第2話 戦士の片鱗

 古い剣道場の板間に、裂帛の気合と打撃音が交錯した。道着に防具をまとう小柄な少年が、覚束ない手で竹刀を構えてにじり下がった。金網で顔を覆う面の内で、汗に塗れた少年の顔は涙目である。恭仁、7歳の時だった。


 恭仁より頭一つ大柄な剣道着姿が、面の奥で鋭い眼光を放ち、彼に対面して竹刀を構えた。面を予期した恭仁は下がりつつ竹刀を掲げるが、動きを読んだ相手は素早い踏み込みで逃さず、恭仁の籠手に一撃を打ち込んだ。


「痛い!」


 痛みによろめく恭仁が竹刀を取り落とす間もあればこそ、相手は踏み込んで強引に恭仁と鍔迫り合い、恭仁を押し込めては突き飛ばしもう一撃、痛烈な面を浴びせた。恭仁はジリジリと疼痛を発する片手を押さえ、膝を折った。


「痛いよ!」

「弱いんだよ、クソチビ!」


 跪く恭仁の前に屹立し、巨人めいて影を落とす剣士、その面の奥から少女の甲高い声が恫喝じみて響いた。倉山霧江、恭仁より2歳年上の姉だ。背丈は同年代の男子を凌いで一際大きい。傍らで大人と打ち合う2人の少年、兄の貞義と隆市の体格もまた背高の剛健であり、末弟の恭仁だけが小柄だった。


「泣くな、弱虫!」


 霧江の怒号に、恭仁はビクリと肩を窄めて萎縮した。子供の体格差とは、即ち力の象徴であり、武を極める道場で対すれば一層それは際立つ。こと長身の兄姉の存在は超えられない壁そのものとなり、恭仁の前に立ちはだかった。


「稽古にならないだろ! 早く立て!」

「嫌だよ!」

「我が儘言うな!」


 霧江は感情の高ぶるまま怒鳴り散らすと、痺れを切らして恭仁の道義を掴み有無を言わさずに彼を立たせた。面の奥で瞳が輝き、ニヤリと口元が意地悪く笑っていた。力も技術も自分より劣る恭仁を、稽古の名の下に傷めつけたくてしょうがないのだ。恭仁は兄弟姉妹の中で、格好の鬱憤晴らしの標的だった。


「悔しかったらかかってこいよ! ホラ! ホラ!」

「止めて! 止めてよ!」


 恭仁が自分を庇うように竹刀を立てて後退れば、霧江が竹刀を振りかざして前進し前後左右の隙から打撃を咥える。恭仁は完全に戦意喪失し、碌に反撃すらできず殆ど一方的に竹刀を打ち込まれ続けた。面の内でボロボロと涙が流れた。


「痛いよ! もうやりたくないよ!」

「ホンットに気持ち悪いな! 男なら泣いてんじゃねえ! コラ!」


 霧江が力任せに竹刀を振り下ろし、真正面から恭仁の面を打ち据えて、道場の床に叩き伏せた。周囲で鍛錬している剣士たちは、その姿に一瞥もくれぬ。恭仁が霧江に散々やり込められるのは、いつもの道場の風景だった。武道は強い者が全てであり、修練に励む彼ら彼女らの中で、恭仁に同情なする者など居ない。霧江と恭仁は道場の中で最年少であったが、その性格は正反対であり、霧江は体格同様に闘争心の強さも男勝りで、兄にも大人にも臆することなく、果敢に打ち込んで来る。倉山家の血筋をそこはかとなく匂わせていた。対する恭仁は、5歳から剣道を続けてもこの様だ。


「何をやってるんだ恭仁! そんなに稽古がやりたくないなら出ていけ!」


 剣道場の奥で目を光らせていた、道着姿の初老男性が屹立し猛犬じみて吠え猛る。彼は倉山鉄義、倉山4兄弟の祖父であり、彼ら彼女らが最も恐れる師範だった。


「い、嫌だ……やります! 稽古やります!」


 恭仁は震え上がり、泣き腫らしつつも己を強いて立ち上がる。言葉通りに道場から逃げ帰ったが最後、壮絶な折檻が彼を待っている。祖父のみならず、母親からもだ。一般的に末子というのは甘やかされがちだが、倉山家に限ってそんな例外など無い。武士の末裔、警察一族の誇りに背かぬよう、草派の影から先祖に笑われぬよう、幼い頃から上下関係と礼節と根性を、文字通り徹底的に叩き込まれ厳しく育てられる。


「打って来い!」

「うわああああ!」


 恭仁はボロボロと落涙するのも隠さず、ただ折檻への恐怖から立ち上がって竹刀を掲げ、気勢を上げて闇雲に霧江へと突っ込んだ。闘争を好まぬ性格の恭仁にはまこと地獄じみた時間だった。霧江は恭仁の打撃を易々いなし、鍔迫り合いに持ち込んでは恭仁の惰弱な力を嘲って突き飛ばし、返す竹刀で容赦なく叩きのめすのだった。


「うううーッ……うううーッ」

「泣いて許されてると思ってんのか! さっさと立て!」


 恭仁の尊厳は剥奪され、徹底的に痛めつけられた。彼は自分の無様な醜態を衆目に晒され嘲られる屈辱を深く心に刻んだ。何でこんな目に遭わなければならないのか。祖父で師範の鉄義は険しい顔で道場を見据え、逃げ腰の恭仁がどれほど兄や姉たちに傷めつけられても、一言も口を挟まない。孫に対する愛情は鉄義にも当然あったが、倉山一族の愛情とは甘やかさぬこと、子孫に武を極めさせ、以って鋼の心を鍛えさせツハモノとする、名門の自負心に裏打ちされた帝王学……例えるなら猛獣の親心だった。


「あああおおおおうッ!」


 恭仁は今や野獣のごとく吠え、心と体の痛みに耐えて立ち、霧江を目がけて竹刀を突き出した。恭仁の突進に油断して構えていた霧江は、恭仁が遮二無二放った突きを咄嗟に捌けず、革巻きの切っ先が前垂れの喉を突き悶絶、白目を剥いて昏倒。


「霧江!」

「大丈夫か!」


 周囲で鍛錬していた兄や大人たちが、倒れ込む霧江の姿に竹刀を放り出して次々と駆け寄った。鉄義までもが。幼年期の恭仁や霧江は突き技を許されておらず、彼女が突きに無警戒だったのも無理からぬことだった。恭仁は目の前で介抱される姉の姿に理不尽さを呪った。家に戻れば、また折檻が彼を待っている。

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