第7話『明けない夏の夜』

 “異変”は何の前触れもなく徐々に生じ、急激に襲ってきた。

 一昨日辺りからあまり喉が渇かなくなり、昨日の夜から今日の夕方の今、水は一滴も飲んでいなかった。

 今朝起きた時も尻尾の奥とお腹の下辺りに鉛が詰まっているように硬くて不快な膨張感も相まって、水だけでなく乾燥食ドライフードも口にする気になれなかった。

 一階にも設置されたトイレ場へも幾度か往復したが、出したいものは出せなかった。

 無理して踏ん張ると、腹の奥から硬く尖った鉛が体内で引っかかり、内壁を傷つけるような鋭い痛みに襲われ、か弱く唸ってしまう。

 吐き出すことも不快感を拭うこともできずにどうしようもなくなった僕は、毛布の上で大人しく蹲って、時が経つのを待つしかできなかった。


 「あなた! ミー子! シャルルの様子がおかしいの……っ」


 やがて僕の具合が悪そうなのに気付いたママンは、パパンとミー子を呼び出して異変を知らせてくれた。


 *


 八月二日・午後四時頃――。


 「これは、腎臓か尿に何かしらの異常が生じているのかもしれません。レントゲンを撮り、尿を採取して検査します」


 シャルルの不調にただならぬ気配を感じた猫屋敷一家の車によって、僕は藤森動物診療所へ連れて行かれた。

 僕を診てくれているのは、以前に僕の罹った尿路結石症の治療や巻き耳の奥の定期的な細菌洗浄等で色々とお世話になっているかかりつけ医の藤森先生だにゃ。

 暫く見ない内にまた白髪や皺は増えたが、眼鏡越しの穏やかに微笑む瞳や、猫が最大限苦痛を感じ辛い絶妙な力加減も優しい触れ方も変わらない。

 先生曰く、僕の急激な不調は食欲不振や元気消失、排尿をしなくなったことから、尿石症か腎臓に不具合が生じているらしい。

 先生は医療管を使って器用に僕の体から尿の一部を採り、カメラで腎臓の様子も調べてくれた。


 「シャルル……っ……辛いよね……っ……シャルル……っ」


 藤森先生に診てもらっている間、傍で見守っているママンは悲痛に顔を歪め、パパンは沈痛な面持ちで僕の背中を優しく摩り、二人の背後にいるミー子に至っては唇を噛みながら瞳から静かに涙を流していた。

 みんなってば、大袈裟だにゃー。以前、尿路結石症を藤森先生に診てもらった時みたいに、直ぐに治るのに。

 顔面蒼白で震えて泣いてまで、そんなにも僕の心配をしてくれるにゃんて。愛されすぎるのも考えものにゃね。おー、いててててっ。

 シャルルを心の底から案じる三人の温もりと眼差しに、安堵と共に苦笑を覚えながらも、シャルルは大人しく検査を受ける。しかし。

 

 「とりあえず、今日は膀胱に溜まりすぎた尿を管で出しました。先程飲ませたのは、尿内の結晶を溶解させる薬なので、お家でも飲ませてください。尚、今は難しいでしょうが、スポイトを使って飲み水とウェットフードを与え、なるべく水分を保てるようにしてください」

 「あの……先生、それでシャルルは一体、どこを悪くしているのですか? 検査から何か分かったのではないのですか?」

 

 シャルルへの帰宅後のケアについて丁寧に説明する藤森先生にママンは肝心な質問を投げた。


 「検査結果の解析には三十分の時間を有します。結果が分かり次第、直ぐにこちらから今日中にも連絡しますので」


 藤森先生の説明にママン達は納得しながらも、不安を抱えたまま僕を携帯鞄へ戻し、診察室を出て行く。

 すると助手を務める若い女性看護師――藤森先生の娘と入れ違った。

 ママン達と娘さんは互いに気付くと丁寧に感謝とお辞儀を交わした。

 ほんの一瞬、長い前髪で隠れかけている娘さんを、シャルルは鞄の空気網越しに見上げてみた。娘さんの両目は夜勤明けの看護師のように赤く充血しているのが分かった。


 *


 最近、“或る一つの事柄”を除いて、何もかもが上手くいっていない気がした。

 昔の私なら、自分の悪い所や弱い所を真剣に直そうとする気力すら湧かなかった。

 周りにはそんな私を我儘や自分勝手、怠け者だと軽蔑する者も少なくはなかった。

 きっとそれは正しい認識で、私は努力不足で間違っているのだろうと薄々感じていても、具体的な行動には移さなかった。

 そもそも、どうすればいいのか、悪い所の無くし方も、弱い所の直し方も私には分からなかったから。

 しかし、大人へ成長した今の私なら知識も知識を蓄える力も備わっているから、できるのではないか、と初めて自分を信じてみた。

 そして、紆余曲折と試行錯誤を繰り返した末に、遂に私は人生初めてと呼べる努力の成果を為したのだ。

 昔からお菓子も食べる事も大好きで、周りの女子よりもなせいで、男女からも馬鹿にされ、揶揄され、軽蔑されることの多かった私は“ダイエット”で痩せられた。

 親以外の人間に初めて「痩せたね!」、「綺麗になったね!」、と褒められた私は心の底から安心した。

 周りに馬鹿にされたり、煙たがられたりすることもなくなった。

 たとえ他の同僚とは能力的に劣ってはいても、痩せて綺麗なだけで、私の価値は簡単に認められた。

 心無しか職場のデイケアに通う患者さんの私を見る眼差しも話し方も優しくなり、私に冷たかったあの気難しい男性利用者さんも笑顔であいさつをしてくれるようになった。

 痩せて綺麗になった私は幸せで順調なはず――なのに、どうして、こんなにも無性に、のか。

 ようやく仕事にも人にも慣れてきて楽しくやれているのに、どうしてと感じてしまうのか――。

 仕事から帰宅するが、ママとパパと一緒に食事をすることはもうなくなった。

 食べる時間も違えば、風呂に入って眠る時間も、起きる時間も違うため、二人と言葉を交わすのは数えるほどで、ただ家の中で擦れ違うだけの共同生活。

 ママは何も言わないが、いつも私を心配そうに見ているのは知っていた。

 一方、パパはパパ達と一緒に食事やおやつを取る事も、パパが作った料理を食べなくなった私に苛立ちを燻らせているらしい。

 暗く険しい表情で俯き、不機嫌そうに舌打ちや文句を呼吸と共に漏らしているのが分かった。

 何故、パパはそれほどまでにイライラと怒り、ママは余分な心配ばかりを巡らせるのか理解に苦しんだ。

 私は痩せて綺麗になって、やっと自分に自信がついて、最初は悩ましかった仕事も人間関係もようやく軌道に乗り上げたというのに。

 それなのに――どうして、何かが欠けて満たされないと――虚しいと――嫌な感じがするのか。

 そういえば、ここ最近はシャルルに触って声をかけていなかった。

 ダイエットのための作り置き惣菜の仕込みやウォーキングに筋トレ、長風呂が日課になり、常に体を動かしていないと落ち着かないため、足を止めてシャルルと遊ぶ時間も余裕も無くなっていた。

 その変化にようやく自分で気付いた頃に、“不測の事態”は前触れもなく降りかかってきた。


 「はい、猫屋敷です。もしもし」


 八月へ差し掛かった真夏の夕暮れ時。

 百年獄暑によって焼き尽くされた大地から舞う熱の残滓を皮膚に感じ、薄い汗が膜を張っていく感触に辟易していたミー子は、藤森先生からの電話を取った。

 たまたまこの時は、シャルルに甲斐甲斐しくウェットフードをゆっくりスポイトで微量ずつ食べさせていたママン、外で煙草を吸いながらペル吉達と黄昏たそがれていたパパンに代わり、手の空いていたミー子が着信に応じた。

 そのまま先生の説明を聞くことになった。


 「それって、つまり……」


 顔も見えない受話器越しであっても、藤森先生の不自然に静かな息の音、言葉を一つ一つ丁寧に選びながら話す様子から、ミー子はただならぬ雰囲気を感じ取った。

 丁度、三年前程までミー子を苛んでいた不安発作の時に似て非なる心臓辺りの冷感――嫌な予感が蘇ってくるのが分かる。

 しかし、あの不安発作と決定的に異なるのは、自分でも恐ろしいほどに自分の心が鎮まり澄んでいく感覚――。


 「もう、時間は残されていない――ということですか……?」


 静かに問い返すミー子に対して、藤森先生はほんの数秒、痛ましげな沈黙の後に「……はい」、と肯いた。

 ミー子への返事を合図に、藤森先生自身も迷いは許されない、と覚悟を決めた様子で説明してくれた。


 『最悪、にも危ないです……そこで持ち直せるかどうかにもよって』


 藤森先生が零した突然の予期せぬ宣告。ミー子は頭へ広がっていく動揺の波涛はとうに反して、心が冷ややかに冴え渡っていくのを感じた。

 同時にシャルルが危篤な状態で時間もあまり残されていない中、藤森先生が検査結果の説明を三十分も先延ばしにしたこと。

 入れ違いで診察室に戻ってきた看護師の瞳が赤くなっていた理由。全て合点が付いてしまった。

 あれから藤森先生は今のシャルルの状態について、簡潔かつ具体的に説明してくれた。

 猫は腎臓病になりやすい動物だが、シャルルの場合は元々片方の腎臓が小さめで、現時点で両側の腎臓は萎縮してかなり弱っているらしい。

 腎臓は体内の電解質バランスと血圧の調整、血液中の余分な塩分や毒素を濾過して尿として体外へ排出するのに重要な機能を担う。

 腎臓が弱った状態で尿内に結晶が発生すれば、『尿路結石症』でオシッコを出すことも難しく、激しい苦痛を伴う。さらに血液中体内に毒素が溜まったままになれば、『尿毒症』を合併し、重篤な多臓器不全を引き起こし、最悪――すら危ぶまれる。


 「その……私達がシャルルにしてあげられることは、ないのでしょうか……」


 本来はあべこべな気がする。思考の方には『シャルルが死ぬかもしれない』、という受け入れ難い未来に対する激しい動揺が広がる一方、心の方は異様に落ち着き払っていた。

 藤森先生は診察時にくれたのと同じ助言として、なるべく水とウェットフードを与えて水分不足を防ぎ、少しでも排泄を促すことに加えて……。


 『きっと辛くて、心細いでしょうから、……』


 やはり藤森先生は優しい医師ひとだ。

 きっと連絡するまでの三十分間、私達へかけるべき言葉を考え、悩み、意を決して伝えようとしていた。

 入れ違い際に見かけた看護師の娘さんもシャルルの余命を悟り、私達とシャルルの気持ちを想って泣いてくれたのだろう。

 藤森先生からの言葉を最初に聞いたミー子は、真っ先にパパン、そしてママンの順番に現状を説明した。

 最初は信じられなかったパパンは電話口で藤森先生に聞き返し、幾つか質問をしていた。


 「嘘……嘘でしょう……っ? だって、シャルルが……っ……ぅ……っ」

 「先生が言うことは、間違いない、のか……?」


 パパンは動揺する心だけを置いてきぼりにして、藤森先生の言葉の意味を理解するしかなかった。

 呆然とするパパン、冷静に佇むミー子を他所に、ママンだけが涙を流して取り乱し、電話口に出る所ではなかった。

 一階の檻の毛布で今もグッタリと横たわるシャルルの頭から背中を優しく撫で、涙に濡れた鼻先や唇を擦り付けるママン。

 どうか行かないで、と縋る小さな子どものように悲しい泣き姿は、一層パパンとミー子の胸を締め付けた。


 *


 うーん、うーむ……むぅ……やはり出そうなのにどうしても出せないにゃ。

 相変わらず残存する下腹部の膨張感、鉛を詰め込まれているような鈍痛、時折四肢に感じる激痛手前の不快な脈動感に苛まれているシャルルは、手も足も出ない状態が続いていた。

 かつて味わったことのない重い不快感と小さな鈍痛に思考を邪魔され、その正体も原因も分からないままでも、シャルルの中でハッキリしている事柄はあった。

 水も食物も喉を通らない感覚、藤森先生の神妙な表情、そして悲壮な大気を纏った猫屋敷家一同のせわしない様子から、シャルルは己の身に良くないことが起こっているのを自覚し始めた。


 「おいでシャルル。しっかり飲んでね」


 藤森動物診療所から帰宅してから、ミー子は三十分ごとに僕の口の中へこまめに水を与えてくれる。

 細長い透明なスポイトの先端を歯の隙間へ素早く差し込み、後部をぎゅっと摘むと、押し出された水滴を舌が反射的に舐め取った。

 水は飲みやすいようにわざわざ一度沸騰させ、カルキ臭を緩和させてくれたのか、いつもより瑞々しく澄んだ味がした。

 ウェットフードもいつものご飯よりもかなり薄味で淡白だったが、この二日間まともに食べられていない僕には十分味が舌へ染み渡るよう。

 水もウェットフードも、今の僕の体を良くするためには必要なことらしい。

 しかし下腹部の膨張感のせいか、食欲はまったく湧いてこないし、自分で水を飲む気にもなれなかった。

 スポイトで水とウェットフードを舐めさせてくれるミー子の指をつい反射的に噛んでしまうこともあった。

 それでもミー子は僕の不調を理解しているのか、僕を言葉で叱ることは一度もなく、「よしよし、いい子。偉いよ、シャルル」、と穏やかに褒めて頭を撫でてくれた。

 出逢った頃から今でも、ミー子は温和な性質だからか、最近パパンに苛立ちや反抗心を芽生えさせても、負の感情を僕へ向けることも叱りつけることもなかった。

 今頃になってほんの少し理解できた気はする。

 ミー子はただの無邪気でふざけているだけのというわけでない。

 きっと世界やそこにあるモノ(猫もそうだ)を見つめる眼差しも、そこに宿る心もを映す鏡のように、硝子のように曇りなく澄んでいる人間なのかもしれない。

 だから今の状態の僕を前にしても、以前と変わらない慈しみの温もりで僕に触れてくれる。

 ただ以前のようにふざけたり、一方的な重い愛情表現を押し付けたりする気配は一切無くなっている。

 今の僕を少しでも早く楽になれることを願って、ミー子は三十分おきに僕に水とウェットフードを舐めさせる役割を果たしていた。


 「シャルル……ああ、可哀想に、シャルル……辛いよね……っ」


 水とウェットフードを与え終えたミー子と入れ替わりで、ママンがシャルルのいる檻へ身を乗り出して入った。

 今もグッタリ蹲るような姿勢から手足を動かすのも辛く、檻の中から一歩も動かないシャルルをママンは悲痛な面持ちで見つめる。

 いつも穏やかで慈愛に澄んだママンの瞳は、かつてシャルルが去勢手術を受けた時と同じか、それ以上の悲しみに濡れている。

 優しいママンのことだから、本当は苦しむシャルルを抱きしめてあげたくてたまらないのだろう。

 しかし、体を動かすのも辛いシャルルを想い、ただ泣きながら傍で声をかけ、優しく撫でてやることしかできないもどかしさに一番苦しんでいる。

 ママンの場合、手先が不器用でスポイトの使い方がよく分からないことに加え、持つ指が震えておぼつかないためだった。

 口に差し込まれるスポイトから反射的に顔を背けて嫌がり、滴る水をやむを得ず舐めとる。

 それでも時折軽く咳き込んでしまい、水を辛そうに飲むシャルルをママンはとても見ていられなかった。

 必要なことだとはいえ、シャルルが少しでも辛そうにする行為を優しいママンは自分の手では到底できない。

 代わりにミー子が主になって水とウェットフードを与え、藤森先生からの電話の説明を聞く役割を担っている。

 こうした様子からも、ママンの深い動揺と悲しみをシャルルもひしひしと感じられた。


 「シャルルの様子はどうだ?」


 外で煙草を吸っていたパパンは家の中へ戻ると、ミー子にシャルルの容態を確認してきた。

 ミー子は「水も餌もちょっとずつ与えているけど、やっぱり未だぐったりしているよ」、とありのままの事実様子をパパンへ報告する。

 パパンはママンの隣へ滑り込んでシャルルのもとへ近付くと、「よーしよし、シャルル。早く良くなってくれよぉ」、と無骨な手でシャルルの頭を強めに撫でてやる。

 ミー子ですらふざけなくなった状況で軽口を叩いているのはパパンくらいだ。

 パパンは辛い時の方が軽口の増えることをミー子もママンも知っていたし、パパンの声が何かを堪えるような優しげな色を帯びているのに気付いていた。

 それでもシャルルの様子を一通り瞳で確かめた後は再び今を離れ、プラモデル製作室へ引きこもってしまった。

 微かに耳を澄ませると、野良のペル吉とチビの気配とか細い鳴き声、二匹に声をかけるパパンの声が聞こえてきた。

 パパンの様子を扉越しにぼんやり見ているミー子の背後から、ママンの吐き捨てるような声が聞こえた。


 「あの人ったら……どうして、あんな野良達と一緒にいるの……? シャルルがこんな状態で、心細いのに……きっとシャルルはあの人にも傍にいて欲しいはずなのに……っ。“こういう時”、あの人は……っ」


 やるせない表情でパパンの出て行った方向を睨んでから、手に触れているシャルルへ憐れみの眼差しを戻すママンにミー子はただ口を噤むしかなかった。

 ママンの言いたい事も腹立たしい気持ちだけでなく、シャルルを少しだけ避けているパパンの葛藤もミー子には容易に想像できた。

 パパンは大切な存在が目の前で苦しんでいると、たまらなくなる。

 しかも、その存在を楽にしてあげられる術もない無力な自分への不甲斐なさに耐え切れないパパンが真っ先に選ぶのは、“逃避”だった。

 今までならシャルルの耳掃除や爪切りまで器用にこなし、面倒を見てきたはずのパパンではなく、冷静なミー子が水と餌やりを担っている理由もパパンの気持ちの問題にあった。

 最初はパパンがママンに代わって今のシャルルに水と餌を与えようとした。

 しかし、シャルルを押さえつけるパパンの凄まじい力加減、反射的に歯を立てて抵抗するシャルルに「じっとしていなさい!」、と叱るパパンの剣幕にシャルルが萎縮してしまったからだ。

 パパンは耳掃除の時でもシャルルに反抗されると「こらぁっ!」、と声を荒げながら軽く頭を叩いたり、ぐっと押さえつけたりする癖が出てしまったのだ。

 パパンのシャルルを喪うかもしれない動揺や、何かしてあげなければという焦燥、救ってあげるための方法がないという受け入れ難い現実への怒りは強い苛立ちを生んでいた。

 今の自分はシャルルに何もしてやれないどころか、具合の悪くて辛そうなシャルルに余計な怯えや負担ストレスを与えてかねない、と思ったパパンは背けたくなったのだろう。

 ミー子だけではなく、きっとママンも今のパパンの心境も理解しているだろう。

 だが、今この危機的状況においては、わだかまりを抱えているママンも『残り少ない時間』も、パパンに甘えや逃げを許してくれない。

 藤森先生が危惧している通りであれば、恐らく早くとも夜中辺り、遅くとも明日の昼間辺りが峠なのだ。

 実際に藤森先生の忠告は現実となったのだ――。


 *

 八月三日・午前二時頃――。

 ――……ドクリッ――ドクリッと体の内奥のどこかが異様に脈打つのを感じた。

 しかしそれは、生命を維持させる健やかな音色とは程遠い、どす黒く淀んだ塊がドロリと身体中の管を流れ、やがて鬱積した醜い塊を形成していく。


 [っ……ぁ、にぃ……あ……にぃああぁぁ……っ]


 ひどく不快で耳障りな感覚を放つ“ソレ”が侵入した気配と居所を自覚した時には、全てが手遅れだった。

 後は、ただひたすら、自分の五体を蝕み、想像を絶する激痛に喘ぎ苦しむ自分を嘲笑う“ソレに全てを蹂躙されるのみ――。


 [にゃあぁ……っ! にゃあぁあぁあ……! にゃあーーーー!!]

 「シャルル……!? まさかっ」


 熱帯夜による脱水を考慮した温度で冷房をきかせ、冷房機による乾燥防止のために調整型加湿器も点けた一階の居間に、甲高い苦悶の鳴き声が響き渡る。

 ミー子達三人は、シャルルの檻の前で床に布団を敷いて居座り、ほぼ寝ずの番でシャルルを見守っていた。

 夜もシャルルを見守りつつ、万が一寝てしまっても直ぐシャルルの異変に気付くためだ。

 提案者であるミー子はほんの一時間ほど寝落ちしていた所で、シャルルの苦しげな鳴き声、と泣き縋るママンの声に起こされた。


 「シャルルが……さっきから苦しみ出して……しかも、シャルル……が……っ」


 眠気の失せた眼にシャルルを映した瞬間、ミー子は藤森先生の言っていた通りになってしまった現実に動揺が内部で静かに波紋するのを感じた。


 [にゃ……っ……にゃっ、にゃあぁーっ(う……っ……うぁっ……うあぁあぁぁ……っ!)]


 痛い! 痛い痛い痛い……! 苦しい、苦しい苦しい苦しい……!

 人工的な清涼感に包まれた深夜、既に限界近くへ達している下腹部とお尻辺りの膨張感と窒息感に、排泄欲を促された僕は、自然と前へと踏み出した。

 以前よりもままならなくなった足をよろめかせながらも、一階のトイレを目指して這い擦っていこうとした瞬間だった。

 あまり力の入らなくなった後肢にかけて激しい痛みが雷のように襲ってきた。

 後肢の内側の血管をぎゅうっと締め潰されるような耐え難い痛みに、苦悶の悲鳴を漏らさずにはいられない。

 その場で崩れ落ちたシャルルをそっと抱き上げ、毛布の上へ寝かせてあげたママン。


 「ああ……! どうしよう、シャルルが……一体どうすればいいの……!? こんなにも痛そうにして苦しんでいるのに……っ」


 しかし、痛そうに泣きながら四肢を震わせてのたうち回るシャルルを前に、ミー子達は為す術もなく、ただ狼狽えるしかなかった。

 たまらずママンはシャルルの名前を必死に呼びかけながら、そっと背部へ触れてやる。

 シャルルは痛がる後肢と近い背中と腰辺りを優しく撫で上げてやると、幾ばくか痛みが和らぐ感覚に安心する。

 しかし、ママンの与える安らぎもほんの一瞬しか続かず、数秒前よりも増した鋭い痛みに再び襲われる。

 痛い、痛くて苦しいにゃ……。

 まさか僕が今になって早く思い知ることになるとは予想つかなかった……。

 しかも、こんな……耐え難い苦痛が待ち受けているとは――。

 かつてペル吉先輩とチビ子と話した『亡きフロイド氏』も、これほどまでに辛い痛みと恐怖に苦しみながら死んでいったのだろうか――。


 死とは痛みと苦しみを伴うもの――。


 偉大なる叡智を誇るフロイド博士は死の苦痛にどう立ち向かったのか、死の運命を前にして何を思ったのだろう――。

 もしも、残された猫の誰か一匹でも、その瞬間の境地を聞き継ぎ、ペル吉先輩を経て僕にも教えられていればよかったのに。

 そしたら、せめて痛みと恐怖、とそれに独りでもがき苦しむという冷たい闇の水底へ深く沈んでいくような孤独を味わう中。

 せめて、心穏やかに保つ術を持てたのかもしれないというのに。今更悔やんでも悔やみきれないにゃ……。

 ああ――もはや痛みの感覚すら小さく、遠のいていく――これがというものだろうか――。


 「っ――シャル、ル……?」


 わずか数分程、けれど一時間程永く、不安と恐怖、悲しみに押し潰されそうな心持ちで見守っていたミー子達は固唾を呑んで沈黙した。

 最初にミー子がそっと近付きながら手を伸ばした先には、先程までジタバタと動かしていた手足を床の毛布について蹲るシャルルがいた。

 シャルルを苛んでいた後肢の急激な痛みは消えたらしく、シャルルは苦悶の鳴き声も漏らさなかった。

 ミー子の手がシャルルの頭をそっと優しく撫でた瞬間、指先へ伝わってきた感触にミー子だけでなく、傍で見守っていたママンは涙を浮かべ、パパンは大きく溜息を吐いた。


 *


 一階の窓越し外を見れば、黒い夜は空けて空はすっかり朝色へ白んでいる。しかし、夏の夜は短いため、実際はまだ午前四時前だった。

 今度はミー子が早朝から藤森先生と電話で言葉を幾つか交わした後にパパンが替わった。とある一つの“選択”はパパンに委ねるのが適任だと思ったからだ。


 「はい……結局、ウチの子は何とかんです。だから……」


 今から二時間前――昨日の昼間から同じ場所でずっと蹲っていたシャルルは、いつのまにか自力で床を這って檻の外へ出ていた。

 肉球と爪の先が示していた方向から、シャルルが一階のプラモデル製作室前に置かれた猫用トイレを目指していたと推測できる。

 しかし移動の途中、シャルルは後肢が激しい痛みに襲われ、藤森先生の忠告した“命の危険”の淵へ立たされていた。

 藤森先生曰く、シャルルの体には腎不全によって引き起こされた血圧異常が原因で血栓が生じているらしい。

 血栓が一部の血管に詰まり血液が行き届かなくなったせいで、後肢は麻痺と激痛に襲われたのだ。

 幸いか否か、後肢の血管に血栓がつまり、血流滞留も一時的な発生で済んだおかげでシャルルは、今朝は

 もしも、血栓が重大な臓器――心臓に詰まっていれば確実に“死”は避けられなかっただろう。

 奇跡の範疇に含まれるか否かは兎も角、今朝の太陽を目にすることも怪しかったシャルルが今も生きるために踏ん張ったという事実は、パパンとママンに一縷の“希望”を与えた。


 「パパ……行ってくるのね?」


 既に朝陽が燦々照りの午前六時頃。

 商業施設が開くには明らかに早すぎる時間に玄関で靴を履き、財布をズボンのポケットへ押し込んで扉を開けようとするパパンの姿を見た。

 確認を取るミー子にパパンは「直ぐ戻る。シャルルを頼んだぞ」、と短く零すと直ぐに飛び出した。

 表面上は淡々と構えているが、逸る思いを閉じ込めているような広い背中を、ミー子は全てを悟った静謐の眼差しで見送る。


 「偉いわ……本当にいい子ね、シャルル。ママ達もついているから、もう少し頑張って……っ」


 今も食欲不振でぐったりしているままだが、幸いあれからは血栓詰まりによる発作的な痛みは起きていない。

 シャルルの瞳は澄んだ色でママンを映していた。

 昨日まで悲壮で暗かった表情は、ほんの少しだけ明るさを取り戻し、瞳は赤く濡れていたが、不安を上回る希望が灯っていた。

 シャルルを見つめ、触れて、語りかけて慈しむママンの姿を見守りながらミー子は思った。

 ママは“希望”を捨てていないんだ。

 きっと愛しい我が子シャルルなのだ、と。

 死の境の夜朝を乗り越えられたシャルルなら、やがて回復して生きられるという“奇跡”を信じているんだ。

 先程、シャルルを苦痛と死の侵蝕から救ってくれるかもしれない注射剤をもらいに、藤森先生のもとへ駆け馳せたパパも同様に。

 もちろん、娘のミー子も希望と奇跡を信じている。

 ただ、パパンよりも先に藤森先生から説明を受けたミー子は同時に不安と微かな“疑念”を抱いていた。

 それでもミー子は薄々勘づいている一つの疑念を決してママンとパパンの前では口に出さないことにした。


 ただ、二人を突き落とすような真似を避けたいだけではない。


 もしも、口に出してしまえば、疑念は“現実”となってしまう――。


 ミー子はそんな予感に襲われたからだった。




***次回・最終話***

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