最終話『蜂蜜金の澄月』

 八月六日・午後一時頃――。

 “百年獄暑”に喘ぐ世間から隔絶された清涼な空間に籠り始めてからは自分の場合、五日は経っているらしい。

 昼食の味噌汁にだし巻き、おにぎりで補給していたミー子は居間のカレンダーを寝不足の眼で眺めながらぼんやりと考えていた。

 シャルルが発作を起こしながらも一命を保たせた日以降、猫屋敷家は総動員になって『シャルルの看護』に尽力していた。

 パパが『注射剤』を毎日朝と昼に一回ずつシャルルへ打ち、ミー子わたしは水とウェットフードを与え、ママはシャルルの様子を常時見守っていた。

 今のシャルルの状態と体力では、診療所への送迎すら心身に大きな負担となるため、自宅での対症療法で回復を待つことになった。

 藤森先生が与えてくれた注射剤の中身は『血液溶解剤』だ。

 血栓を溶かすことによって血液の巡りを改善し、血の塊が血管に詰まるのを防いでくれる。

 血栓さえ無くなれば、シャルルの生命を奏で続ける心臓も守られるはずだ。

 そしたら後にシャルルは回復し、きっとまた以前みたいに――。


 『ねぇ、ミー子。藤森先生はシャルルを救う気があると思う?』


 シャルルの希望と奇跡を最も信じているママンは、ふとそんな疑問を零した。

 ミー子とパパンの眼から見ても、藤森先生は間違いなく良き医者だと認識している。

 藤森先生とは、ママンのペット友達からの紹介で逢った。

 以前から尿路結石症の治療や耳洗浄などにも世話になり続けているため、十分信頼に足る人物だ。

 シャルルの看護開始の前後は土日祝日に夏休みが重なっているため、本来は休診日だが、今回は特別に何時でも緊急連絡に応じてくれている。

 ただし、ミー子の中で密かに引っかかっていた疑念は、やはりママンも薄々勘づいていたらしい。


 『例えば……早く薬を打ってさえくれていたら、シャルルはあんな風に苦しんで、死にかけることもなかったんじゃないかって……』


 ママンの言う事も分からないわけではない。

 藤森先生ほどの優れた獣医であれば、血栓症の発作のこともまったく予見していなかっとは思えない。


 『っ……ごめんなさい。藤森先生にはお世話になっていて、恩があるのに、こんな事を考えてしまうなんて……っ』


 ママンも自分が理不尽なことを言っているのは自覚しているらしく、先生への不信感を表した己を直ぐに恥じた。

 シャルルの危篤と予後について、ミー子は電話での説明をママン達に代わって聞いたこともそうだが、この時ばかりは自分が精神保健福祉士の勉強をしていてよかったと思った。

 普段は温厚で他人を責めることのないママンの口から出たのは、行き場のない悲しみが理不尽さへの怒りに代わった声だ、と即座に理解できたから。


 「ママ、自分を責めないで。先生もできる限りの最善を尽くそうとしているけど、ママだってそうでしょう? きっと今のシャルルにはママが傍にいてくれるのが一番の望みだから、ね?」

 「っ……ええ、そうね。ありがとう……っ」


 自分も感情を激しく揺るがせて一緒に混乱し、最悪互いを責めて共倒れすることもなく、冷静にママとパパの気持ちを受け止める事ができる。

 穏やかに微笑みながら励ましてくるミー子に、ママンの涙に濡れた瞳から影が薄まった。

 ママンの意識が目の前で穏やかな寝息を奏でるシャルルへ戻ったのを見て、ミー子は内心胸を撫で下ろした。

 猫屋敷の人間でミー子は自分が最も冷静でいられている理由は、ミー子が既に察しがついているからだろう。

 藤森先生がシャルルの受診時ではなく、後日になって抗血栓剤をパパンへ快く提供してくれた理由を想像すれば。しかし、を今は未だ話す時ではないし、話す必要のある日が来ないことをミー子は祈るしかなかった。


 *


 冷たくて暗い闇を当てもなく独り彷徨い続けた末――天上へ浮かんだ白金の光輪は世界を光で包み込んだ。

 果てなき虚無の闇野原に突如、彩りの煌めきが灯った世界には息を呑んで立ち尽くした。

 どこまでも澄み渡る青い空、風に舞って様々な姿を変える白い雲をうっそりと仰ぐ。

 爽やかな緑と大地の香りを抱いた草原を突き抜ける爽快感、鮮やかな七色を着飾る甘い花々の癒し。

 生と死の円舞ワルツを交わす羽虫や野鳥、川魚の一挙一動には、僕も心くすぐられる高揚感を覚えた。


 ああ、今までの僕はまったく知らなかった。


 “世界は美しい”ことを――。


 母猫ママの胸に抱かれて安らかに眠ってばかりいたから、この瞳で見たことはなかった。

 世界の美しさを。


 だから何処までも行きなさい、決して歩みを止めてはいけません。

 さすれば、やがては光り輝く温もりの世界があなたを包み、安息の地へ導いてくれるでしょう。


 顔も名前も毛色すら覚えていない。

 ただ愛しい匂いと温もりの記憶しか知らないはずの母猫が遠い過去、もしくは現在の遠くから僕へ優しく語りかけてくれたような――不思議な錯覚に導かれるがまま、僕は彩り煌めく広野をがむしゃらに駆け出した。


 さあ、


 世界が光に包まれている今の内に。


 煌めく太陽の光に感じる同じ母の温もりに満たされながら――。


 *


 八月七日・午後三時頃――。

 いつの間にか、うたた寝していた僕は久しぶりに穏やかな気分で目を覚ました。

 清々しさのあまり、つい癖で伸びをしかけたが、力を込めると下腹部と局部にじわりと湧く鈍い痛みに僕は直ぐ四肢を引っ込めた。

 ぼんやりとしてよく思い出せないが、何となく良き夢を見ていた気がする。

 どこか懐かしさを彷彿させる眩く美しい世界を無邪気に駆け抜けていた。

 今よりもずっと身軽で小さくなっていた僕は、何かを探し求めているような。

 夢の小さな僕が何を探していたのかは、ハッキリしない。

 ただ分かるのは、探しているモノを思い出そうとすると何だか、とても懐かしくて愛おしい、けれど泣きたく鳴きたくなるような切なさを伴った。

 今となっては遠い昔の思い出となったペットショップ時代の生活。

 猫屋敷家にやってきたばかりの頃。そこから体験した様々な出来事や得られた知識。

 初めて味わった“人間との暮らし”を振り返りながら、シャルルは誰とも無く問いかけてみる。

 果たして、夢の小さな僕が探し求めていた何かを、うつつの大きな僕は猫屋敷このお家で見つけたのだろうか――。

 探しモノが何だったのか思い出せていないのに、何故か、と願った。


 「シャルル……ちょっとごめんね。お水とご飯の時間だよ……」


 いつものようにミー子は新鮮なお水と藤森先生からもらったウェットフードを与えに来てくれた。

 六日前と比べて、憔悴の影が浮かぶミー子の瞳は全てを悟っているような、すっかりへ変わっていた。

 ママンやパパン、そしてミー子もこの五日間はまともに眠れていないらしく、心身共に疲労が溜まっているのは、シャルルの目からも明らかだった。

 シャルルの看護を始めてからずっと、ミー子達は仕事も休み、外には一歩も出ることもなく、一日を家の中で過ごしている。

 ミー子ですら、ダイエットのためにあれだけこだわって、毎日欠かさなかった早寝早起きにジョギングや筋肉トレーニング、湯船一時間、徹底的なカロリーオフの食事作りすらやめた。

 ミー子は手洗いと入浴時を除けば、常にシャルルの傍を離れることなく、決して目の届かない場所には行かなかった。

 僕が病気で倒れる前、パパンと同様に忙しそうに僕の横を振り切り、今は疎ましくも懐かしくすらある熱烈な愛情表現スキンシップもしなくなったあのミー子が、今は僕のために自ら動いている。

 最近では調理する意欲も食欲もすっかり失せたパパンとママンのために、ミー子がだし巻き卵やおにぎり、味噌汁などを作り置きしているようだ。

 二人が何時でも食べやすいように。

 ミー子の気の利いた心遣いにはママンもパパンも励まされるものがあったらしい。

 初日はほとんど食べられずに暗く俯いてばかりだった二人も少しずつ食べるようになり、微笑みも見せるようになった。


 「いただきます……」


 毛布に横たわる僕を傍らに、ミー子達は三人揃って手を合わせる。

 出汁の芳しい味噌汁にふわふわの眩いだし巻き卵、香ばしい海苔と塩気の漂うツヤツヤなおにぎり。

 決して味わうことのない素朴な芳しい香りを嗅ぎ、温かな艶を眺めて密かに楽しむ僕を他所に、ミー子達は静かに夕食を取る。

 最近は粗食続きだったミー子が久しぶりに作ったまともな食事だ。


 「……久しぶりに作ったから……保証はできないけど……どう、かな?」

 「……ええ……とっても、おいしいわ……それに、あったかい……」


 味の是非を問うミー子に、ママンはこのうえなく優しい微笑みで味噌汁を啜りながら答えた。


 「よかった……パパは……その……っ」

 「……食べられるぞ」


 一方、猫屋敷家で人一倍味にうるさいパパンが素っ気なく答えた言葉に、ミー子は戸惑いと不安、嬉しさの混じった眼差しでパパンを見る。

 しかし、ママンが優しい微笑みを浮かべたままであること、パパンの口へパクパクと忙しなく運ばれてゆくだし巻き卵やおにぎりに、ミー子は安堵の微笑みを綻ばせた。

 ぶっきらぼうで口下手、味にうるさいパパンは決して「おいしい」、とは言わない。

 だから代わりに、黙々と最後まで食べるという行動で表す人間だと、ママンだけでなく娘のミー子も承知の事だった。

 それからも三人はゆっくりと食事を口へ運びながら沈黙に伏せ、時折ポツポツと短い言葉を交わす。

 こうして猫屋敷家の三人と一匹が同じ空間に揃って食卓を囲む光景は何年ぶりかのように思わせるほど、シャルルの瞳にも懐かしく眩しい。

 ミー子とパパン、ママンの微笑みはどこか切なげで悲壮な雰囲気を潜めている。

 まるで昔のように和やかな団欒を取り戻した猫屋敷家の様子に、シャルルは無言で目を細める。

 相変わらず下腹部から局部の膨張感も奥の詰まった重くて痛い感覚は続き、やはり尿も便も未だ出せていない苦痛は残っているはず。

 それでも、シャルルも心無しか胸が温かく満たされるのを感じた。

 同時に――猫屋敷家の“運命”を分かつ瞬間が目前に迫っている現実を、自分の身体が刻一刻と告げているのをシャルルも感じていた。


 [にゃあぁ……ふー……ふー……っ]

 「シャルル……ああ、行きたいのね……可哀想に……」


 時計が午前零時を刻んだ八月八日――。

 不意に湧きあがった排泄欲に目を覚ましたシャルルは、四肢へ渾身の力を込めて何とか起立した。

 寝たきりになって以降、まともに動いていない下肢は鎧のように重く、シャルルの歩行を苛む。

 おぼつかない足取りで、時折絨毯の上でつまづきながらも、シャルルは一点を目指して歩く。

 抗血栓剤を投与し始めて以降、動脈硬化によって命にか関わる発作や兆候は見られていない。

 ただし、シャルルの方は時折夜中に起き上がっては一階のトイレへ向かい、踏ん張っては力尽きて諦めるという一連の行動を繰り返していた。


 [にゃあぁー……(うぅ……今回も駄目かにゃ……コレさえ叶えばきっと……にゃんだが)]

 「よしよし。頑張ったねぇ、シャルル。さ、戻って休みましょうね……」


 ミー子が僕に水とウェットフードをこまめに与え続けてくれた効果か、一昨日から僕の尿意と便意は戻ってきたような気がする。

 具合を悪くしてから僕の中に詰まりに詰まりきったモノを全て吐き出せれば、僕を苛み続ける重い膨張感も下肢の鈍痛も消え失せる。

 そしたら、僕の体を蝕む病も治って万事解決する。


 そしたら、僕が病気になる前の最近、あまり笑わなくなってしまったママンも、パパンも、そしてミー子も――きっと、この家でまた一緒に笑い合えるようになる――。


 「ああ、こんな時にまたあの人は……っ」


 たとえ手足がおぼつかなくなり、いくら踏ん張っても排泄できなくても、自らの足でトイレへ行こうとするシャルル。

 さすがに憐れに思ったママンはシャルルをそっと抱き上げてトイレの前まで連れて行っては、寝所へ連れ戻してくれる。

 ミー子はそんなシャルルとママンを透明な瞳で見守り、一方パパンは。


 「きっとパパも……辛くて、見ていられないんだよ……」


 今ここにはいないパパンの気持ちを察したミー子はやるせなさを抑えた声で静かに零す。

 パパンはシャルルが無理して起き上がり、痛みに苦悶するようにか細く唸る憐れな姿を直視できず、決まってシャルルのいる居間から離れてしまう。

 しかも、一階のシャルルのトイレは丁度パパンのプラモデル製作室の目の前に設置されている。

 製作室へ逃避したパパンがペル吉とチビ子と戯れている声は扉越しに聞こえてくる。

 そういえばペル吉先輩とチビ子さんとは、パパン達の剣呑な雰囲気を察した忠告を聞かされた日から、当然ながらそれっきり顔を合わせることも言葉を交わす機会もなかった。

 ならばペル吉先輩達は今の僕の状態をパパンから聞いていたりするのだろうか。

 だとすれば、急な大病を患い、外へ出ることもままならない僕を二匹もどう思ってくれているのか。


 『ペルー、チビー、ほれほれっ』


 ……それとも、ただパパンはペル吉先輩達と楽しく戯れているだけなのだろうか。

 パパンも、ペル吉先輩も、チビ子さんも、僕のことなんかどうでもいい、とすっかり忘れて笑っているのだろうか。

 きっとこの身体だけでなく、心までもが病に蝕まれているのだろう。

 そんな考えが一瞬でも頭を過り、不覚にもペル吉先輩とチビ子さん、そしてパパンのことを――。


 「もう、無理しないでいいのよ……シャルル。さあ、またベッドで休みましょう?」


 いくらトイレの砂を踏みしめて待機しても、やはり尿一滴すら出すことは叶わなかった。

 幾度目か数え疲れてしまった不排泄失敗、下肢へ重たくのしかかる残尿感と残便感、押し寄せる深い失望。

 何だか惨めな敗北感に、シャルルは今回も諦めるしかなかった。

 ママンに再び抱き上げられたシャルルは大人しく寝所に引き返された。


 「ごめんね……シャルル……っ」


 シャルルを毛布の上へそっと寝かしつけ、頭を優しく撫でるママンは不意に声を震わせて呟いた。

 ママンの頬から顎を伝い、シャルルの毛布へ零れ落ちるのは透明な塩っぱい水滴。シャルルは瞳だけをチラッと上げてママンの顔を見上げてみる。

 涙の瞳には悲しみが溢れ、噛んだ唇はやるせない怒りに震えている。

 どうしてママンが謝るんだろう?

 ママンは何も悪くないのに。

 どうか泣かないで――そう伝えるために濡れた頬へ鼻先を擦り寄せ、舐めてあげたかった。

 けれど、今の僕にはママンの膝へ乗る元気すらないのが、もどかしくてたまらなかった。

 涙が毛布へ次々と零れ落ちては、透明なシミを作っていく様を眺めていると、何となくシャルルも胸が締め付けられた。

 けれど、シャルルには人間のように涙をポロポロと零したり、言葉で表したりする術を持たないことに、生まれて初めての“悲しさ”を覚えた。


 *


 どうして――どうしてどうしてどうして?

 少し前まで世界はあんなにも美しくて、優しい光に満ちていたはず。

 なのに、どうして今はこんな――!

 晴れやかな白い陽光は空から消え失せ、代わりに夕陽が天と地を暗い赤へ染め、遥か遠くには青い闇が見える。あんなに澄み渡っていたはずの青空は眩い夕陽に呑まれていた。

 かつて目にしたきょうだいや仲間の口や腹から飛び散っていた赤色と同じで、空寒さに駆られる。何となく怖くなって、あの真っ赤な夕陽から逃げた。

 けれど咄嗟に駆け込んだ日影の路地も恐ろしい“暗黒の場所”だった。

 顔や背中に生傷を作った大きめの野良猫達は、荒んだ瞳をぎらつかせながら見つけたか弱い野良猫えものへ唸るか、舌舐めずりをして追いかけてくるか。

 例に漏れず、母猫も仲間もいない他所から流れた貧弱な子猫の僕も、彼らに何度もしつこく追いかけ回された。

 自分の毛色に似たビニール袋と同化するように身を隠し、何とか追手を撒いた。

 力尽きた僕を急に襲うのは激しい喉の渇きと腹の飢えだった。

 僕と同じ色をしたビニール袋を爪と牙で何とか破り、食べられる物を無心で探した。

 ごみの海から辛うじて掻き出せたへと齧り付いた。

 ひどく生臭く酸えた腐臭を凝縮した腐肉らしきモノを夢中で貪り、空っぽの胃の底へ流し込んだ。

 しかし、時折薄くてピロピロで硬い異物が混じっており、胃の中を傷つけるものだから、せっかく食べた物と一緒に吐いてしまうこともあった。

 喉の渇きは水道管から漏れた水や雨の溜まり水で凌いだ。

 それでも、旅の道中で出逢い仲良くなれた野良猫の中には、直ぐに亡くなった者も後を絶たなかった。

 空腹と渇きに耐えかね、誤って毒物を含んだ食べ物やユリ科の植物を口にし、淀んだ溜り水や缶と瓶から漏れた酒を啜ったせいで息と鼓動が止まっていた。

 そして凶猫や毒以上に恐ろしかったのは、街中を行き交う“巨人の群れ”だった。

 見た目も規模も猫や犬、鳥とは遥か一線を画す“巨人”は不可解で無機質な存在だった。

 我々猫等と違い、鳴き声言葉や仕草による意思疎通は叶わず、交渉の余地はなし。

 大の巨人と中の巨人は我々を同じ命あるものとは見てない冷酷な眼差しで我々を見つけては捕らえ、耳朶を潰しかねない轟音を鳴らす巨大な鉄の塊の中へと放り込んでいった。

 群れをなす小さな巨人は耳障りな笑いを放ちながら我々を追いかけ回し、石を投げてきた。

 巨人達はその異様な存在感だけで我々を圧倒し、一方的に蹂躙を為した。


 [みー……みぃ……]


 僕の生まれた世界は天国と地獄、共生と孤独が同じ場所に集まった、美しくて残酷な世界――。

 地獄で生まれ落ち、地獄で消えてしまった憐れな仲間達を見送りながら、僕はひたすら歩みを続けた。


 僕は孤独だ。


 けれど、歩みをやめさえしなければ、生きていれば、きっと辿り着けるはずなのだ。


 天国と共生を約束されたへと――。


 暗黒の夕暮れと夜闇から逃れ、朝昼の世界へ生還した僕を迎えたのは、あいにくの雨。

 鬱蒼とした雲に淀んだ空から降り注ぐ大雨に容赦なく打たれ、歩き疲れた僕は近場の公園に立つ遊具に隠れて雨宿りをした。

 幸い、大雨の日なら小さな巨人の群れも公園に寄り付かないため安全だ。

 緊張の糸が切れたのか、手足の感覚すら失うほど疲労していた僕はその場で力尽きた――。


 「――――……」


 すると、僕の前に小さな気配と同時に誰かの声を感じた。

 雨と土に濡れ汚れた頭を大きくて滑らかな温もりが撫でた。

 もしかして――母猫ママが迎えに来てくれたのだろうか――。

 懐かしい安らぎに身も心も満たされていく不思議な感覚の中、僕は重い瞼をゆっくりと閉じた――。


 *


 夜中にふと目が覚めると、毛に覆われた皮膚は汗でじっとりと濡れ、ハァッハァッと漏れる呼吸も浅くて荒々しかった。

 下肢の内奥で今も重く疼く膨張感と不快な鈍痛に、ほんの数秒だけ夢と現実の境が曖昧に滲む。ふと壁に掲げられた四角い計数式デジタル時計へ視線を流してみた。

 八月八日・午前三時五十九分――今回も僕は昨日を乗り切り、新たな今日を迎えることができたわけだ。

 ママン達のからただならぬ雰囲気を髭でビリビリと感じ取れた八月二日、恐らく僕の運命を分けたであろうあの日から数日も経っていた。

 ママンとパパンは未だ希望を捨てていないようだが、ミー子の透明な眼差しは僕と同様に、を見据えている気がした。

 いつもの夜中通り、目覚め際で急激に催す“吐き出したい欲”に突き動かされた僕は、最近筋力も衰えて関節も硬くなった四肢へ力を込めて低めに立ち上がった――。


 「……シャルル……っ?」


 ほんの数秒にも満たない刹那――プツリ――……ッと何かが切れて弾けた音が体の骨へ響き渡った気がした。

 次に寝台から身を起こしたシャルルの動きを敏感に察知し、目を覚ましたママンが息を呑む気配、名前を呼ぶ声を認知したと同時のことだった。


 [っ――にゃっ――ぁ――っ]

 「シャルル……!?」


 もう一人、シャルルの傍らで仮眠を取っていたミー子が異変に起き上がった気配も認識できた。

 しかし、その頃にはシャルルの身体の奥にある一点が既に静かに暴れ狂っていた。

 シャルルの運命を分けたあの夜と同じ、悲痛なか細い唸り声が響き渡る――。


 *


 『は捨ててきた。二度と馬鹿な真似はするな』


 何故、今頃になって思い出してしまったのか。

 もう、何年間も忘れ去っていたとの思い出と一緒に、決して思い出すまいとしていた。

 道端でトボトボと心許なく独り歩く野良猫。

 ペットショップの狭い硝子檻の半分を占めるくらい成長し過ぎて窮屈そうに寝込む犬。

 道路で車に轢かれたまま放置された動物の死骸。

 テレビで身勝手な人間に面白おかしく見世物にされる動物にも、深い憐憫と彼らを弄ぶ人間への憤りを燃やしたことは多々あった。

 否、正しくはをしていただけだ。

 胸の端でジクジクと爛れ痛むモノの正体から目を背け、代わりに目の前の動物達を見てきたのかもしれない。

 実際に自分の手で初めて世話をし続け、小さな我が子同然に愛でてきた正式なと呼べる子が、あんな風に目の前で苦しむ様を見る度に強く思い知らされた……己のと痛みを――。


 『もう、忘れなさい。だとして……』


 昔、まだ小さなガキだったは段ボール箱に入った二匹の小さな野良猫を雨の日のゴミ捨て場で拾った。

 家に帰った俺は濡れた子猫達をタオルで拭き、お袋の目を盗んで冷蔵庫から取り出した牛乳とハムの切れ端を餌付けした。

 後で押し入れを漁り、赤ん坊の頃に使われた古い毛布を敷いてやった。

 すると、猫の気持ちはよく分からないが、俺に懐いたらしく俺の膝に擦り寄ってゴロゴロと喉を甘く鳴らしていた。

 家にいてもお袋は家事と二歳の弟の世話、親父は定時には帰るが役所仕事で忙しく、既に小学生へ上がった俺は放任気味だった。

 だから、こんな風に自分より小さくか細い生き物の世話をし、子どものように懐かれるのも何だか新鮮で、胸に満たされる温もりを感じた。

 けれど、そんなささやかな幸せと温もりすら、親父は俺に許さなかった。

 朝に目が覚めると、俺の布団の中で毛布に包まって眠っていたはずの二匹は消えていた。

 半ばパニック状態で狼狽える俺が起きたのを見計らったようにお袋が入って来た。

 お袋は普段から物静かで控えめ、悪く言えば陰気くさい。

 そんなお袋が呆れや怒りを押し込めた様子で淡々と告げた言葉に、俺は愕然と立ち尽くした。


 、と――。


 お袋曰く、昨夜仕事から遅めに帰宅した親父が俺の部屋に隠れていた猫の気配を察知したらしい。

 そして俺が目覚めるよりも早く、朝一番に猫を段ボール箱へ詰めて、通勤道中にある河川敷に捨てたらしい。

 今日、親父が仕事から帰ってきたら話があるから心構えを持つように。

 そう淡々と告げて台所へ戻ったお袋を他所に、俺は家を飛び出した。

 親父の勤める役所までの道沿いにある河川敷を知っている俺は、再び捨てられた二匹の行方を探し求めた。

 今朝捨てられたばかりなら、未だ間に合うのかもしれない。

 一縷の希望に縋って、傘も雨合羽あまがっぱも無しで雨の道を駆け出した俺は河川敷を目指した。

 しかし、いつも親父が自転車で通る河川敷の前で俺は愕然と立ち尽くす羽目になった。

 何故なら、河川敷の丘下一面は灰水色に染まっていたからだ。

 昨日の昼間から夜中にかけての暴風雨、今朝から今も大地を打ちつける猛雨によって河原の水位は草むらを呑み込むほどに高さを増していた。

 橋の付近には危険信号の赤い灯りが点滅し、『立ち入り禁止』の看板も暴風で倒れていたが見つけた。

 もう手遅れだ――。

 絶望的な灰色の光景に二匹の最期を悟った俺は暫くの間、独り立ち尽くしていた。

 全身を打ち付ける雨槍の激しさに罰を受けているような気持ちで凍えながら……。

 あれから長い年月は過ぎ去り、癌で早死にした親父とお袋の歳を超してしまった。

 あまり幸福とは言えない幼少期の記憶は曖昧だが、親父とお袋に抱く負の感情、そしてあの出来事の記憶だけは今も胸の奥に火傷のように焼き付いていた。

 だからこそ、今になっての罪に加えて、の罪に対する“罰”をまとめて受けているような、鬱屈とした気分に苛まれている。


 『一度発作を起こしてしまった今のシャルル君には、診療所へ連れて行くことすら血圧の急上昇による身体への負担、発作の再発の危険があります。もし、抗血栓剤を希望するならば自宅で家族さん自らの手で打たなければなりませんが……いたしましょう』


 ミー子から受け取った電話器越しに藤森先生が示してくれた選択肢の内、わずかな希望に賭ける方を迷いなく取った。

 シャルルが回復して生きられる可能性がわずかでもあるならば、金は幾らでも積んでいい。

 俺は俺なりに精一杯の最善を尽くしてやりたい。

 強く願ったパパンは直ぐに藤森先生の所へ車を走らせ、血栓を溶かす注射剤を受け取り、決まった時刻にシャルルへ打ち込んだ。

 必要とはいえ、儚いシャルルの体に針を通すなんて、痛ましくて到底やれないママン、暴れるシャルルを押さえつける自信のないミー子に代わり、先生から注射のやり方を教わったパパンが大事な役割を担った。

 幸いパパンは手際が良く、弱ったシャルルの下肢へ最小限の苦痛で注射をした効果なのか。

 八月二日前後が峠だ、と藤森先生が遠回しに零した余命宣告の刻限を過ぎ、八月七日を経てもシャルルは生きており、発作も起きていなかった。

 もしかしたら、自分達に限らず神様にとってもシャルルは他には代えられない特別な猫ではないか。

 間もなく奇跡的な回復を遂げて生きてくれるのではないか、と――そう思わずにはいられないのは、ママンと同じだったはずだというのに。


 『これ以上は苦しむ前に、最後はあっさり逝けてよかった――なんて……それでも、やっぱり本当は……私は……っ!』


 今年の正月明けに、ママンの父親であり、ミー子の祖父に当たる老人が三ヶ月の闘病生活の末に急死した事をママンの姉が電話で伝えてきた。

 ママンの父親は長女である姉家族と長男の兄家族の大世帯で、遠方の北海道の実家に暮らしていた。

 姉曰く、父親は末期の肺癌を患っており、既に手遅れだった。

 しかも、高齢も相まって体の弱っていた父親への精神的打撃を考慮した兄と姉は、ただの良性のしこりだと嘘を吐き、医師が余命半年を宣告していた話も黙っていた。

 そして姉夫婦による献身的な看護の末に三ヶ月後――半年待たずに父親は急変を起こして亡くなった。

 ママンが父親の癌の事も急逝も知らされたのは、猫屋敷家に訃報が届いた時だった。

 実家から父親の危篤を何も聞かされていなかったママンは愕然としていたが、それは彼女の父親が意図した事だとも聞かされた。


 『遠くで順調にやっているあの子に、余計な心配をかけさせたくないさ』


 そしたら、ママンは父娘も仕事も置いてでも実家へ帰ってきてしまうから、と。

 実は若き日のママンが父親の猛反対を押し切って、北海道の辺境から遥か離れた大都会へ上京した事。

 それ以降は数年前のミー子の従兄弟の結婚式に招待される時まではたまに連絡は取っても、ほぼ帰省していなかった事もパパンは既に知っている。

 それでも一度だけ顔を合わせたママンの父親は、思っていたよりも温雅だった。

 言葉の端々に男手一つで子ども三人も育てた芯の強さを滲ませた人物で、パパンのことも好意的に見てくれた。

 だからこそパパンの眼からも、ママンの父親がママンのことも大切に思い、彼女とその家族に迷惑と心配をかけさせたくない、という心遣いを感じた。

 最期の瞬間まで、不出来な長男と現状への不満と罵倒を枕元で恨みがましく呟き、「お前が責任取って死ぬまで一生面倒を見るんだ!」が口癖だった亡き自分の親とは正反対だ。

 親の愛情も知らず、自分もへの愛着も抱けなかったパパン。

 自分の親には決してなかったママンの父親の深い愛情をひしひしと感じる一方、親を喪ったママンの悲しみと罪責感に共感することが難しかった。

 ママンの父親がああ言いながらも、きっと本心ではママンにまた一眼会いたがっていたに違いないこと。

 自分も帰省して看護に加われば、何か助けになれたのではないかという後悔で自責に深く落ち込むママン。

 パパンはまともな励ましの言葉をかけることはできなかったし、どう慰めたらいいのか本当に分からなかった。

 そのせいで「大往生じゃないか」、「苦しまずに幸運ラッキーだ」、と正論で押し黙らせるやり方しか思いつかなかった。

 パパンの言葉はママンの考え方と一致しているが、それでも大切な肉親の死はそう容易く割り切れるものではない。

 父親の苦痛が地獄並みへと進行する前に逝けたことに内心安堵もしているからこそ、ママンは罪悪感に苛まれているのだろう。

 ママンにきつく言い放ち、ママンの悲嘆を一蹴してしまった己の不甲斐なさにも、パパンは苛立ちながらも自分が間違っていたとは認められなかった。

 親父もお袋も癌で苦しみながら亡くなった。

 だからこそ、あの愛らしい猫シャルルが苦しくて痛くても楽にもなれないを味わう様子をパパンはとても直視できなかった。

 ここ最近、シャルルはそっちのけで、自分によく懐いた野良猫のペル吉とチビ子にばかりかまけた。

 シャルルのためにあるお金を二匹の餌代や毛布代、ワクチン代などにも費やした。

 シャルルが製作室へ近付いても、と冷たく追い出したりもした。

 シャルルへの後ろめたさもあいまって、今のシャルルに見て触れることが辛い。

 シャルルが心細げに鳴いても目を背けている己の弱さも、シャルルへの罪悪感と逃避に拍車をかけた。

 本当は心のどこかで分かっている――だが。

 八月八日の夜中、どうしても寝付けずない俺は製作室へ引きこもる。

 段ボール箱の中で身を寄せ合って眠るペル吉とチビ子にかつてのシャルルの姿を重ねながら、茫然と煙草を吸う。

 この日で既に十本目となる煙草の火が切れ、数秒逡巡してから十一本目へ手を伸ばそうとする。


 「パパ……! お願い! 今すぐ来て! シャルルが……っ!」


 ノックもせず、パパンの返事を待たずに勢いよく開いた扉の隙間からミー子の顔が覗いていた。

 叫ぶ勢いでパパンを呼んだミー子は、泣きそうに顔を歪めていた。


 [パパン――……]


 最後に呼ばれたような気がした。


 鎧のように重かった両足は自然と立ち上がり、頭で考えるよりも先にシャルルの下へと駆け馳せた。


 *


 だ……また、再びアレが来てしまうなんて……。

 しかも、前回とは比べ物にならないほどの耐え難い苦痛――!

 胃腸の底で溜まりに溜まった淀みはつぶてとなって体の内部をグリグリと擦り付け、圧迫していく感覚。

 身体中の血管内で小蜘蛛が蠢いているような不快感に四肢はピクピクと痙攣する。

 後肢の内奥は徐々に痺れ、小さな溶岩の欠片が突き刺さり、詰まっていくような激痛に悲鳴のような呻き声が漏れた。

 痛い、痛い痛い痛い痛いよ。

 苦しい、苦しい苦しい苦しいよ。

 シャルルにできることは、前回のように発作が治まるまで必死に耐え、苦痛をやり過ごすのみ。


 「シャルル! 嫌! しっかりして……っ!」


 柔らかな肉球と鋭い爪でギュッギュッと毛布を掻き毟りながら苦悶にのたうつシャルルに、直ぐに目を覚ましたママンは顔面蒼白で震える。


 「私、パパを呼んでくるよ……!」


 八月二日の夜と同じ発作の兆候を見せるシャルルに、普段と違う雰囲気を感じたミー子は慌ててパパンを呼び戻した。

 ミー子に連れられて居間へ戻って来たパパンは、シャルルの異変に愕然と立ち尽くす。

 目の前で苦しむシャルルから逃げてきたパパンがミー子に直ぐに応じた理由は、恐らくミー子の逼迫ひっぱくした様子から察知したのだろう。

 そして、シャルルがは、目の前のシャルルの姿が克明に物語る。


 「シャルル……? そんな体で一体どこへっ」


 苦痛に喘ぎながら蹲っていたシャルルが不意に四肢を立たせたかと思えば、ゆっくりと前脚を突き出した。

 シャルルは、動脈硬化による発作で激痛に痺れてまともに動けない後肢を前脚で引きずっていく。懸命なシャルルの目線の先に最初はママンが気付いた。


 「もしかして、シャルル……自分の足で行こうとして……?」


 明らかに無理して歩こうとしているシャルルを案じて、ママンとミー子が毛布へ連れ戻そうとする。

 しかし、シャルルは二人の手を振り切るようにおぼつかない足取りで毛布と絨毯を踏み越えて、トイレへ向かおうとしていた。

 そうだ、トイレへ行こう――。

 トイレへ行って、“良くないモノ”を全て吐き出してしまえばいいんだ。

 そしたら、全てが良くなるはずだ。

 生まれたばかりの赤猫さながら弱々しく震え、何度も床へ崩れ落ちてしまう。

 それでもシャルルは強い意志で何度でも立ち上がる。

 ママンとミー子、パパンの三人に見守られる中、シャルルはやっとの想いでトイレへ辿り着いた。

 シャルルが最後まで諦めずに自力でトイレまで歩いて行けたのは、急な発病からは初めてのことだ。

 久しぶりのトイレの砂玉の硬い感触を肉球で踏み締め、カラカラと爽快な音色に耳朶から胸が躍る思いで踏ん張った。

 さあ! 僕の体に巣食う“良くないモノ”よ! 今すぐ僕の体から出ていくにゃ――!

 ありったけの力を胃腸の底へ強く押し込め、猛々しい咆哮を心の中で叫び上げた。

 すると体の奥で微かだが、手応えを感じられた。

 お腹からお尻の底へ駆けて後肢に力を込め、前脚で踏み止まるとやはりズリッズリッと鈍い痛みと異物感は増したが、微かな手応えは僕を奮い立たせた。

 全てを取り戻すためならば、こんな痛みに耐えてやる!

 今までは鴉の睨みや子どもの気配、自動車の轟音にすら怖がって逃げてばかりの怖がりな自分が嘘みたいに強く在ることができた。

 さあ! さあ! 出て行け! 立ち去れ!

 永劫の苦痛を教え込もうと巣食う“良くないモノ”さえ体の中から消えれば、全ての痛みと苦しみからも解放されるはず。

 そしたら、きっと、最近夢に見たあの美しく眩い色彩の世界を駆け抜けるような自由と爽快感が待っている。

 ママンとパパン、そしてミー子も、今回の苦境を乗り越えれば、より深い絆と共に和解する。


 また、のように笑い合える。


 きっと、全ては元通りに還るはずだ――。


 「シャルル……っ! 大丈夫……!? シャルル……っ」


 シャルルの“したい”という強い意志に反し、手足は力を失っていき、肢体は前のめりに崩れ落ちた。

 勢いよく躓いた拍子に、シャルルはトイレの砂場へ顔面から突っ込んでしまった。

 周囲に飛び散った砂玉の音に、ママンのか細い悲鳴が混じる。

 額に走った衝撃と地味な痛みに怯みそうになったが、咄嗟にママンとミー子が後脚を支えたおかげで持ち堪えた。

 まだにゃ……! まだまだ諦めるわけにはいかにゃい! もう一踏ん張りさえ行ければきっと……!

 わずかな可能性に賭けたシャルルは再びトイレの砂場へ足を踏み入れ、もう一度力んでみる。

 しかし、シャルルの強い意志も、ママン達の切なる祈りも虚しく、幾ら踏ん張ってもシャルルの体から“良くないモノ”はどうしても追い出せなかった。

 どうしてにゃ……! どうして、どうして!

 やがて意識はお腹の底から逸れて、後肢をジワジワと侵蝕している血圧上昇と動脈硬化による激しい痺れと痛みが巡り出す。

 どうして、どうしてこうなるのか、どうして――!

 畜生……畜生にゃぁ……っ!

 理不尽に対する猛烈な怒りとやるせなさに、シャルルは心の中で初めて悪態を吐いた。

 かつて他の野良猫やペル吉先輩が悔しい時に漏らした、ちょっと不良っぽい辛辣な言葉遣い。

 自分の力ではどうしようもならない時、必死な自分を嘲笑う現実にまったく歯の立たない悔しさを噛み締める時、「畜生!」、と吐きたくなる猫の気持ちを今になって分かった。


 「……もう、いいよ! シャルル……っ!」


 あまりにも健気で、だからこそ痛ましくて見ていられなくなったのか。

 すっかり涙目のママンは、トイレの砂で苦しそうに蹲るシャルルをそっと抱き上げると、温かな毛布の敷かれた寝所へ戻した。

 この時には、もはや自分を連れ戻したママンへ抗議する体力すらシャルルには残っていなかった。


 「シャルル……よく頑張ったね。もう、これ以上は頑張らなくていいんだよ……」


 穏やかに囁いたミー子の透明な瞳と視線を合わせてみる。

 ああ、そっか――だったのかな?

 天真爛漫だったミー子がいつも醸していた、パパンとは異なる大らかな愛情、ママンと異なる静かなる慈しみのに気付けた。


 [――……]


 今この瞬間になって初めて気付かされたシャルルは、ほんの数秒だけミー子の瞳の向こう側をきょるんっと覗き込んでいる時――。


 「――シャルル……?」


 ドクンッ――激しく波打つ心臓の音が聞こえた。

 溺れ、溺れる、溺れて、沈む、沈んでいく――時間が徐々に遅くなっていくように奇妙な窒息感――苦しい――――!

 何とか呼吸の動きを見せる喉と口から零れるのは、[ヒューッ、カヒューッ、カハッ]、と空気が虚しく零れる音色。

 やがて視界すら霞み、全てが薄闇へと呑み込まれていく感覚に恐怖と苦痛に喘ぐしかない。


 「シャルル……! 私達は、ここにいるから……っ……最後までずっと……傍にいるから……っ……シャルル……っ」


 今この瞬間になるまでは一度も泣かなかったミー子が、透明な瞳から涙をポロポロと零しながら囁いてきた瞬間だった。

 今も痛くて苦しくて怖くてたまらなくて、胸の辺りがギュウッと絞られるような疼痛に脈打っているにも関わらず、僕の心は不思議な安らぎに満たされ始めた。

 ミー子の涙の言葉がけを合図に、シャルルを囲うように見守るママン、あの強面のパパンですら瞳を真っ赤に濡らしながらシャルルへ優しく、力強く呼びかけた。


 「シャルル!」

 「シャルル……っ」

 「シャルルー……」


 三人はひたすら呼び続ける。小さくて愛おしい命の名前――“シャルル”を。

 遠い彼方へと流されてゆくシャルルの意識へ必死に手を伸ばし、一秒でも呼び止めながらも、シャルルが痛みと苦しみから解放されるのを祈るために。


 ママン――……パパン――……ミー子――……。


 色褪せることなき黄昏のように温かな橙茶色の体は、ピンっと硬直してから、ごく自然に寝転がるように崩れ落ちた。


 澄んだ蜂蜜金の双眸は満月さながら大きく見開いた状態で虚空を見つめる。


 牙を剥き出しに開いた口の端からはが零れ、毛布を濡らしていった。


 悲しい静寂が時間と共に流れてゆく。


 静かなる慟哭へ背中越しに耳を澄ませているミー子は無言でシャルルへ手を伸ばす。

 ミー子の小さな手は、既に光を失った双眸の瞼をそっと下ろしてあげた。


 双眸を閉じたシャルルの顔は、ひどく安らかに見えた。


 ただ眠っているだけのように――。





***次回・エピローグ***

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