第13話 血闘

 恭仁が退院して帰宅すると、居間の絨毯がフローリングへと姿を変えたことに先ず気が付いた。ソファやテーブルの位置は乱れ、壁には傷が刻まれ、大窓のカーテンは千切れかけていた。恭仁の切腹の残り香と、それを上回る義母の凄惨な発狂の爪跡が残されていた。家の時間はまだ止まったままなのだ。


 責任感に駆られた恭仁は、一先ず家中の掃除に取り掛かった。最初に神棚を整えて手を合わせ、調度品の埃を落として拭き上げ、掃除機と雑巾で床を拭い取り水回りを丁寧に磨き上げる。壁に残る狂気の痕跡だけはどうすることもできなかった。


 西洋レトロ調のダイヤル式電話機が着信音を響かせ、恭仁が受話器を取る。


「私は補修があって帰り遅いから、夕飯の準備はお願いね。あんたが入院してる時、私に散々手間かけさせたこと、忘れてないでしょうね」


 霧江からの皮肉を込めた言伝だった。香織は長期入院が必要で、いつ帰れるかすら分からない。利義は仕事が忙しくて帰宅もままならず、そのため家事は恭仁と霧江の分担という取り決めだったが、事実上は恭仁の手に委ねられたも同然であった。


 その日の夜は珍しく、利義が帰宅した。彼は、秩序の取り戻された我が家の光景に目を見張り、自分の役割を思い出した熱い浴槽に浸かり、稚拙でも温かい料理が並ぶ食卓を恭仁と霧江と3人で囲んで、この場に居る者が家族であることを思い出した。


 今こそ、話すべき時が来た。恭仁は決心し、鉄義と霧江に近い将来の展望について熱弁を振るった。示現流を除いて武道の習い事は辞めたいこと、射撃部でピストルの道を究めたいこと。自分のもう片方のルーツたる、二階堂家と相見アイマミえたい思い。


「あんた何ふざけたこと言ってるの! 自分の都合ばっかり好き勝手に!」

「落ち着け、霧江」


 声を荒げる霧江を利義が諫めると、彼は口をへの字に曲げ悩ましく唸った。


「善吉と話をしたようだな」

「はい。入院中に、叔父様が見舞いに来てくださり、お話を伺いました」


 利義は頷き、テーブルに肘を突いて組んだ手に顎を載せ、沈思した。叔父と義父の間で何らかの話があったらしい。霧江は不満そうな顔で恭仁と鉄義を交互に見つつも自分から積極的に話に口出ししようとはしなかった。


はお前の決心に異論を挟む気はない。親父が許すとは思えんがな」

「善吉叔父様も、似たような話をしました。お祖父様は僕が説得します」

「なら、から言うことは何もない。お前の思う通りにしてみろ」


 話はまとまりかけた時、今まで黙って聞いていた霧江が、箸をテーブルへ力任せに叩きつけ、裏切り者を弾劾するような眼差しで恭仁を指差した。


「私は納得していないから! 恭仁、あんたが今まで誰に育ててもらったか分かってその言葉を吐くの!? !?」

「そんな言い方があるか、霧江!」

!」


 恭仁の上げた痛切な叫びが、睨み合う鉄義と霧江を振り向かせた。赤面して涙ぐむ霧江に恭仁は正面から向き合い、力強い眼差しで正対して心から訴えた。


「義姉様の話は誤解も甚だしいです。僕が倉山の名字を捨て去り、竜ヶ島を出るなどあるはずもない。この家には恩も義理もある。二階堂家に会うのと倉山家の義理と、何の関係がありますか。倉山家にどんな思惑があるにせよ、何と言われようと僕には会いに行く必要があるんです。もう片方の家族に。それもまた義理だからです!」

「うるさい、バカ! 分からず屋! お前なんかもう知らない!」


 霧江は食卓に両手をついて恭仁に喚き散らすと、食べかけの料理を放置して居間を飛び出し、自室に駆け込み叩きつけるように扉を閉じた。恭仁が息をつく。


「霧江もお前の言うことは分かってる。、恭仁」


 鉄義は唐揚げを頬張ると、黒い盃の焼酎をきゅっと飲み干し、そう諭した。


 翌日、恭仁は久しぶりに高校へ通学し、教室に顔を出した。彼が歩み入ると教室の喧騒が一瞬途絶え、暫し後に至る所でひそひそ話が始まる。気にせず席に着く恭仁の目の前に、取り巻きの小姓を侍らせたナイスガイ、鷲津が仁王立ちした。


「おいおい倉山ぁ、自殺未遂って聞いたが、元気そうじゃねえか、ああ?」

「鷲津クンほどじゃないさ。自殺と言っても未遂だよ、。お陰で頭がスッキリして、今日から頑張れそうだよ」


 恭仁が笑って喉首をかっ切る意味深なジェスチャーを見せると、鷲津と取り巻きが明け透けに引いた。彼らの背後で、伊集院が恭仁を尻目に口角を上げる。


「ケッ、何自慢してんだよ、気持ち悪い。この気違いが!」


 鷲津グループが解散する姿を、恭仁は涼しい顔で見送った。恭仁が戦うべき相手は鷲津ごときのような低レベルなマウント野郎ではない。


 そして何事もなく1日の授業を終え、放課後。教室を出る恭仁の後ろから、速足で追いつき恭仁の隣に並ぶ女子生徒。伊集院だ。2人は隣り合って階段を降りる。


「伊集院さん。入院してる時は、勉強教えてくれてありがとうね」

「学校ではその話はしないって約束したでしょ」

「ゴメン、そうだったね」

「倉山クン、それより射撃部に入る気、本当に無いの?」

「今はがあって、そっちを優先したいんだ」


 伊集院は驚きに相好を崩し、階段で立ち止まる。気にせず降り続ける恭仁の背中を見ると、慌てて階段を駆け下りて、恭仁の隣に並んで鼻を鳴らした。


「やっぱり射撃やりたいんじゃん、倉山クン」

「色々あってね。いつ部活に入れるかも分からない状況なんだけど」

「卒業間近って時に入るなんて言ったら、承知しないから」


 1階に降りた2人が、下駄箱と射撃部の部室で逆方向に分かれる。恭仁は穏やかな笑みで伊集院に手を振った。伊集院はむず痒い顔でそっぽを向いて歩き出し、数歩の

後に立ち止まると、恭仁の背中を肩越しに見て歩き出した。


 恭仁は剣道場に顔を出した。祖父の鉄義に会うためだ。恭仁が話をしたいと鉄義に言うと、鉄義は無言で竹刀を手にし、恭仁に渡した。鉄義の意を酌んだ恭仁は道場の剣士たちが打ち合う横で、1日の稽古が終わるまで素振りに励んだ。


「話があります、お祖父様」


 稽古を終え、剣士たちの引き払った道場で、恭仁は鉄義に話を切り出した。


「僕は、二階堂家に行こうと思います」


 正座をして向き合う鉄義の、固く閉ざした双眸がゆっくりと開かれる。


「倉山家としては絶縁していても、僕は自分自身の目で確かめる――」

!」


 鉄義が傍らの竹刀を掴み取り、恭仁の言葉に被せて振り下ろす。恭仁もまた傍らの竹刀に手を伸ばし、鉄義の居合じみた面の不意討ちを受け止めた。


「お前は、俺の決めたことに逆らうつもりか」

「お祖父様がそう言うなら、そういうことになります」

「この親不孝者がッ!」


鉄義は瞬時に激昂してすっくと屹立し、立て続けに竹刀を振るった。恭仁は立ち上がって剣戟に竹刀を合わせ、振り回される竹刀を次々と受け流した。


「お祖父様に何と言われても、決心は変わりません。認めてください」

「俺に逆らおうなどと、10年早いわ! 俺の意見に逆らってまで自分の意見を認めて欲しければ、力尽くで倒せ。真剣勝負で、俺から1本取ってみろ!」


 それから、恭仁と鉄義の剣道場での死闘の日々が始まった。防具なしの真剣勝負。その実情は師範たる鉄義の一方的な勝ち戦だった。歴戦の兵の剣術に青二才の恭仁が太刀打ちできるはずもなく、道着の上からその身に竹刀を文字通りに叩き込まれて、何度となく容赦なく打ち倒されたが、恭仁は総身を打ちのめされつつも、鋼の意思でこれを耐え凌いだ。示現流の稽古が無い日は、剣道場に通い詰めて剣士たちと並んで稽古に励み、稽古が終わると、夜の剣道場で鉄義と繰り返しを交わした。


 顔に痣を作った恭仁の姿に、霧江や伊集院は顔を青褪めたが、決意を誓った恭仁は揺るがなかった。示現流師範の調所ズショや、利義や善吉は恭仁の在り方を尊重して、余り根を詰めすぎるなよと、男らしい励まし方で彼を後押しした。


 時間は忽ち過ぎた。ゴールデンウィークが過ぎ、梅雨明けを迎え、もう直ぐ夏休みというところまで時は過ぎれど、恭仁はただ一本たりとも本気の鉄義から取ることは叶わなかった。鉄義は手加減なしのエゴをぶつけた。惨敗を喫し続ける恭仁は霧江に呆れられ、何度も諦めるように唆されても、傷だらけで粘り強く鉄義と戦い続けた。


「恭ちゃん。最近はどんな感じだい」

「これが全然。お祖父様から一本取れる気配も無いです」

「親父に認められるのは生半じゃいかんだろうが、まあ気長に頑張れや」


 月に1度ほどのペースで、善吉は時間を作っては恭仁と顔を合わせた。恭仁はまだ携帯電話を持っていなかったので、連絡は家の電話に着信する。頻繁に電話を交わす叔父と恭仁に、利義は不干渉を通した。何かが変わろうとする兆しがあった。


 そして、夏休みを間近に控えた土曜日。恭仁は早朝に道着でランニングして朝食を摂り、学校に行って補修を済ませ、帰宅して昼食を食べた。それから家の掃除を軽く済ませると、庭の片隅に立てた示現流の立木を、木の丸棒で激しく打ちつけた。棒は木刀ではなく、刀の寸法に切り詰めた木材だ。激しい立木打ちに耐えきれず、木材は容易く圧し折れた。恭仁は折れる度に新しい丸棒を掴み木人に打ち込む。そうやって折れた木が、周囲には散乱していた。


 立木打ちと猿叫エンキョウの奏でる騒音に、恭仁が発狂したのだと勘違いした隣人が文句を言いに来たこともあり、道着姿の恭仁が出迎えると、殺気立った姿に隣人は退散し、代わりに鉄義へ文句を言った。彼が一喝して追い払ったのは言うまでもない。そんなこんなで、恭仁と鉄義の根気比べは続いていた。


 夕方になり恭仁は立木打ちを終えると、熱いシャワーを浴びるのと水風呂に浸かる交互浴を繰り返した。夕飯を支度する背中に、霧江からうるさいだの勉強の邪魔だの散々に文句を言われつつ、味噌汁を味見して頷き、今日も今日とて剣道場に赴いた。


「お願いします」


 防具を付けた稽古を終えて、門人の去った剣道場。恭仁と鉄義は、道着のみに身を包んで正座し、向かい合って黙想する。2人が腰を上げ、竹刀を抜いて正眼で構え、切っ先を交わし打ち合いを始めた。鉄義は還暦の過ぎた身体で10代の恭仁を上回る俊敏な機動力を見せ、いつも通りに始終自分のペースで恭仁を翻弄した。


「籠手、面!」


 幼い頃は痛みに涙した籠手への打撃も、恭仁は耐えだ。示現流で鍛えた一撃必殺の力ありきの打撃で勝ちを取れる、剣道師範マスターの鉄義は甘くない。正々堂々の打ち合いを制して勝ちを取る他ないのだ。恭仁は殆ど朦朧としながら竹刀を握り、鉄義とつかず離れずの間合いで切っ先を交わし、鍔迫り合いを真っ向から受け止めては撥ね返し、自分から打ち込んでは鉄義に捌かれ、躱され続けて、それでも諦めずに祖父へ向かい続けた。向き合うただ2人、互いの汗が熱気となって道場に満ちていた。


「突きいィッ!」


 機先を制する鉄義の素早い一撃。恭仁は後退せずに、最小限の動作で突きを捌いてカウンターの面を打たんと振りかぶる。鉄義は素早く後退する。普段なら深追いせず仕切り直しを図るところだ。恭仁は敢えて追撃した。それは、彼の脳がそう考えたというよりは、身体が勝手に動いた。あれやこれや思考は朦朧たる脳内から消え失せ、より肉体に近い脊髄の反射が脳の指揮を代行する。鉄義は後退して回り込みつつも、隙あらば打ち込まんと竹刀を幾度となく変幻自在に振るった。恭仁はその度に辛くも打ち込みを捌き、食らいつき、鉄義に体勢を整える時間を与えまいと前進し続けた。恭仁は数ヶ月間の死闘を越えて、着実に成長していた。立木打ちの荒稽古で疲弊した心身が、無駄な動きを切り捨て鉄義の流水のごとく動きに追従する。鉄義は顔の皺を深め、双眸を細めて、なおも恭仁を打ちのめさんと油断なく竹刀を構える!


「突きッ!」


 恭仁が鋭く間合いを詰め、突き返す! 鉄義はそれを弾きつつ、円の歩調を描いて回り込み、恭仁の面に打ち込む! だがそれはフェイント! 恭仁がすかさず竹刀を引いて切っ先を上向かせると、鉄義は無防備な胴に踏み込み鋭い打ち込み! 恭仁は予期していたように鋭く竹刀を振り下ろし、鉄義の胴打ちを弾き逸らす! 舌を巻く鉄義がバネ仕掛けじみて勢い良く後退、弾かれた竹刀を構え直そうとしたが、恭仁の踏み込みが早い! 両者、竹刀を突き出して組み合い、鍔迫り合い!


「恭仁ィッ! 貴様そこまでして、あの腐れ外道どもの家に行きたいか!」

「腐れ外道かどうか! 、お祖父様!」

「威勢のいい口は、俺から一本取った後に叩いてみろ!」

「いつまでも負け犬のままでは、いられませんッ!」


 鉄義が歯を剥いて蒸気のごとく鋭い息を吐き、恭仁は赤熱する鍛鉄のような不屈の闘志を双眸に燃やす! 両者、鍔迫り合いする腕に渾身の力を込めて、竹刀が音高く軋んだ! 暫しの拮抗状態、沈黙と不意の脱力、そして突き飛ばし! 後退る両者が竹刀を構え直して、互いを討たんと踏み込む! 鉄義は咄嗟に素早い籠手を狙うも、肝心の籠手に切っ先が届かず迷いが生じる! 恭仁は咄嗟に竹刀の切っ先を大上段に突き上げ、両手と柄を耳の横まで持ち上げていた!


「ヌッ!? 恭仁、貴様ァッ!?」


 示現流の蜻蛉を取って、恭仁は鉄義の彷徨う切っ先を痛烈に打ち下ろす!


「エェーィッ! エエエェーィッ!」


 恭仁の踏み込みは止まらない! 竹刀を恐るべき速度で再び跳ね上げ、面!


「ヌグゥッ!?」


 一撃必殺の勢いを乗せた竹刀の打撃が、鉄義の額を伝わり彼の正中線から地面へと突き抜ける! 鉄義は倒れまいと歯を食いしばって踏み止まり、両者動きを止めた。


「……フン。一本取られちまったか」


 鉄義は鼻を鳴らし、竹刀を下ろして呟く。恭仁は息を吐いて油断なく残心した後、竹刀を正眼に構えてゆっくり後退る。鍛鉄のごとく熱い瞳で最後まで鉄義を見続け、竹刀を納め、一礼。鉄義はどっかりとその場に座ると満足げな顔で恭仁を見上げた。恭仁に一本取られた額は、赤く痛々しく腫れ上がっていた。


「やれやれ。てっきり情けねえ面で泣き落としすると思ってたんだがな!」

「そんなことで認めてもらっても、意味が無いんです」


 恭仁がすらりと正座で腰を下ろして告げると、鉄義はカッカッカと笑った。


「意味なんかねえよ。どうせジジイの下らねえ遊びだ。1日2日ぐらい痛めつければ諦めると思ってたのによ、何ヶ月も勝つまで粘り続けると思わんだろ。条件を出した手前、引っ込みもつかねえしよ。お前の勝ちだ、恭仁。俺は疲れちまった」


 つくづく理不尽な人だ。恭仁は肩を落とし、鉄義に苦笑を向けた。


「勝手にどこへでも行け、バカ者が。後悔しても知らんからな」

「認めていただいて、ありがとうございます」


 腕組みして鼻息を荒くする鉄義に、恭仁が三つ指を突いて平身低頭した。

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