消えた桜猫のゆくえを追って。

羽鳥(眞城白歌)

黒い獅子は、桜色の猫を捜して。


 ほぼ毎日訪ねてきていた彼女が、突然に来なくなって一週間。

 ずっと、気になっていた。


 商業を中心に発展してきた交易都市は多くの技術と知識が結集する一方で、人の出入りも激しい。政府側も治安維持に注力しているが、交流が活発なぶん異分子の侵入も増えるわけで。特に人いの魔族ジェマ、あいつらは最悪だ。法も倫理も通用しない上、耳を隠されれば人間族フェルヴァーと区別しにくい。

 特にその日は朝から、嫌な予感がしてならなかった。

 俺たち獣人族ナーウェアは他の種族に比べ、五感を超えた感覚――第六感を頼りにすることが多い。理論や根拠などなくとも、やばいと感じればはやばい事態なのだと本能的に察知するのだ。そんな俺の第六感が今は最大級のアラームを鳴らしていた。


 魔法の素養が低い俺に、魔法の源であるという精霊の姿は見えない。

 だが、彼女は精霊たちを愛していて、精霊たちも彼女を愛しているようだった。だとすればこれは、精霊たちが彼女の危機を知らせているに違いない。そう思えばもう仕事など手につくはずがなかった。

 暖かさを増し、緑が増えゆく季節。野外はもう上着など必要ないだろう――そう思って外へ出、工房の戸締りをするときに、一瞬だけ最悪の想像がよぎるも、振り払う。余計なことを考えすぎると、それが現実になる気がして。

 結果的に、俺はこの予感に目を瞑ったことを後悔するわけだが。獣人族ナーウェアならやはり、思考よりも直感を重視するべきだったのだ。




 人型形態時の二本足は思うように距離が稼げず、街中を駆けずり回りながら俺は内心で何度も悪態をついた。獣形態――黒い獅子の姿であれば、ずっと早く走れるのに。

 しかし、獣人族ナーウェアの変身は肉体のみ、人型時より大きな獅子の姿になれば、当然衣服は破れてしまう。家なら脱いでから変身すればいいが、ここは往来だ。できるわけがない。

 雑念が頭を占めていると、勘も鈍ってしまう。一度足を止め、風の音に耳を澄ます。俺の目に見えないとしても精霊たちは至るところにおり、いつも話しかけているのだと、彼女はよく言っていたからだ。


 俺たちの耳を覆う柔らかな毛は、ただの飾りではない。風のそよぎ、温度や湿度のわずかな変化、遠方で起きている物音。それらを感覚としてとらえるアンテナになる。

 耳をそばだて、心を研ぎ澄ます。根拠など、今は必要ない。思考は放棄し、直感が告げる方角へ走り出す。

 胸の奥がざわついていた。

 聞こえるはずもない悲鳴を聞き、見えるはずもない、桜色の目を潤ませ震える彼女を見た気がした。一歩の距離が物足りない、全身が急げと告げている。迷いを捨て、姿を変化させる。二本足の人型から四つ足の獅子へと。


 闇の揺蕩たゆたう路地裏が、俺を呼んでいた。声ではなく、音でもなく、無論手招きが見えたのでもなく。闇属性の俺にとって、闇は味方だ。の目を避けて行われる悪事も残虐行為も、闇精霊は決して見逃すことはない。

 近づくにつれて、明瞭になる。確かな音として耳がとらえた。男のおぞまましい息遣いと、舌鼓み。時折り混じる、殴打の音も。

 眩暈がするほどの怒りが湧きあがり、たてがみが逆立つのを感じる。飛び込んだ先で、体格の良い魔族ジェマ男が小柄な女性をいたぶっていた。いつも上品な装いで店を訪ね、教本で胸元を隠しながら俺の作業を覗き込んでいた彼女は今、無惨に衣服を引き裂かれ、腫れぼったい赤みを白い肌に散らしている。

 人生ではじめて芽生えた殺意に頭が真っ白になり、俺は本能に身を任せ魔族ジェマ男に飛び掛かっていた。




 やはり上着は持ってくるべきだった。そうすれば、心も身体も傷つけられた彼女を包んでやれたのに。

 猫姿になった彼女をたてがみの中に隠し、気まずさをこらえて家に連れ帰った俺は、ろくに片付けていない風呂場に彼女を案内する羽目になって後悔した。風呂場と洗面所に工房から直接入れるようにしていたのは、幸いだったかもしれない。

 怯えて弱っている彼女を一人にさせるのは忍びなく、しかし付き添うわけにもいかず。脱衣所に置いて戸を閉めてから、俺は工房の奥で人型に戻り服を着て、外の水場で手だけでなく頭と顔も洗った。

 流れる水に返り血が溶け出し、怒りと殺意が再燃するのを必死に抑える。

 それから大判のタオルを手にして風呂場に声を掛け、ずぶ濡れ猫姿でよろよろ出てきた彼女を包んで抱え、私室へとつれていった。


 温かい湯に浸かり、髪も身体も丁寧に洗えたからだろう、さっきよりは落ち着いたように見える。我慢強く遠慮がちな彼女のことだから、無理をしているのかもしれないが。

 さすがに女性ものの服は持っていないので、俺のものを貸すしかない。クローゼットを探し、まだ袖を通したことのないシャツを見つけだした。毛織りで肌触りがよく、丈もそこそこ長いから、小柄な彼女なら太腿までは隠れるはずだ。

 下着は貸せないし、ズボンは絶望的にサイズが合わない。誰かに持ってきてもらうにも、勝手に卒業校へ連絡するのは駄目だろうと俺の勘が囁く。ひとまず手当てをしてから、彼女自身に連絡したい相手を聞くほうが良さそうだ。


 彼女が人型になり服を着ている間に、俺は医療品箱と薬瓶をかごに詰めて部屋の前に起き、台所へ向かった。

 小鍋に入れたミルクを焜炉に乗せ、蜂蜜とブランデーを加えて少しの時間温める。酒精が飛んだ頃合いで火を止め、自分用のカップと客用のカップに注いで部屋へ戻った。軽く戸を叩いて返事を確かめてから、部屋に入り、ソファの上に縮こまっている彼女へホットミルクを差しだす。


「あったまるぞ」

「はい。いい香りがする……ありがとうございます」


 未使用だとはいえ、サイズの合わない黒い男物のシャツを着た姿は非常に心臓に悪い。今はもう泣いていないが、白い肌には色づくような赤みが残っている。

 彼女が深く湯気を吸い込んで形の綺麗な猫耳を下げ、表情を綻ばせながらミルクを飲み干すのを、俺はつい食い入るように眺めていた。視線に気づいたらしく彼女が俺を見たので、当然目が合う。


「遅くなって、悪かった」

「えっ……いえ、あの、まだ! だ、大丈夫だったのです! 私、嬉しかったです」


 瞳に過ぎった動揺は、しかし絶望の色ではなくて。少しだけ罪悪感が和らいだ勢いに乗じ、俺は立ち上がった。気まずいなど言っていられない。服で隠れようと、彼女が受けた暴行はなかったことにはならないのだから。

 入り口に置いていた籠を持って戻れば、彼女はわかりやすく動揺した。空のカップを両手で胸元に引き寄せ、不安そうに光揺れる瞳で籠と俺を何度も交互に見ている。


あとになったらいけない。本業は鍛治師かじしだが、医療技能スキルもあるんだぞ」

「そうなんですかっ……凄いです! はっ、恥ずかしいですけど、はい。お医者様だと、思えばいいですよね」


 そこまで立派な技術ではないが、不安に思わせてもいけないので頷きを返す。鍛治師の仕事に怪我は付き物だ。いちいち診療所に行ってもいられないので、簡単な処置くらいはできるよう医術を学んだ。何となくで選んだ道が思わぬところで役に立つのだから、技能スキルというのは面白い。

 ソファに座る彼女の前に、騎士の真似事でもするようにかしずく。シャツの下から伸びる白い素足にそっと触れ、腫れた部分へ丁寧に軟膏を塗り込んだ。俺の指が触れるたび、萎縮するように彼女が身じろぎ、柔らかく動く尻尾の先が生き物のように揺れる。

 傷と打撲痕に薬を塗り、傷がついた部位には包帯もして、手当が一段落する頃には、彼女も安心と疲労で気が抜けたのだろう、眠そうに瞼を閉じかけ、耳と尻尾をくたりとしおれさせていた。洗いたての毛布(これはさすがに新品ではない)を肩にかぶせてやると、甘えるような上目遣いが俺を見る。変な気分が起きそうになるのを抑え込み、横になるよう促した。


「少し寝るといい、そうすればずいぶん楽になるから。服を調達してくれるようことづけるなら、誰がいい? 君が寝ている間に、連絡しておこう」

「でも、ここで私が寝ちゃったら」

「心配するな。工房にもベッドがあるから」


 彼女は何か言いたげだったが、ついに眠気に抗えなくなったのだろう。ブランデー入りホットミルクの効能かもしれない。


「は、い……では、お友だちに」


 辿々たどたどしく囁かれる名前には覚えがある。彼女と一緒に度々工房を訪ねてきた、彼女の学友だ。連絡先住所を書きとった頃には、安らかな寝息が聞こえてきた。

 あれだけ酷い目に遭わされたというのに、俺に対しては全く無防備で。それほどの信頼を寄せてくれていると思えば、言葉にできない愛おしさが込みあげて俺の胸を満たしてゆく。


 彼女がなぜ工房を訪ねなくなったかは、聞きそびれたままだ。

 目覚めた彼女が落ち着いた様子なら。きちんと向き合い、話を聞こうと心に決める。


 どれだけ言葉を交わし、一緒の時間を過ごそうと、人の心は直感などでは測れない。何となくの理解で満足せず、耳で声を聞き目を合わせて話し合うのは大切なのだと。

 毛布に包まり穏やかに眠る彼女の寝顔を眺めながら、俺は噛み締めたのだった。






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