ルナシー

明日key

ルナシー

 月には引き寄せる力がある。万有引力の法則で地球と月が引き合っている周知の事実を言おうとしているわけではない。人も月に大きく惹かれているのだ。

 夜中に窓を開けて部屋が外気に溶け合う。月の海と陸が輝きに満ちる。

 ゴム磁石をはがす音を立てて冷蔵庫を開く。グラスに注いだウイスキーをこくんと呷った。氷を入れてもいない酒に月がおぼろげに映り込んだ。まるで夜の陽炎だ。

 凡人は月の模様にうさぎを見いだす。また、蟹が見えるというのも早計で子供っぽい。いや違うんだ。あの月には見上げる女の子の顔が浮かんでいるのだ。

 酒を飲み過ぎたか、頭がくらくらして畳の上に背中をつける。目を閉じて気持ちよさに浸ると、女の子の声が聞こえてきた。

 ゆっくり目を開く、空耳の類だと思ってすぐ目を閉じようと決め込んでいたのに。月光で照らされた窓辺に人の影が差し込む。

「嘘だろ?」

 そこには月に浮かんだ顔をした女の子がいた。タンクトップにハーフパンツという軽装で。

 俺はその女の子にいつか会いたいと思っていた時がある。俺もかつて凡人で。あの月にいるのはうさぎだという固定観念の見え方から脱して、女の子の顔に見え始めたときから、俺は彼女に会いたかった。

 女の子の指先が俺の髪に触れる。まるで動物を愛玩として扱うように。艶やかな手だった。

 見られるだけのはずだった月が、いま俺を見ている。その月が俺の顔に直接触れてくる。

 若者が最近推し活をしていると聞く。何を言っているんだ。俺はもっと昔から月を推しているというのに。

 だがそんな言葉では足りない。けっきょく俺はルナシーなのである。月に酔っているのだ。

 笑顔を見せる。いつもは月で寂しそうな顔をする彼女が、爽やかな笑顔を見せる。


 目を見開く。朝になっていた。なんだ、ただの夢だったのかと、落胆する。

 だが午後七時にしては外がわずかに暗い。

 俺はテレビをつける。ニュースで生中継の映像が流れる。

「今年最高の天体ショーです!」

 何だろうと思って、俺は映像に釘付けになり見入る。

 皆既日食だった。そうか忘れていた。今日がその日である。

 開け放ったままの窓を開け、俺は空を見た。この場所からでも皆既日食は十分に見られた。付近を見ると、黒い専用のグラス越しに誰もが太陽を見る。

 太陽を見る?

 いや違う、俺たちは月を見ているのだ。太陽が食われるところを見ているのであって、その月の壮大さを見ている。そのことにみんな気づかず、太陽に魅入られている錯覚に気づかない。

 月影。太陽と地球に大きな影を落とす。

「あんな美しい太陽を見られて、とても幸せです」

 テレビを通じて、ライブ中継の人間は、何を馬鹿なことを言っているのだろうか。

 けっっきょく皆はルナシーであることに気づかない。太陽を食らう月の存在が大きすぎて、誰も気づいていない。

 朝食を取りに冷蔵庫から食料を出しに行くと、窓辺でゴトッと音がする。

「僕は太陽を盗める」

 あのときの彼女がそこにいた。

 僕は彼女のことが好きだ。なぜなら俺が一番のルナシー。太陽を消す月に惹かれるルナシーなのだ。そして日食に魅入られる人間はすべてルナシー。すべてがルナシーだ。

 月には引き寄せる力がある。万有引力の法則で地球と月が引き合っている周知の事実を言おうとしているわけではない。人も月に大きく惹かれているのだ。

「それじゃあね、君がずっとルナシーであるように」

 そう言いながら彼女の姿が消えた。

 きっとまだ夢の中にいるに違いない。その夢に浸って、俺はルナシーであり続けたかった。

「さて、酒は残ってたかな」

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