第3話 古の武

 恭仁、10歳の時。小学校で半成人式を終え帰宅すると、玄関に揃えられた大きな革靴に目をやって息を呑み、表情を落胆させた。その靴は見紛うはずもない、恭仁の父親・利義の物だった。恭仁の脳裏で、居間のソファに座って腕組みし、亭主関白の気風を漂わせる武骨な男がありありと浮かんだ。得も言われぬ暗い闇のごとく不穏なオーラが、圧迫感が充満していた。恭仁は今すぐにでも逃げ出したくなった。


 今日は早くに帰れると思ったのに、どうしてこんな日に限って。


 父は竜ヶ島中央署に勤める刑事であり、普段は多忙で家を留守にしがちであった。恭仁は実際のところ、父親の留守に安堵を覚えども、不安は覚えなかった。倉山家で一つ屋根の下暮らす他の家族と同様、父親もまた、彼の恐怖の対象だったからだ。


 ドアを開いた手が凍りつき、足が凍りつき、戸口から進まない。恭仁は暫し逡巡し観念すると、玄関に歩み入って靴を脱ぎ、俯いて式台に一歩足を踏み出す。顔を上げ廊下に踏み出すと、開け放たれた居間の引き戸ごしに、ソファに座ってこちらを見る父親の逆三角形の顔に光る黒縁眼鏡と、まともに顔を見合わせてしまった。瞬く間に恭仁の口の中が乾き切り、瞬間的に跳ね上がる心拍と荒ぶる呼吸を、必死に鎮めた。


「ただいま戻りました、お父様」

「ウン」


 大柄な父親の背中から、霧のように放たれているオーラじみて、不穏な圧に恭仁はたじろぎ、挨拶して小さく会釈すると、逃げるように自室に向かおうとした。


「オイ、恭仁」


 父親に呼び止められ、恭仁の心臓がバクンと跳ねた。


「はい、お父様」

「一緒に行きたいところがある。直ぐに着替えて来い」

「はい」


 是も非も無い。父が行くと言えば、子供はそれに従うのみだ。恭仁は心中で父親と鉢合わせた不運を呪うと、自室に戻って背負ったランドセルを机の縁に吊り下げた。服を着替えろと言うのはどういうことか。恭仁にはまともな用事でないことが直ぐに理解できた。運動しやすい服を選ぶべきだろう。


「オイ、早くしろ!」

「はい!」


 廊下の奥から怒声が飛んできて、恭仁は是も非も無く大声で言葉を返した。


 恭仁がジャージの上下を着て戻ると、利義はしかつめらしい表情で頷いた。屋敷の外に出て、庭の砂利を踏み鳴らし乗用車に歩み寄る。黒光りする5代目セドリックの運転席を開いて、父親が腰を下ろす。恭仁が後部座席に乗ろうとすると、「オイ」と父親が呼ばわった。恭仁は渋々助手席に乗った。直列6気筒のターボエンジンが火を入れられて唸りを上げる。恭仁にはそれが、蒼褪めた馬ペイルホースの嘶きのように聞こえた。


 2人を乗せたセドリックが走り出す。行き先など恭仁には知る由も無い。


「オイ、恭仁」

「はい」

「学校で殴り合いの大喧嘩したんだって? それも上級生と」

「はい」


 恭仁は父の言葉に身を震わせ、昔より少し背の伸びた身体を、助手席で縮こめた。


「馬鹿にされてブン殴られたからって、箒を持って追いかけ回したそうだな。相手の上級生をブッ叩いて顔面は血だらけ、学校中が大騒ぎだったらしいじゃないか」

「はい」


 利義は無表情でシフトレバーを操作し、車をのんびりと走らせる。


「母さんが謝りに行ったそうだぞ、相手の子供の家に」

「はい」

「子供の喧嘩だ。俺は謝る必要などないと言ったが、母さん聞かなくてな」

「はい」

「いいか、恭仁。道場で負け続けた憂さ晴らしに、素人をブッ叩くなど言語道断だ。剣道で養うのは心の強さだ。俺はお前の喧嘩道具にするために、剣道を習わせているわけじゃない。そこを履き違えることは罷り成らんぞ」

「はい」


 恭仁はギクリと肩を揺すり、父の顔も見られずに震えて言葉を返した。


「余り母さんを心配させるなよ、恭仁」

「はい。ごめんなさい、お父様」


 恭仁は涙目で噛み締めるように言った。弱虫の恭仁は、学校の不良たちには格好の標的だった。罵声を浴びせられたり、小突かれたりして泣き出すたびに、弱虫毛虫と馬鹿にされた。ある日、一線を越えた一人の上級生が、彼の頬を本気で殴った。


 暴力には慣れていたから、殴られたことそれ自体や暴力の痛みにショックを感じたわけではない。殴られた恭仁の心に咄嗟に浮かんだ感情は悲しみではなく、凄まじい恐怖だった。絶対にやり返さないと。は倉山家の家訓だ。恭仁は幼い頃からそう教わってきた。殴り返さずに帰ろうものなら、家でまた折檻される。


 怖いのは子供から殴られることじゃない。大人から殴られるのは、もっと怖い。


 だがやり返そうにも、上級生より体格で劣る小さな恭仁は現実問題、そのままだととてもじゃないが上級生に太刀打ちできない。恭仁は恐怖で強迫観念に囚われ、箒を手にして殴った上級生を死に物狂いで追い回し、謝罪の言葉も聞かず殴り倒した。


 敵討ちを果たして安堵していた恭仁を待っていたのは、学校に呼び出された母親が激怒の余り赤面して放った、公衆の面前での平手打ち。帰宅すると祖父の鉄義からも木刀の一撃でお仕置き。兄や姉からも恥晒しと言われ散々に痛めつけられた。恭仁の復讐を褒め、庇い立てする者は誰も居なかった。恭仁は訳も分からずに泣いた。


 なぜなのか。


 ともあれ、学校で弱虫の恭仁に喧嘩を売る者は誰も居なくなった。遠巻きに罵声を浴びせられることはあったが、恭仁が近づくと誰もが逃げ出した。


 思い返していた恭仁は、車が停まったことに気づいて我に返る。


「降りろ。行くぞ」

「はい」


 何かの道場だ。またかと恭仁は落胆した。決して、他の何かを期待していたというわけでもないのだが。また何か痛いことをさせられるに違いない。そう思うと恭仁の足取りは鉄下駄を履いたように重くなる。行きたくない。彼の思いを余所に、父親の利義は恭仁の腕を取ってグイと引き、道場の扉を開いて中に引きずりこむ。


 道場には、奇怪な叫び声が満ちていた。恭仁が今まで見て来た剣道とは様相が些か異なっていた。老いも若きも太い木の棒を振るい、床の上に直立させた大きく無骨な木の幹に歩み寄り、決死の絶叫を上げて木の棒を叩きつけていた。何度も左右から。


 何だこれは。奇妙奇天烈な光景にたじろぐ恭仁には構わず、道場の奥から進み出た道着姿の師範と思しき老人と、一歩進み出た利義が会釈を交わした。


「お世話になります」

「いやぁこちらこそ嬉しいですよ! 倉山さんのご子息に稽古をつけられるとは実に光栄です! 倉山師範はお元気でいらっしゃいますか?」

「えぇまぁボチボチで。けれども斯く斯く云々の事情でして、恭仁には二度と稽古をつけんと匙を投げてしまいましてな。調所ズショ師範のお世話になります」


 父親の言葉に、恭仁は始め驚き、次いで落胆した。祖父の道場で剣道をしなくても良いのは嬉しいが、他に武道を見繕われるのは不本意だ。放っておいてほしいのに。


「えぇ、えぇえぇ聞いてますよ。まぁ無理強いしても続きませんからね、最終的には恭仁くんの気持ち次第にはなりますがね、ハイ。今日は体験ってことで固く考えず」

「そういうわけだからな、恭仁。お前は今日から示現流を習え」

「はい。お世話になります」


 剣士たちの猿叫エンキョウが轟く道場の中、恭仁は調所という皺深い初老の男に畏まり頭を下げた。父親がやれと言えば、是も非も無い。いつもと同じだ。恭仁の心がどうあれ周囲は勝手なことを彼に押し付ける。木と木がぶつかり合い火薬めいて爆ぜる音に、恭仁は血が凍る思いをしながら調所師範を見上げた。


「まあそんなに畏まらないで。恭仁くん、剣道はやったことあるんだよね」

「はい。道場では皆から打たれて、負けてばかりでしたが」


 利義が調所を横目に一歩下がると、調所が一歩踏み出した。彼は腕組みして恭仁の言葉にうんうんと何度も頷いた後、カッと目を見開いて恭仁を見下ろした。


「敢えて言おう。我々が修める示現流は、道場剣術とは別物だ。こんなことを言うと倉山師範には悪いが、今まで習った剣道は一旦忘れ、一からやり直すと考えろ」


 調所は恭仁を手招きして、道場の一角に積まれた木の棒――としか言いようのない物体の中から、細い物を選んで彼に手渡した。乾燥したイスノキの歪な棒だ。恭仁は竹刀のつもりで棒を手に取り、ずしりとした重さに驚いた。木の皮の手触りと微かな大地の香り。柄に革を巻いた竹刀とは異なる感触。これを振るい、立木を叩くのだ。


 2人の側では、言語を絶する叫び声と共に、門下生たちが木の棒を振るって、人に見立てた立木を――文字通りの木人を左右から打ち据えていた。竹刀と防具を用いた剣道の打ち合いとは根源的な何かが異なる、異様な熱気と殺気が漲っていた。


「示現流の剣術は一撃必殺。一撃で相手を打ち倒す勢いで何重もの太刀を一声の内に叩き込む。どれ、手本を見せてやろう……こんな感じだ。エェーィッ!」


 門下生たちが脇に退いて道を開け、調所が恭仁よりも数段太い木の棒を握り掲げて進み出る。それは『蜻蛉を取る』と称す、太刀を握った両手を耳まで持ち上げ、天を突くように切っ先を掲げた、示現流独特の構えであった。


「エェーィ! エェーィ! エェーィ!」


 打つ、打つ、打つ、打つ! そして打つ! 刀に見立てたイスノキの棒を、頭上に振り上げると立木に振り下ろす! 左右から! 調所は猿叫と称する気合いを一度に放つたび、立木を両断せんばかりの勢いで5~6回ほど打ち下ろした。


「エェーィ! エェーィ! エェーィ!」


 調所は仕上げとばかり蜻蛉を取り、猿叫ごとに重みのある袈裟懸けの太刀を一度、二度、三度、立木に打ち下ろした。立木の地肌に、打撃で煙が上がるように見えた。


 調所は棒を正眼に構え、摺り足で後退って立木と向き合った。それからもう一度、摺り足で立木に歩み寄っては、鋭い猿叫と共にトドめの一撃を加えた。


「といった感じだ、恭仁くん。やってみなさい」

「はい」


 先ず打撃ありき。極限までシンプルであるがゆえに、子供にも分かり易い威圧感。度肝を抜く示現流の演武に、恭仁は内から溢れようとする感情を抑えられなかった。


 恭仁が気付いた時には、彼の身体はイスノキの棒を天高く突き上げ、幕末を官軍と戦った逆賊がごとく、死力を振るって立木を打っていた。憎い者らの顔が次から次へ脳裏を過る。今までのどんな剣道の立ち合いよりも声を張り、木人へ手向かった。


「いやぁ、流石は剣道やってただけあって、構えが綺麗ですなぁ」


 無表情で様子を見守っていた利義に、調所が歩み寄って気さくに嘯く。


「初めて見た気がします。恭仁のあんな熱心に剣を振るう姿は」

「人には向き不向きがありますしね。示現流の刀は抜くべからざるもの、とは開祖の教えですが、立木打ちの鍛錬の内にを知ればこそ、恭仁くんもまたそうしたというのを、気づいてくれたらと願うばかりですなぁ」


 おもむろに飛び出した調所の言葉に、利義は振り向いて頷き、苦笑した。


「成る程、親父の教える剣道とは何もかも違いますな。勉強になります」

「胡乱な剣術と見られる向きもありますがね、我々にとっては誇りですよ」


 それから恭仁は、倉山利義の4子の中ただ1人、祖父・鉄義の道場を抜け示現流の門下生となり、調所師範の手解きを受ける。竹刀の打ち合いという、他者との闘争に依ってではなく、木人への打ち込み……そして形稽古という己との悠久の対峙により研鑽を積む、古武道・示現流という新天地は恭仁の心に自信と熱意を取り戻させた。


 しかし倉山家の中では依然として彼の立場は落ちこぼれのままであり、匙を投げた祖父との溝は埋まることなく、兄や姉との喧嘩も母親の折檻も相変わらずの様相ではあったが、示現流と出会った恭仁の心の鬱屈は、立木打ちの中で自然と鎮まった。

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