった。

「ところがだ。人間は知識を増大させ、ついには自らの遺伝子も操作し始めた。その結果、取り返しのつかない失敗をしてしまったのだよ。全ての人類は子孫を残すのも困難になってしまった。遺伝子操作から十代あたりを過ぎると出現する不具合なので、気付いた時には手遅れだった」

「手遅れというのは困った感じだ」

「そう、困ったのだ。もはや元の汚染されていない遺伝子を持った人間はいない。そこで別の世界から人間を連れてくることを考えた。だが何ということだろう、並行世界には行けたものの、全ての世界で同じ過ちがなされていたのだよ! 残念ながら、時間をさかのぼる技術は確立できなかった。そこで私は、幾つもの並行世界を渡り、純粋な遺伝子を保持する人間を探し続けてきた。そしたらどうだ、純粋は純粋、アダムに出会えるとは!」

「うーん、なんか眠くなってきた感じがする」

 実際にはアダムの目はぱっちりとしていたが、あまりに訳の分からない話を続けられたので頭が休みたいような感じになった。

「まあ、科学の発展には何万年もかかるからね。しかし君はただ私たちの世界に来てくれるだけでいい。そして世界中の人々と子をなし、純粋な遺伝子を復活させてほしいのだ。そう、まさに君は新世界のアダムになるのだ!」

「なる必要あるのかなあ?」

 アダムはこの世界で幸せに暮らしており、別のところに行く魅力を感じなかった。

「君は世界中の人々に歓迎されるよ。救世主になれる」

「なんかとても嫌な予感しかしないんだよなあ」

 アダムは具体的にも嫌な予感がして、身をかがめた。そして、元々彼の肩があった付近を何かが高速で通過していった。

「な、なに」

「安心しろ、麻酔銃だ」

「全然安心できる感じじゃない!」

「アダムー」

 その時、女がやってきた。見知らぬ男の存在に首をひねったが、止まることなく近づいてくる。そして、男はその姿を見て動きを止め、見とれてしまった。女は裸だったのである。

 この瞬間を逃してはならない、とアダムは感じた。

「とりあえず今日のところは戻って!」

 アダムは男の懐に駆け込むと、体を抱え上げて黒い渦の中に放り投げた。

「お、おいっ」

「とりあえず僕はここにいるからっ」

 男の体が全て渦の中に入ると、渦は小さくなっていき、そして消えてしまった。

「あれはなんだったの、アダム」

「わからない。イデンだかエデンだかがどうかしたらしいけど、僕には関係なかった」

「あらそう」

 こうして男は元の世界に送り返され、アダムはこの世界に残り、今まで通り何事もなく日々を過ごしていくこととなった。



「ふうむ……」

 その様子をずっと観察している存在があった。もちろん、神である。

「人間が第六感に優れていた場合、こうなるのね」

 神は深くうなずくと、別の世界へと観察の目を移すのだった。


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