その蝶が彼に向かって飛ぶ理由

くれは

小さい黄色い蝶の知らせ

 入学式の朝、玄関前でクラスを確認して、教室に向かう。中にはすでに何人かの生徒がいて、それぞれの席に座ってぼんやりしたり近くの人とお喋りをしたりしていた。

 開け放たれた窓からふわりと埃っぽい風が流れ込んでくる。その風に流されるように、蝶がはらはらと羽ばたいていた。小さな黄色い羽の蝶。

 その蝶はふわふわと漂いながら一つの机の上に降り立って、すうっと羽を閉じた。わたしは教室の入り口でぼんやりと、その蝶を目で追ってしまっていた。

「入らないの?」

 突然にそう声をかけられて、振り向く。真新しい制服に身を包んだ知らない男子。わたしが突っ立っているから入れないんだ、と気付いた。

「あ、ごめん、入る」

 慌てて謝って、教室の中に入る。蝶が羽を休めている机の前に立つ。なんでこんなところで、とぼんやりと眺めてしまった。

 わたしの後から教室に入ってきた男子は、黒板の前で少し足を止めてから、わたしの方にやってきた。わたしの隣に立つ。

「そこ、俺の席だけど」

「え」

 顔を上げれば、彼は困ったような顔をしていた。その向こう、黒板にチョークの線で四角が並んでいるのが見えた。その四角の中には生徒の名前が書かれているらしい。そうか、黒板で自分の座席を確認するんだ、と気付く。

「あ、ごめん、えっと」

 ちらりと見れば机の上の蝶は消えていた。なんの知らせだろうと少しだけ思ってから、目の前の男子を見る。彼は何度か瞬きをしてから面白そうに笑った。

「緊張してる?」

「そう、かも」

「俺も。でもなんか今ので気が抜けた。ありがとう」

 その男子はそう言って、柔らかく微笑んだ。冷たい空気を緩ませる春の日差しのような──自分の行動が恥ずかしくなって、わたしはうつむく。

「ごめん、本当に」

 もう一度、小さく謝ってから、わたしは彼の脇をすり抜けて黒板の前に立つ。自分の席を確認する振りをして、教室内を見回す。さっきの黄色い蝶は、もう見えなかった。




 わたしには時々、蝶が見える。本物の蝶じゃない。季節も場所も関係ないし姿形も様々だ。その蝶はいつの間にかそこに飛んでいて、そしてふっと消える。

 きっと物心つく前から見えていた。幼い頃のわたしはしょっちゅう何もない宙を指差しては「ちょうちょ」と言っていたくらいに蝶が好きだったらしいから。

 その頃のわたしは、きっとただそこに飛んでいる蝶の話をしていただけだ。その蝶が他の人には見えないのだと理解してから、わたしは蝶が好きな女の子じゃなくなった。

 その蝶が、何かが起きる予兆なのだと気付いたのは、もっとずっと最近のことだ。それで「虫の知らせ」という言葉を知って、きっとこれはそれなのだと思った。

 良いことも悪いことも、規模も様々な何かの予兆。熱を出す前日の夜に目の前をふわふわ飛び回られて邪魔に思ったこともあるし、蝶を追いかけて家に帰ったら貰い物のケーキが待っていたこともある。はらはらと飛んだ蝶が友達の肩に留まった翌日に「合格した」と教えてもらったこともあった。

 どんなことが起こるかもわからないので、良くないことを回避するような便利な使い方はできない。何かが起こるときに必ず現れるわけでもない。つまり、わたしに見える「虫の知らせ」は役に立たない。

 だからわたしは、できるだけ蝶を無視するようにしてきた。わかっても何もできないんだから、と。

 そう思っていたし、ずっとそうしてきたのに。入学式の最中に校長先生のお話を聞きながら、わたしは小さく溜息をついた。初日から失敗した気がする。きっとあの男子の言う通りに、緊張してたんだと思う。

 それでふと、あの蝶はなんの知らせだったんだろうかと、少し前に座る彼の後ろ姿を眺めた。

 わたしが変な行動をして迷惑をかけたというのに、彼はそれを気にした様子もなく笑っていた。そんな彼にとって、何か悪い知らせじゃなければ良いな、と思う。気にしないようにしていても、悪い知らせはやっぱりしんどい。せめて良い知らせでありますように、とその後ろ姿に念じておいた。




 学校生活の中、その小さな黄色い蝶はたびたびその姿を見せた。そして、普段は蝶が現れても見ないようにしているのに、はらはらと不安定に羽ばたくその色を見るとつい視線を向けてしまう。その蝶が向かう先にはいつも彼の姿がある。

 それでわたしは慌てて視線を逸らすのだけど、何回かに一回はふと振り向いた彼と目が合ってしまっていた。彼にはきっと、変に思われている気がする。

 それでもその蝶が姿を見せると、わたしはそれを目で追ってしまう。その先にいるのは彼だって、もうわかっているのに。




 夕方の廊下をはらはらと飛ぶ小さな黄色い蝶を見て、わたしは溜息をつく。傾き始めた陽の光の中で頼りなさそうに飛ぶその蝶は、どうやらわたしの進行方向に向かって進んでいるらしい。

 ゴールデンウィークの連休前、机の中に置きっ放しにした課題プリントの存在に気付いて、帰宅途中で慌てて引き返してきたところだった。どうせ出てくるなら忘れ物しないように知らせてくれたら良いのに、と思ってしまった。

 それから、このまま行くときっと顔を合わせることになるだろうな、と考える。もう少し時間をおいてから行こうかと迷って、窓から差し込む光の傾き具合を見てあまり遅くなるのは嫌だからと言い訳をして、わたしはその蝶を追いかけた。

 蝶は教室のドアにぶつかって、そのままふわりと消えた。蝶はきっと教室の中だ。彼と顔を合わせたくないのか、それともいることを期待しているのか、自分でもわからないままドアを開ける。

 教室後ろのロッカーの前に立っていた彼が、少し驚いた顔でわたしを振り向いた。

「びっくりした」

 そう呟くその肩に黄色い蝶が留まっている。

「あの、ごめん」

 わたしはうつむきながら、悪い知らせじゃありませんように、とこっそり念じていた。

「いや別に大丈夫だけど。忘れ物?」

「そう、あの、気付いて慌てて」

「俺もジャージ忘れちゃって。気付いて、連休中洗えないとかヤバいって、慌てて」

 いるとわかっていたはずなのに、わたしは動揺して教室の入り口で動けなくなってしまった。彼が不思議そうな声を出す。

「入らないの?」

「あ、入る。ごめん」

 慌てて動き出して、自分の席に向かう。彼はロッカーの扉を閉めて、自分のリュックを背負って、でもまだ歩き出さずにわたしを見ていた。その視線に気付かない振りをして、机の中に置き去りにしていたプリントを鞄の中から出したファイルに挟み込む。

「なんか俺、謝られてばっかりな気がする」

「え、そうかな、ごめん」

 そう言ってから気付いてしまった。確かに「ごめん」て言ってしまっている。思い返せば入学式の朝のあの時から、わたしは彼に対して謝ってばっかりだ。

 蝶のせいだ。あの小さな黄色い蝶のせいで、わたしは彼の前でおかしな行動ばっかりしてる気がする。そのせいだ。

 わたしがまたうつむいてしまうと、彼は笑い出した。

「謝らなくても良いよ。別に何も悪いことしてないのに」

「あの、でも……」

 声を出してはみたけれど、何を言って良いのかわからない。そのまま黙ってしまったわたしに、柔らかな声が届く。

「帰らないの?」

「あ、ごめ、あ、えっと、帰る、けど」

「行こうか、暗くなる前に」

 それでどうしてだか、わたしは彼と並んで帰ることになった。同じ電車に乗って、途中の駅まで。

 電車を降りる直前に「またね」と声をかけられる。赤い夕陽のホームに降りて振り返る。

「えっと、また」

 そう言って手を振れば、閉まったドアの向こうで、彼も笑って手を振った。




 連休が終わって体育祭の日、彼の腕に留まったのはいつもの小さい黄色い蝶じゃなかった。黒と淡い青い色のまだら模様の蝶はとても綺麗だったけど、いつもと違うことがなんだか不安だった。

 男子の騎馬戦がもうすぐで、彼もそれに出場する。集合のために何人か立ち上がって、みんなで歩いてゆく。まだら模様の蝶はまだ彼の右肘で羽を休めていて、わたしも立ち上がって彼を追いかけた。

 席から離れたところで、数人で話しながら歩いている彼の名前を呼ぶ。彼と、一緒にいたクラスメートも、びっくりした顔で振り返る。自分が何も考えていなかったことに気付いて、言葉が何も出てこなくなる。

 彼はクラスメートに「すぐに行くから」と言って、わたしの前に立ってくれた。

「どうかした?」

 わたしは彼に留まっている綺麗な羽を見る。ざわざわと落ち着かない。きっとこれは悪い知らせだと思って、彼を見た。

「その……気を付けて」

 彼がびっくりしたような顔のまま瞬きするのを見て、自分の言葉の唐突さを自覚して、うつむいてしまった。

「それを言いに来たの?」

「あ、その、ごめん」

「だから謝らなくて良いのに。今ので良い感じに力が抜けたよ、ありがとう」

 彼はそう言って笑うと、走ってクラスメートを追いかけた。




 競技中、彼の騎馬が転倒した。彼も含めて何人かが救護テントに向かう。みんな自分で歩いていたからそんなに酷い怪我じゃないんだろうけど、彼はそのまま席に戻ってこなかった。心配で、わたしはそっと席を抜け出した。

 救護テントに向かう途中で、目の前を小さな黄色い蝶が横切った。その蝶は、はらはらと救護テントとは反対に飛んでゆく。わたしはその蝶を追いかける。

 グラウンドから離れた校舎の陰で、彼はぼんやりと座っていた。彼の右肘には大きなガーゼがテープで固定されていた。他にも腕や足に何箇所か絆創膏が貼られている。その肩に黄色い蝶が留まって、すうっと羽を閉じた。

 隣に立つと、彼はちょっと困ったような顔をした。

「サボってるのバレちゃった」

「ごめん、心配で」

「謝らなくても良いけど……少し一緒にサボらない?」

 わたしは少しためらってから彼の隣に座る。戸惑うわたしに、彼は微笑んだ。

「心配してもらえたのは嬉しいよ、ありがとう」

 その柔らかな表情を見て、わたしはその小さい黄色い蝶がなんの知らせだったのか、ようやく気付いたのだった。




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